第7章 第202話 幸福を与える者
白い世界だった。
空も、地面もない。
どこまでも続く白の中に、ユウトだけが立っている。
「……フィーナ?」
返事はない。
「アイリス! エリシア! セレス! レティシア!」
誰の声も返ってこなかった。
通信魔道具へ触れても反応はない。
魔力感知を広げても、仲間たちの魔力を捉えられなかった。
「精神世界……?」
ユウトは自分へ【鑑定】を使う。
────────
【状態】
肉体:現実世界に存在
精神:上位存在との接続中
精神干渉:検出
精神支配:確認不能
意思決定能力:現時点で異常なし
【警告】
対象領域は通常世界法則の影響外です。
表示情報の完全性を保証できません。
────────
「保証できない、か」
ユウトは小さく息を吐いた。
【鑑定】まで信用し切れない場所。
それだけで、相手が今まで遭遇してきた存在とは違うことが分かる。
『それでも、見るのだな』
声がした。
前からでも、後ろからでもない。
白い空間そのものが震えたような声だった。
遠くに、人影が現れる。
一歩近づくたび、姿が揺らぐ。
青年に見えたかと思えば、次の瞬間には老いた男にも見える。
女性の横顔が重なることもあった。
白い衣の裾には、黒い靄がまとわりついている。
その周囲を、一瞬だけ何かが横切った。
色褪せた仮面。
壊れた人形。
ひび割れた盤上の駒。
どれも見えたと思った瞬間には消えている。
「ヴォイド」
『その名を知ったか』
ユウトは【鑑定】を向ける。
────────
【名称】
ヴォイド
【種別】
神格存在
【権能】
――解析妨害――
【詳細】
――閲覧不能――
────────
それ以上は何も見えなかった。
『知ろうとする』
ヴォイドは怒らなかった。
『良いことだ』
「知識神の加護をもらってるからね」
『だから、お前には興味がある』
「俺に?」
返事の代わりに。
白い空間へ色が戻った。
石畳。
店。
広場。
知らない町が形作られていく。
多くの人々が歩いている。
皆、笑っていた。
露店で果物を落とした少年がいる。
隣にいた少女が拾って渡す。
少年は笑い、少女も笑う。
怒鳴り声はない。
『ここでは、争わない』
別の場所では、二人の職人が同じ仕事を奪い合うことなく笑っている。
『奪わない』
裕福そうな女性が美しい装飾品を身につけて歩いても、羨望の視線を送る者はいない。
『羨まない』
ヴォイドはそれ以上説明しなかった。
ただ、幸福そうな町を見せている。
「……町でやってたのと同じか」
『近い』
景色が再び変わる。
古びた建物。
並んだ寝台。
大勢の子ども。
ユウトの呼吸が止まった。
「……」
完全に同じではない。
壁の色も違う。
部屋の広さも違う。
それでも。
孤児院を思い出すには十分だった。
一人の少年が、扉の前に立っている。
別の子どもが、大人に手を引かれて出ていく。
少年は何も言わない。
ただ見送っている。
ユウトの拳が、無意識に握られた。
『これは、お前の記憶ではない』
「……え?」
『似た記憶の欠片を拾っただけだ』
ヴォイドの声は穏やかだった。
『だが、お前は知っている』
養子として選ばれる子。
残される子。
期待しないようにする子。
『望めば、叶わなかった時に傷つく』
ユウトは視線を逸らした。
「……だから、望まないようにしろって?」
『そうは言っていない』
景色が消える。
『私は、傷つかなくて済む道があると言っている』
「町の人たちみたいに?」
『彼らは苦しんでいなかった』
「カイルは苦しんでた」
『ならば、彼も苦しまなくて済むようにすればいい』
ユウトの眉が寄る。
「それを本人が嫌がったら?」
短い沈黙。
『嫌がる理由が、苦しみから生まれたものなら』
ヴォイドは静かに言った。
