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聖女を辞めましたが、私は静かに暮らすだけです 〜本物の乙女が現れたので聖印をお返ししたら、辺境でなぜか過剰に大切にされています〜  作者: リリア・ノワール


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第8話 戻ってほしい、とは言われたけれど

その人が、

教会を訪れたのは、

よく晴れた、午前のことだった。


神官の、清潔な衣。

旅で少し汚れた、靴。


歳は、私と、

そう変わらないだろう。

若い、神官だった。


「突然の訪問を、

お許しください」


彼は、

丁寧に、頭を下げた。


「神殿より参りました、

ヨナスと申します」


私は、

箒を、そっと、壁に立てかけた。


神殿の名を聞いて、

胸が、ざわついた――

わけでは、なかった。


ただ、

「ああ、来たか」

と、思っただけだった。


「エルナと申します。

……どうぞ、中へ」



ヨナスは、

教会の長椅子に、浅く腰かけ、

出した茶に、

礼儀正しく、口をつけた。


「神殿は、

あなたのことを、

気にかけております」


彼は、

言葉を選びながら、

そう、切り出した。


「聖印を返され、

このような辺境へ……

さぞ、ご不便でしょう」


「いいえ」


私は、

静かに、答えた。


「不便なことは、

何も、ありません」


ヨナスは、

わずかに、戸惑ったようだった。


きっと、

彼は、想像していたのだろう。


落ちぶれた元聖女が、

辺境で、

肩を落としている姿を。


恨み言の、ひとつも、

こぼすかもしれない、と。


けれど、

私には、

こぼすものが、

なかった。


「あの……エルネスティーネ様」


「エルナで、結構です」


「……エルナ様」


ヨナスは、

言いにくそうに、

続けた。


「神殿では、

あなたに、

戻ってほしいと、

考える者も、おります」


その言葉に、

私は、

少しだけ、

顔を上げた。


戻ってほしい。


それは、

聖女の座を、

もう一度、という意味だろうか。


それとも――


「セシリア様の、

お加減が、

すぐれない、とのことで」


ヨナスの声が、

わずかに、沈んだ。


「儀式の最中に、

加護が、

不安定になることが、

あるそうです。


それで……

神殿の一部の者は、

あなたを、

呼び戻せないか、と」


私は、

ヨナスの顔を、

見つめた。


彼の言葉の裏に、

いくつもの、

大人の事情が、

透けて見えた。


セシリアの加護が、

揺らいでいること。


それを、

神殿が、

持て余していること。


そして――

私を呼び戻したい者と、

そうでない者が、

いるらしいこと。


複雑な、

糸が、

絡み合っていた。


けれど、

私の答えは、

ひとつだった。


「ヨナス様」


「はい」


「私は、

戻りません」


その声は、

自分でも、

驚くほど、

静かだった。


「私は、

ここで、十分です」


ヨナスは、

言葉を、失っていた。


「ですが……

あなたには、

本来、

その力が」


「力の、ありなしは、

分かりません」


私は、

首を振った。


「けれど、

たとえ、私に、

何かがあるのだとしても。


それは、

座を、

取り戻すために、

使うものでは、

ないと思うのです」


ヨナスは、

じっと、

私を見ていた。


「セシリア様のことは、

案じています」


私は、続けた。


「もし、

あの方が、

ひとりで、苦しんでいるのなら、

それは、放っておけません。


けれど、それは、

私が、聖女に戻ることとは、

違うことです」


苦しむ個人を、案じること。

役割を、奪い返すこと。


そのふたつは、

似ているようで、

まったく、別のものだった。


私は、

前者だけを、

選びたかった。



ヨナスは、

しばらく、

うつむいていた。


そして、

顔を上げたとき、

その目には、

最初の、

事務的な色は、

なかった。


「……失礼ながら」


彼は、

ぽつりと、言った。


「あなたは、

聖女であった頃より、

今のほうが、

ずっと、

聖女らしく、見えます」


私は、

少しだけ、

驚いた。


「妙なことを、

おっしゃるのですね」


「いえ」


ヨナスは、

首を振った。


「神殿に、

戻りましたら……

正直に、

お伝えします。


あなたは、

ご自分の意思で、

ここに、いる、と」


彼は、

立ち上がり、

深く、頭を下げた。


「貴重なお時間を、

ありがとうございました」


去っていくヨナスの背を、

私は、

教会の戸口で、

見送った。


戻ってほしい、

とは言われた。


けれど、

私の心は、

揺れなかった。


ただ、

ひとつだけ。


セシリアの、

震える筆跡を、

思い出して、

胸の奥が、

少し、

痛んだ。


本話をお読みいただき、ありがとうございました。


戻ってほしい、と言われても、

取り戻そうとはしない。

けれど、苦しむ人は、放っておけない。


エルナの「線引き」が、

この物語の核です。


次話「領主の、言えない言葉」では、

ユリウスが、ある決意を、

胸に秘めます。


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