第1章 第2話 初めての【鑑定】
獣が地面を蹴った。
湿った土が跳ね、黒い角が一直線に迫ってくる。
「うわっ!」
ユウトは考えるより先に横へ転がった。
肩から地面へ落ち、背中を太い木の根へ打ちつける。鈍い痛みが走り、肺から空気が押し出された。
「痛っ……!」
痛い。
白い世界では存在しなかった感覚が、嫌になるほど鮮明だった。
だが、身体が戻ったことを確かめている場合ではない。
獣は勢いを殺しきれず、ユウトの横を通り過ぎた。四本の脚で土を削りながら振り返り、牙を剥いて低く唸る。
狼に似た獣だった。
大型犬より一回り大きく、黒灰色の毛に覆われている。額から伸びた一本角は、短剣ほどの長さがあった。
視界には、まだ文字が浮かんでいる。
【鑑定可能】
白い世界でソフィエルから授けられたスキル。
対象が持つ情報を読み取る力。
「【鑑定】!」
獣へ意識を向けて叫ぶ。
視界へ半透明の表示が開いた。
【名称:ホーンウルフ】
【種族:角狼種】
【危険度:E】
【状態:空腹・興奮】
【推定生存年数:約三年】
【特徴:額の角を使った突進を得意とする。直線的な加速力は高いが、急な方向転換を苦手とする】
【弱点:喉・腹部】
【行動傾向:単独時は正面からの威嚇と突進を繰り返す】
【入手可能素材:角・牙・毛皮・魔石】
「こんなに分かるのか……」
情報量に驚いている間にも、ホーンウルフは前脚を沈めた。
また突進するつもりだ。
ユウトは立ち上がろうとしたが、足にうまく力が入らず、片膝をついた。魂だけの状態から急に肉体へ戻ったせいか、自分の身体なのに動かし方がぎこちない。
逃げても追いつかれる。
戦うしかない。
ユウトは周囲を見回した。
足元には石が転がっている。少し離れた場所には、先端が斜めに折れた太い枝が落ちていた。その向こうには、根元が大きく盛り上がった樹木がある。
鑑定結果には、急な方向転換が苦手だと表示されていた。
正面から突進させ、直前で避ける。
うまくいけば、あの木の根へ角が刺さるかもしれない。
失敗すれば、今度こそ胸を貫かれる。
ユウトは震える脚へ力を込め、枝へ駆け寄った。
拾い上げる。
硬く乾いた枝で、折れた先端は槍のように尖っていた。想像していた以上に重く、両手でなければまともに支えられない。
武器を扱った経験はない。
構え方も、突き方も分からない。
それでも、何も持たないよりはましだった。
ホーンウルフが牙を剥く。
ユウトは枝を抱え、盛り上がった木の根の前へ立った。
「来い……!」
声が震えた。
怖い。
逃げ出したい。
だが、背を向ければ追いつかれる。
ホーンウルフが地面を蹴った。
黒い角が胸を狙って迫る。
あと五歩。
三歩。
一歩。
「今だ!」
ユウトは身体を横へ投げ出した。
直後、ホーンウルフの角が木の根の隙間へ深く突き刺さった。
獣が激しく頭を振る。角は軋んだが、すぐには抜けない。
鑑定結果で見た、喉という文字が脳裏へ浮かんだ。
今しかない。
ユウトは起き上がり、尖った枝を両手で握った。
「うおおっ!」
全身の力を込め、無防備になった喉元へ突き込む。
硬い毛皮を押し分け、枝の先端が肉へ食い込んだ。
ホーンウルフが苦しげに吠え、前脚を振り回す。鋭い爪がユウトの左腕をかすめ、服と皮膚が裂けた。
「くっ!」
熱い痛みが走った。
それでも枝から手を離さない。
暴れる獣に振り落とされそうになりながら、身体ごと枝へ体重をかける。
喉の奥から濁った音が漏れた。
やがて抵抗が弱くなり、四本の脚から力が抜ける。
ホーンウルフは地面へ崩れ落ち、そのまま動かなくなった。
ユウトは荒い息を繰り返しながら、枝を握り続けた。
また動き出すのではないか。
倒れたふりをしているだけではないか。
恐る恐る、もう一度【鑑定】を使う。
【状態:死亡】
表示された二文字を見て、ようやく手の力が抜けた。
枝を離した瞬間、掌に残った生々しい感触が意識へ蘇る。
自分が殺した。
たとえ魔物でも、自分の手で生き物の喉を貫いた。
胃の奥がひっくり返るような感覚に襲われ、ユウトは口元を押さえた。
だが、何もしなければ死んでいたのは自分だった。
「仕方なかった……よな」
誰に言い聞かせるでもなく、呟く。
すぐに割り切れるとは思えなかった。
それでも、今は生き延びたことを受け入れるしかない。
ユウトは木の幹へ背中を預け、座り込んだ。
額には汗が浮かび、呼吸は荒い。心臓も壊れそうなほど激しく鼓動していた。
痛みも、疲労も、恐怖もある。
それでも、生きている。
右手を握る。
指が動き、掌へ爪が食い込む。
胸の内側では、確かに心臓が動いていた。
「本当に……もう一度生きてるんだな」
日本へ戻れたわけではない。
