第1章 第12話 炎と一矢
岩鎧熊が地面を蹴った。
土を巻き上げながら迫る巨体の正面には、魔力を使い果たして動けない老人と、その身体を引きずろうとする村人が二人いる。
このまま自分だけ避ければ、老人たちは逃げ切れない。
ユウトはその場から動かなかった。
「ユウト、逃げろ!」
グレンの叫びが飛ぶ。
焦りで呼吸が浅くなりかけた瞬間、ユウトは森で教わった言葉を思い出した。
狙う時ほど、息を乱すな。
短く息を吐き、胸の奥へ意識を沈める。【ライト】を発動した時と同じように、魔力を力任せに押し出さず、流れるための道を作った。
胸から肩へ。肩から腕へ。腕から掌へ。
そこまではできる。
次は、老人が見せた火属性への変換だ。
魔力へ熱の性質を与え、燃焼する形へ変え、球状の術式で包み込む。
【魔法上達により、火属性変換への理解が補助されます】
掌の前で赤い火花が散った。
だが、炎は形を結ぶ前に消えてしまう。
【術式形成不完全】
【原因:火属性変換と圧縮を同時に行ったため、魔力経路が不安定です】
岩鎧熊との距離が急速に縮まる。
同時に行おうとしたから失敗した。
ならば、一つずつ進めればいい。
魔力を火へ変える。
生まれた炎を集める。
最後に形を整える。
ユウトは老人が唱えた詠唱をなぞりながら、術式を組み直した。
「赤き炎よ、我が敵を焼け――」
掌の前へ小さな炎が生まれる。
燃え広がろうとする炎を球状の術式で包み、外へ漏れようとする熱を内側へ戻す。出来上がった火球は、老人が放ったものよりはるかに小さく、子どもの拳ほどしかない。
小さくていい。
岩鎧熊の全身を焼く必要はない。硬質化していない弱点へ届けば、それで十分だ。
【初級火魔法【ファイアボール】の発動条件を満たしました】
【基本消費MP:6】
【注意:威力調整が未熟なため、魔力効率は改善されていません】
狙うなら右眼か、口の中。
だが、動く眼球へ初めての魔法を正確に当てられる自信はなかった。
岩鎧熊は突進しながら牙を剥き、老人へ向けて咆哮しようとしている。
口が開いた。
「口を狙います!」
ユウトはグレンへ叫んだ。
老人を支えていた村人たちが左右へ転がるように退避する。
岩鎧熊はもう、半壊した柵の目前まで迫っていた。
「――ファイアボール!」
ユウトは火球を放った。
赤い炎が夜の中を走る。
岩鎧熊が異変に気づき、残った右眼をユウトへ向けた。頭がわずかに動き、開いた口が火球の軌道から外れかける。
その瞬間、グレンの矢が飛んだ。
矢は右眼のすぐ前を掠める。
岩鎧熊は残った眼を守ろうと、反射的に顔を左へ振った。
開いた口が、再び炎の正面へ戻る。
火球は牙の間を抜け、口内へ飛び込んだ。
圧縮されていた炎が、一気に内側へ広がる。
岩鎧熊が声にならない悲鳴を上げた。
突進の勢いが乱れ、巨体が大きく傾く。
【初級火魔法【ファイアボール】を習得しました】
【消費MP:6】
【現在MP:29/42】
【命中部位:口腔内】
【損傷:舌部熱傷・咽頭部熱傷】
【状態変化:呼吸困難・平衡感覚低下】
「全員、横へ逃げてください!」
ユウトの声に、村人たちは老人を抱えたまま突進の正面から離れた。
岩鎧熊は止まり切れず、半壊した柵へ肩から突っ込む。
柱と横木が折れ、固定していた荷車も横倒しになった。岩鎧熊はその上へ乗り上げ、前脚をもつれさせながら畑へ転がり落ちる。
それでも、まだ生きていた。
口から煙と血の混じった唾液を垂らし、荒い呼吸を繰り返しながら立ち上がろうとする。
【状態:重傷・激昂】
【硬質化低下部位:下顎から喉にかけて】
【原因:咽頭部の熱傷により頭部が持ち上がっています】
岩鎧熊は苦しげに顎を上げていた。
その姿勢によって、硬い毛皮に覆われていない喉の左側が露出している。
さらに詳しく【鑑定】する。
【致命部位候補:頸部血管】
