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聖女を辞めましたが、私は静かに暮らすだけです 〜本物の乙女が現れたので聖印をお返ししたら、辺境でなぜか過剰に大切にされています〜  作者: リリア・ノワール


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第6話 薪と、林檎と、名前のない好意

辺境に来て、

ひと月が過ぎる頃には、

町の人たちが、

私を見る目が、

少しずつ、変わっていた。


最初の、戸惑うような視線は、

いつのまにか、

柔らかなものになっていた。


きっかけは、

些細なことの、積み重ねだった。


転んだ子どもの膝を、

洗ってやったこと。


咳の止まらない老人に、

マレン仕込みの薬草を、煎じてやったこと。


雨の日に、

軒先で困っていた行商人を、

教会に入れてやったこと。


どれも、

聖女の務めではない。


加護も、要らない。


ただ、

目の前の人を、

そのままに、思うだけのこと。



「エルナさん」


市場を歩いていると、

八百屋の女将が、

私を呼び止めた。


「これ、持っていきな。

売り物にならない、傷もんだけど」


差し出されたのは、

形のいびつな、けれど、

立派な根菜だった。


「いいのですか」


「いいのいいの。

あんた、教会でひとり分の食事も、

ろくに作ってないんだろ」


「……バレていましたか」


「丸わかりだよ」


女将は、豪快に笑った。


私は、

その根菜を、

両手で受け取った。


ずっしりとした重み。

土の匂い。


「ありがとうございます」


「いいってことよ。

また、来な」


市場を歩くたびに、

誰かが、何かを、

そっと、私の手に握らせる。


パン。

卵。

干した果実。


そのどれもが、

「聖女様へ」ではなく、

「エルナさんへ」だった。


私は、もう、

聖女ではない。


それなのに、

いや――

そうではないからこそ、

人々は、

私を、

ひとりの「エルナ」として、

扱ってくれた。


それが、

こんなにも、

心を、軽くするとは。



そして、ユリウスは、

相変わらずだった。


ある日は、薪を。

ある日は、林檎を。

またある日は、

「畑で採れすぎた」という豆を。


そのたびに、

見え透いた口実を、

真面目な顔で、並べる。


「狩りで、鹿が獲れすぎた」

「井戸を直したついでだ」

「通り道だったから」


教会は、

町のはずれにある。


どこへ行くにも、

「通り道」になど、

ならないはずだった。


けれど、私は、

そのことを、

指摘しなかった。


指摘すれば、

彼は、きっと、

来なくなってしまう。


そして――

私自身が、

彼の「口実」を、

少しだけ、

楽しみにし始めていた。



その日の夕方も、

ユリウスは、来た。


手には、

小さな包み。


「これは……?」


「蜂蜜だ。

喉に、いいと聞いた」


「喉?」


「最近、

薬草を煎じる相手が増えて、

声を、使っているだろう」


私は、

思わず、ユリウスを見た。


彼は、

私が、町の人のために、

毎日、薬草を煎じていることを、

知っていた。


そして、

そのために、

私が、声を使い、

少し、疲れていることまで。


「……よく、ご存じですね」


「町のことは、

だいたい、耳に入る」


そう言って、

ユリウスは、

ぷいと、目をそらした。


けれど、

その耳が、

ほんの少し、

赤かった。


私は、

蜂蜜の包みを、

胸に抱いた。


ずっと、

誰かに気にかけられることは、

「役割」への期待と、

セットだった。


聖女として、

完璧であれ。

皆を、救え。


その期待が、

気にかけられること、

そのものだった。


けれど、

ユリウスの気遣いには、

何の期待も、なかった。


ただ、

私の喉が、

少し楽になればいい。


それだけの、

名前のない好意。


「ありがとうございます」


私が言うと、

ユリウスは、

背を向けかけて、

ふと、足を止めた。


「……エルナ」


初めて、

彼が、私の名を、

呼んだ。


「は、はい」


「いや」


ユリウスは、

そのまま、

首を振った。


「……なんでもない。

おやすみ」


そう言って、

彼は、

夕闇の中へ、

歩いていった。


私は、

しばらく、

その背中を、見送っていた。


名を、呼ばれた。


それだけのことで、

胸の奥が、

ことり、と、

音を立てた気がした。


私は、

蜂蜜の包みを、

もう一度、抱きしめた。


甘い匂いが、

ほのかに、

夜の空気に、混じっていた。

本話をお読みいただき、ありがとうございました。


名前のない、小さな好意。

そして、初めて名を呼ばれた夜。


じわじわと縮む距離を、

楽しんでいただけましたら幸いです。


次話「加護は、どこへ行ったのか」では、

辺境に起きる、

小さな「ふしぎ」が、

静かに語られはじめます。


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