第9話 領主の、言えない言葉
ヨナスが去った日の、
夕暮れ。
ユリウスが、
教会に、来た。
その日は、
珍しく、
手ぶらだった。
口実すら、
持たずに。
「神殿の者が、
来たそうだな」
開口一番、
彼は、そう言った。
その声に、
わずかな、
硬さが、あった。
「ええ」
私は、頷いた。
「どうして、
ご存じなのですか」
「町は、狭い」
ユリウスは、
短く、答えた。
けれど、
私は、知っていた。
彼が、
私のことを、
いつも、
どこかで、
気にかけていることを。
「……それで」
ユリウスは、
言いにくそうに、
続けた。
「お前は……
いや」
彼は、
言葉を、
のみこんだ。
「戻るのか」
ようやく、
絞り出すように、
そう、言った。
その問いに、
私は、
ユリウスを、見た。
彼は、
私を、見ていなかった。
ただ、
足元の、
石畳を、
じっと、見つめていた。
その横顔が、
夕日の中で、
ひどく、
こわばっていた。
「いいえ」
私は、
答えた。
「戻りません」
その瞬間、
ユリウスの肩から、
すっと、
力が、抜けた。
彼は、
小さく、
息を、ついた。
それは、
安堵の、ため息だった。
隠そうとして、
隠しきれていない、
あからさまな、
安堵だった。
私は、
それを見て、
胸の奥が、
じんわりと、
温かくなった。
◇
「……すまない」
ユリウスは、
ばつが悪そうに、
目を、そらした。
「お前の、
人生のことだ。
俺が、
口を出すことでは、
ない」
「いいえ」
私は、
首を振った。
「気にかけてくださって、
嬉しいです」
ユリウスは、
何か言いかけて、
また、
口をつぐんだ。
彼の中で、
言葉が、
ぐるぐると、
回っているのが、
分かった。
言いたいことが、
あるのに。
それを、
どう言えばいいのか、
分からずに。
不器用に、
立ち尽くしている。
私は、
そんな彼を、
急かさずに、
待った。
待つことは、
得意だった。
聖女として、
私は、
ずっと、
誰かの、
心の準備を、
待ってきたから。
やがて、
ユリウスは、
ゆっくりと、
顔を、上げた。
そして、
今度こそ、
まっすぐに、
私を、見た。
「エルナ」
「はい」
「俺は……」
彼は、
一度、
言葉に、詰まった。
それから、
意を決したように、
言った。
「俺は、
お前に、
ここに、
いてほしい」
その言葉は、
ぶっきらぼうで、
けれど、
今まで聞いた、
どんな言葉よりも、
まっすぐだった。
「聖女だから、
ではない。
力が、あるから、
でもない。
ただ……
お前が、
いてくれると」
ユリウスは、
そこで、
言葉を、探した。
そして、
やっと、
こう、続けた。
「……この町が、
少し、
明るい」
私は、
息を、
のんだ。
それは、
かつて、
町の子が、
私に言った言葉と、
同じだった。
なんか、いいから。
理由など、
いらない。
ただ、
いてくれると、
いい。
その言葉を、
今、
この、
寡黙な領主が、
精一杯の勇気で、
口にしていた。
「……ありがとうございます」
私は、
言った。
その「ありがとう」は、
もう、
役割としての礼では、
なかった。
声が、
わずかに、
震えていた。
心からの、
礼だった。
ユリウスは、
私の、
その声の変化に、
気づいたのだろうか。
彼は、
ふっと、
目元を、
やわらげた。
そして、
いつものように、
ぷいと、
背を向けた。
「……それだけだ。
おやすみ」
立ち去る、
その背中が、
夕闇の中で、
今日は、
逃げているようには、
見えなかった。
私は、
その場に、
立ち尽くしたまま、
胸に、
手を、当てた。
ことり、と。
また、
あの音が、
した。
それが、
何の音なのか。
私は、
もう、
うすうす、
気づき始めていた。
本話をお読みいただき、ありがとうございました。
「いてほしい」。
ユリウスが、精一杯の勇気で口にした、言えない言葉。
そして、エルナの「ありがとう」の、声の変化。
じわじわと、心が近づいていきます。
次話「ここにいても、いいのですか」は、
第一部の、ひとつの大きな節目です。
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