【推奨攻撃位置:下顎左側より指三本分下方】
「グレンさん! 顎の下、左側です!」
グレンはすでに走り出していた。
岩鎧熊が前脚を持ち上げ、最も近くにいるグレンを薙ぎ払おうとする。
グレンは足を止めない。
振り下ろされる前脚の外側へ踏み込み、片膝を土へついた。弓を大きく引き絞り、喉元へ狙いを定める。
ユウトはその呼吸と指の動きを無意識に目で追っていた。
【既存スキルを確認】
【スキル名:強射】
【効果:短時間の静止と十分な引き絞りにより、矢の貫通力を高めます】
【習得判定:条件不足】
今のユウトには、弓の経験も筋力も足りない。
理解できても、まだ再現はできない。
「今度こそ、外さん」
弦が鳴った。
放たれた矢が、ユウトの示した位置へ深く突き刺さる。
岩鎧熊の身体が大きく痙攣した。
振り上げられていた前脚はグレンへ届かず、力を失って地面へ落ちる。巨体がゆっくりと横倒しになり、畑の土を揺らした。
何度か脚が動いた後、岩鎧熊は完全に静かになった。
ユウトは息を整えながら【鑑定】を使う。
【種族:岩鎧熊】
【状態:死亡】
【死因:頸部血管損傷による大量出血】
【補助要因:口腔および咽頭部の熱傷】
「倒した……」
誰かが小さく呟いた。
村人たちの間から、押し殺していた息が一斉に漏れる。
だが、歓声は上がらなかった。
壊れた柵。潰れた作物。横倒しの荷車。そして、土の上に横たわる巨大な魔物。
ユウトは自分の右手を見つめた。
初めて使った攻撃魔法の熱は、すでに掌から消えている。それでも、焦げた毛と血の臭いの中に、自分が放った炎の匂いが残っている気がした。
魔法を使えたことは嬉しい。
けれど、目の前の命が失われたことまで、同じ気持ちで喜んではいけないように思えた。
「怪我人を確認しろ!」
グレンの声で村人たちが動き始める。
ユウトも魔法使いの老人へ駆け寄った。老人は毛布の上へ横たえられ、苦しそうに目を閉じている。
「聞こえますか?」
「聞こえておる。頭に響くから、静かに話せ……」
声には力がないが、受け答えはできていた。
ユウトは老人へ【鑑定】を使う。
【状態:魔力枯渇・疲労・軽度の頭痛】
【推奨処置:安静・水分補給・睡眠】
【注意:現在MPが1以上へ回復するまで魔法発動不能】
「今すぐ命に関わる状態ではないようです。水を飲んで、横になって休んでください」
「そんなことまで分かるのか。便利な鑑定じゃな」
「この世界の【鑑定】なら、普通ではないんですか?」
老人は目を開きかけたが、すぐに顔をしかめた。
「今は議論する気力がない。町へ行ったら、詳しい者に聞け」
それだけ言うと、再び目を閉じた。
ユウトは村人へ老人を任せ、岩鎧熊のそばへ向かった。
グレンは巨体の背中側を調べている。
「ユウト。これを見ろ」
硬い毛皮が大きく裂け、乾いた血がこびりついていた。潰れた左眼の周囲にも、鋭い爪で抉られたような傷が残っている。
ユウトが【鑑定】する。
【外傷:大型魔物による咬傷および爪傷】
【受傷時期:一日以内】
【推定加害対象:判別不能】
【推定体格:岩鎧熊を上回る】
ホーンウルフと同じだった。
岩鎧熊が他の魔物を追い立てていたのではない。
この魔物もまた、森の奥にいる何かから逃げてきたのだ。
「こいつも追われていました」
「ああ」
グレンは暗い森へ視線を向けた。
「岩鎧熊の縄張りを奪い、傷を負わせ、浅い場所まで逃げさせた何かがいる」
遠くから、低い咆哮が響いた。
先ほどよりも、わずかに近い。
村人たちの動きが止まる。
グレンは岩鎧熊から矢を抜かず、残った矢筒を確かめた。
「柵を塞ぎ直せ。夜明けまで、誰も眠るな」
森の奥から聞こえる次の足音は、まだ止まっていなかった。
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