『その苦しみを取り除けばよい』
ぞくりとした。
怒鳴らない。
脅さない。
当然のこととして言っている。
「……本人の気持ちは?」
『幸福になれば、苦しむ必要はない』
答えになっているようで。
なっていない。
ユウトはそう感じた。
その時。
町の景色に別のものが混ざり始めた。
リバーシの盤。
カルタ。
回すコマ。
積み木。
木片芝居。
童話集。
知恵の輪。
ユウトがこの世界へ持ち込んだ娯楽だった。
『お前も、人へ与えている』
「……何を?」
『知らなかった楽しみを』
子どもたちがカルタを囲む。
冒険者たちがリバーシで笑う。
木片芝居に見入った親子がいる。
『退屈だった者へ遊びを』
『文字を知らなかった者へ学ぶ喜びを』
『物語を知らなかった者へ、新しい物語を』
ユウトは黙って聞いていた。
『私は、お前が間違っているとは思わない』
「じゃあ何が言いたいの?」
『なぜ、途中で止める』
「途中?」
ヴォイドの視線が、遊ぶ人々へ向く。
『楽しませるなら』
一人の子どもがリバーシから離れる。
別の遊びへ向かう。
『迷わせなくてもよい』
その子どもの足が止まった。
『最も幸福になれるものを選んでやればよい』
ユウトはヴォイドを見る。
「……誰が?」
『幸福を知る者が』
それ以上は言わなかった。
だが十分だった。
「俺は……」
ユウトはリバーシ盤を見る。
「やりたいって言った人に渡しただけだ」
『それでも、お前がなければ彼らは知らなかった』
「うん」
『ならば、お前が選んでも同じではないか』
「……同じじゃない気がする」
『なぜ?』
ユウトはすぐには答えなかった。
今までなら。
本人が決めればいい。
そう言って終わらせていたかもしれない。
だが町では。
本人たちは「幸福だ」と答えていた。
その言葉を、全部偽物だと切り捨てるのも違う気がした。
「……まだ、上手く言えない」
『それでよい』
ヴォイドは、むしろ満足そうだった。
『考えろ』
その言い方が。
ほんの僅かだけ、ソフィエルを思い出させた。
だからこそ、余計に気味が悪かった。
「なんで俺に、こんな話をするんだ?」
『お前が、楽しみを生み出しているからだ』
ヴォイドの周囲に。
一瞬だけ、色褪せた舞台幕のようなものが揺れた。
『この世界には長く失われていたものを』
「失われてた……?」
【鑑定】が勝手に反応する。
────────
【未知権能断片を検知】
【旧権能候補】
遊――
――解析妨害――
────────
「今のは……」
『まだ知らなくてよい』
「じゃあ何で見せたの?」
『私は何も見せていない』
ヴォイドの微笑が僅かに深くなる。
ユウトの背筋に冷たいものが走った。
【鑑定】が拾った。
ヴォイド自身も、完全には抑え切れていない何か。
『ユウト』
初めて。
名前を呼ばれた。
『お前は、人を喜ばせることができる』
ヴォイドは手を差し出さなかった。
ただ、目の前に立っている。
『だから』
一拍。
『私を否定する前に、見てほしい』
「何を?」
白い世界に亀裂が入った。
向こう側に。
一つの町が見える。
炎上していた。
男が崩れ落ちた家の前で、血まみれの子どもを抱いている。
何度名前を呼んでも、子どもは動かない。
少し離れた場所では。
武器を持った二つの集団が互いを憎しみに満ちた目で睨んでいる。
その原因が何なのか。
ユウトにはまだ分からない。
『あれも』
ヴォイドの声が響く。
『選んだ結果だ』
ユウトは何も言えなかった。
『私は問いたいだけだ』
炎が広がる。
泣き声が響く。
『なぜ』
ヴォイドの声だけは、どこまでも優しかった。
『苦しむ可能性まで守る?』
次の瞬間。
白い世界が砕けた。
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