それでも、新しい肉体を得て生きている。
腕の傷がずきりと痛んだ。
裂けた袖の下から血が流れている。
「自分にも使えるのか?」
ユウトは自分へ意識を向けた。
「【鑑定】」
【名前:ユウト】
【種族:人族】
【年齢:十八歳】
【職業:なし】
【レベル:1】
【HP:21/25】
【MP:40/40】
【状態:軽傷・疲労】
【スキル:鑑定】
【加護:知識神ソフィエルの加護】
【加護内包能力】
【解析上達】
【探索上達】
【武技上達】
【スキル上達】
【魔法上達】
【医療上達】
【道具制作上達】
【武具制作上達】
「本当に入ってる」
表示された軽傷の項目へ意識を向ける。
【左前腕に裂傷】
【出血量:少量】
【推奨処置:異物の除去・洗浄・圧迫止血】
【放置した場合、感染する可能性があります】
「治し方まで分かるのか」
傷を洗うには水が必要だ。
ユウトは周囲を見回し、近くの葉へ意識を向けた。
「【鑑定】」
【名称:ヒラナ草】
【状態:良好】
【用途:食用。若葉は生食可能】
今度は石を調べる。
【名称:灰硬石】
【用途:建材・研磨材】
意識を向けた対象だけに情報が表示されるらしい。
折れた枝、土、木の実と順番に試すと、それぞれ名称や性質が分かった。
「これが普通の【鑑定】なら、ずいぶん便利な世界だな」
知識神の加護で多少詳しくなっている可能性はある。
だが、一般的な【鑑定】を見たことがない以上、比べようがなかった。
今は水を探す方が先だ。
ユウトは湿っている植物を中心に調べた。
少し離れた木の根元に、青緑色の苔が密集している。
【名称:水寄せ苔】
【特徴:水気の多い土地に群生する】
方向や距離までは表示されない。
ユウトは苔の生え方を観察した。
木の北東側に多く、地面もそちらへ緩やかに下っている。落ち葉の下の土も、同じ方向ほど湿っていた。
「水があるなら、あっちか」
苔と地形から推測し、慎重に歩き始める。
森の地面は柔らかく、むき出しの根があちこちに伸びていた。先ほど身体を動かしたためか、歩く感覚は少しずつ馴染んでいく。
しばらく進むと、水の流れる音が聞こえた。
「今度は本物の音だ」
木々の間を抜けると、澄んだ小川が流れていた。
すぐに手を伸ばしかけ、動きを止める。
異世界の水をそのまま使ってよいとは限らない。
「【鑑定】」
【名称:森林の流水】
【品質:良質】
【状態:微量の土砂を含む】
【飲用:可能】
【推奨:布などで濾過すると、より安全】
ユウトは小川で腕の血と土を洗い流した。
冷たい水が傷へ染み、思わず歯を食いしばる。
服の裾を細く裂き、表示された処置を思い出しながら傷へ巻きつけた。
最初は緩すぎた。
一度ほどき、今度は強く締めすぎないよう注意して巻き直す。
出血が次第に止まっていった。
同時に、圧迫する位置や布の固定方法への理解が頭の中で整理されていく。
「これが【医療上達】か」
突然、治療が上手くなったわけではない。
自分で試し、失敗し、直した経験が、通常よりもはっきり身についた。
ソフィエルが説明したとおりの力だった。
その時、背後の茂みが揺れた。
ユウトは勢いよく振り返る。
姿は見えない。
だが、遠くから複数の唸り声が聞こえてきた。
一つではない。
二つでもない。
先ほど倒したホーンウルフがいた方向から、枝を踏み折る音が近づいてくる。
ユウトは左腕へ目を落とした。
服にも地面にも、血の跡が残っている。
「匂いを追ってきたのか……?」
狼に似た魔物なら、嗅覚も鋭いはずだ。
小川の向こう側へ視線を向ける。
木々の間に、赤い目が一つ、二つと浮かび上がった。
現れたホーンウルフへ、順番に【鑑定】を使う。
一匹。
二匹。
三匹。
さらに奥にもいる。
どれもこちらを見据え、低く唸っていた。
「さすがに多すぎるだろ……」
七匹目を確認した時、その後ろから一回り大きな影が姿を現した。
黒灰色の毛。
太い四肢。
額には、一本ではなく二本の角が生えている。
ユウトは息を呑みながら【鑑定】を使った。
【名称:ツインホーンウルフ】
【種族:角狼種・上位個体】
【危険度:D】
【特徴:ホーンウルフの群れを統率する個体】
【状態:激怒】
【敵対理由:群れの個体を殺害されたため】
二本角の獣が、喉の奥から低い唸り声を響かせる。
その声に応じ、六匹のホーンウルフがユウトを囲むように左右へ散った。
一匹の時とは違う。
今度は地形へ誘い込むだけでは逃げ切れない。
ユウトは小川を背にし、血のついた枝を両手で握り直した。
ツインホーンウルフが牙を剥く。
直後、群れが一斉に地面を蹴った。
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