第8話 戻ってほしい、とは言われたけれど
その人が、
教会を訪れたのは、
よく晴れた、午前のことだった。
神官の、清潔な衣。
旅で少し汚れた、靴。
歳は、私と、
そう変わらないだろう。
若い、神官だった。
「突然の訪問を、
お許しください」
彼は、
丁寧に、頭を下げた。
「神殿より参りました、
ヨナスと申します」
私は、
箒を、そっと、壁に立てかけた。
神殿の名を聞いて、
胸が、ざわついた――
わけでは、なかった。
ただ、
「ああ、来たか」
と、思っただけだった。
「エルナと申します。
……どうぞ、中へ」
◇
ヨナスは、
教会の長椅子に、浅く腰かけ、
出した茶に、
礼儀正しく、口をつけた。
「神殿は、
あなたのことを、
気にかけております」
彼は、
言葉を選びながら、
そう、切り出した。
「聖印を返され、
このような辺境へ……
さぞ、ご不便でしょう」
「いいえ」
私は、
静かに、答えた。
「不便なことは、
何も、ありません」
ヨナスは、
わずかに、戸惑ったようだった。
きっと、
彼は、想像していたのだろう。
落ちぶれた元聖女が、
辺境で、
肩を落としている姿を。
恨み言の、ひとつも、
こぼすかもしれない、と。
けれど、
私には、
こぼすものが、
なかった。
「あの……エルネスティーネ様」
「エルナで、結構です」
「……エルナ様」
ヨナスは、
言いにくそうに、
続けた。
「神殿では、
あなたに、
戻ってほしいと、
考える者も、おります」
その言葉に、
私は、
少しだけ、
顔を上げた。
戻ってほしい。
それは、
聖女の座を、
もう一度、という意味だろうか。
それとも――
「セシリア様の、
お加減が、
すぐれない、とのことで」
ヨナスの声が、
わずかに、沈んだ。
「儀式の最中に、
加護が、
不安定になることが、
あるそうです。
それで……
神殿の一部の者は、
あなたを、
呼び戻せないか、と」
私は、
ヨナスの顔を、
見つめた。
彼の言葉の裏に、
いくつもの、
大人の事情が、
透けて見えた。
セシリアの加護が、
揺らいでいること。
それを、
神殿が、
持て余していること。
そして――
私を呼び戻したい者と、
そうでない者が、
いるらしいこと。
複雑な、
糸が、
絡み合っていた。
けれど、
私の答えは、
ひとつだった。
「ヨナス様」
「はい」
「私は、
戻りません」
その声は、
自分でも、
驚くほど、
静かだった。
「私は、
ここで、十分です」
ヨナスは、
言葉を、失っていた。
「ですが……
あなたには、
本来、
その力が」
「力の、ありなしは、
分かりません」
私は、
首を振った。
「けれど、
たとえ、私に、
何かがあるのだとしても。
それは、
座を、
取り戻すために、
使うものでは、
ないと思うのです」
ヨナスは、
じっと、
私を見ていた。
「セシリア様のことは、
案じています」
私は、続けた。
「もし、
あの方が、
ひとりで、苦しんでいるのなら、
それは、放っておけません。
けれど、それは、
私が、聖女に戻ることとは、
違うことです」
苦しむ個人を、案じること。
役割を、奪い返すこと。
そのふたつは、
似ているようで、
まったく、別のものだった。
私は、
前者だけを、
選びたかった。
◇
ヨナスは、
しばらく、
うつむいていた。
そして、
顔を上げたとき、
その目には、
最初の、
事務的な色は、
なかった。
「……失礼ながら」
彼は、
ぽつりと、言った。
「あなたは、
聖女であった頃より、
今のほうが、
ずっと、
聖女らしく、見えます」
私は、
少しだけ、
驚いた。
「妙なことを、
おっしゃるのですね」
「いえ」
ヨナスは、
首を振った。
「神殿に、
戻りましたら……
正直に、
お伝えします。
あなたは、
ご自分の意思で、
ここに、いる、と」
彼は、
立ち上がり、
深く、頭を下げた。
「貴重なお時間を、
ありがとうございました」
去っていくヨナスの背を、
私は、
教会の戸口で、
見送った。
戻ってほしい、
とは言われた。
けれど、
私の心は、
揺れなかった。
ただ、
ひとつだけ。
セシリアの、
震える筆跡を、
思い出して、
胸の奥が、
少し、
痛んだ。
本話をお読みいただき、ありがとうございました。
戻ってほしい、と言われても、
取り戻そうとはしない。
けれど、苦しむ人は、放っておけない。
エルナの「線引き」が、
この物語の核です。
次話「領主の、言えない言葉」では、
ユリウスが、ある決意を、
胸に秘めます。
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どうぞ、よろしくお願いいたします。




