第6話 薪と、林檎と、名前のない好意
辺境に来て、
ひと月が過ぎる頃には、
町の人たちが、
私を見る目が、
少しずつ、変わっていた。
最初の、戸惑うような視線は、
いつのまにか、
柔らかなものになっていた。
きっかけは、
些細なことの、積み重ねだった。
転んだ子どもの膝を、
洗ってやったこと。
咳の止まらない老人に、
マレン仕込みの薬草を、煎じてやったこと。
雨の日に、
軒先で困っていた行商人を、
教会に入れてやったこと。
どれも、
聖女の務めではない。
加護も、要らない。
ただ、
目の前の人を、
そのままに、思うだけのこと。
◇
「エルナさん」
市場を歩いていると、
八百屋の女将が、
私を呼び止めた。
「これ、持っていきな。
売り物にならない、傷もんだけど」
差し出されたのは、
形のいびつな、けれど、
立派な根菜だった。
「いいのですか」
「いいのいいの。
あんた、教会でひとり分の食事も、
ろくに作ってないんだろ」
「……バレていましたか」
「丸わかりだよ」
女将は、豪快に笑った。
私は、
その根菜を、
両手で受け取った。
ずっしりとした重み。
土の匂い。
「ありがとうございます」
「いいってことよ。
また、来な」
市場を歩くたびに、
誰かが、何かを、
そっと、私の手に握らせる。
パン。
卵。
干した果実。
そのどれもが、
「聖女様へ」ではなく、
「エルナさんへ」だった。
私は、もう、
聖女ではない。
それなのに、
いや――
そうではないからこそ、
人々は、
私を、
ひとりの「エルナ」として、
扱ってくれた。
それが、
こんなにも、
心を、軽くするとは。
◇
そして、ユリウスは、
相変わらずだった。
ある日は、薪を。
ある日は、林檎を。
またある日は、
「畑で採れすぎた」という豆を。
そのたびに、
見え透いた口実を、
真面目な顔で、並べる。
「狩りで、鹿が獲れすぎた」
「井戸を直したついでだ」
「通り道だったから」
教会は、
町のはずれにある。
どこへ行くにも、
「通り道」になど、
ならないはずだった。
けれど、私は、
そのことを、
指摘しなかった。
指摘すれば、
彼は、きっと、
来なくなってしまう。
そして――
私自身が、
彼の「口実」を、
少しだけ、
楽しみにし始めていた。
◇
その日の夕方も、
ユリウスは、来た。
手には、
小さな包み。
「これは……?」
「蜂蜜だ。
喉に、いいと聞いた」
「喉?」
「最近、
薬草を煎じる相手が増えて、
声を、使っているだろう」
私は、
思わず、ユリウスを見た。
彼は、
私が、町の人のために、
毎日、薬草を煎じていることを、
知っていた。
そして、
そのために、
私が、声を使い、
少し、疲れていることまで。
「……よく、ご存じですね」
「町のことは、
だいたい、耳に入る」
そう言って、
ユリウスは、
ぷいと、目をそらした。
けれど、
その耳が、
ほんの少し、
赤かった。
私は、
蜂蜜の包みを、
胸に抱いた。
ずっと、
誰かに気にかけられることは、
「役割」への期待と、
セットだった。
聖女として、
完璧であれ。
皆を、救え。
その期待が、
気にかけられること、
そのものだった。
けれど、
ユリウスの気遣いには、
何の期待も、なかった。
ただ、
私の喉が、
少し楽になればいい。
それだけの、
名前のない好意。
「ありがとうございます」
私が言うと、
ユリウスは、
背を向けかけて、
ふと、足を止めた。
「……エルナ」
初めて、
彼が、私の名を、
呼んだ。
「は、はい」
「いや」
ユリウスは、
そのまま、
首を振った。
「……なんでもない。
おやすみ」
そう言って、
彼は、
夕闇の中へ、
歩いていった。
私は、
しばらく、
その背中を、見送っていた。
名を、呼ばれた。
それだけのことで、
胸の奥が、
ことり、と、
音を立てた気がした。
私は、
蜂蜜の包みを、
もう一度、抱きしめた。
甘い匂いが、
ほのかに、
夜の空気に、混じっていた。
本話をお読みいただき、ありがとうございました。
名前のない、小さな好意。
そして、初めて名を呼ばれた夜。
じわじわと縮む距離を、
楽しんでいただけましたら幸いです。
次話「加護は、どこへ行ったのか」では、
辺境に起きる、
小さな「ふしぎ」が、
静かに語られはじめます。
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どうぞ、よろしくお願いいたします。




