第59話 エルナの、まま
祭は、夕暮れまで続いた。
歌が歌われ、椀が交わされ、子どもたちは花の道の残りを拾って、また撒いて回った。
セシリア様は、リーゼルの祝いパンをたいそう気に入り、焼き方を教わる約束を取りつけていた。
「王都に帰ったら、焼いてみます。……ヨナス様、味見係をお願いしますね」
「私で、よろしければ」
母は、マレンと、ずっと何かを話し込んでいた。
ときどき、ふたりして私の方を見ては、笑っていた。
少し、恥ずかしくて、とても、嬉しかった。
◇
日が傾いた頃、私はユリウスと、広場の隅の樽に、並んで腰かけていた。
祭の輪を、少し離れて眺める、静かな席だった。
「……エルナ」
ユリウスが、椀を手にしたまま、言った。
「ひとつ、聞いておきたい」
「はい」
「明日からのことだ。……お前は、辺境伯の妻になった。屋敷に入って、家の一切を仕切る。それが、習わしだ」
彼は、そこで、少し言葉を選んだ。
「だが、俺は、それをお前に、求めるつもりはない。……お前が、どう暮らしたいか。それを、先に聞きたい」
私は、椀の中の、祝いの酒を見つめた。
この人は、いつも、そうだ。
習わしより先に、私に、訊いてくれる。
「……正直に、申しますね」
「ああ」
「私は、明日も、教会の勤めをしたいのです」
私は、言った。
「朝の祈りをして、畑の世話をして、ニコに字を教えて、マレンとお茶を飲む。……夕方には、あなたの屋敷に帰る。奥方の務めで手が要るときは、務めます。けれど、暮らしの真ん中は、あの教会と、この町の日々のままで、いたい」
「……ふ」
ユリウスは、笑った。
心の底から、安心したような笑いだった。
「なら、決まりだ」
「よろしいのですか? 辺境伯の奥方が、教会住み込み同然などと」
「リントの習わしは、今日から変わる」
彼は、こともなげに言った。
「領主が決めた。……それに」
椀をひとくち、飲んで。
「俺が惚れたのは、奥方の器量じゃない。教会の庭で、洗い物をしていた、お前だ。……それを取り上げたら、何のために、一年かけたのか分からん」
「ふふ……」
◇
祭の輪の中から、女将の声が、飛んできた。
「おおい、エルナさん! 明日のスープの仕込み、手伝っておくれよ!」
「はい。参ります」
「ニコの字の稽古、明後日だからね!」
「ええ、忘れていませんよ」
「奥方様! 新作のパンの味見も!」
「エルナで、お願いしますね。……ええ、喜んで」
返事をするたび、胸の奥が、あたたかかった。
誰も、私を「奥方様」の型に、はめようとしない。
明日からも、スープの仕込みと、字の稽古と、パンの味見が、待っている。
私が、私のままで、いられる場所。
それを、この町は、当たり前の顔をして、差し出してくれる。
◇
ずっと、考えてきた。
役割とは、何だったのだろう、と。
家の駒。神殿の聖女。噂の中の先代様。
かつての私は、与えられた役割を果たすことでしか、ここにいる理由を持てなかった。
役割を降りたとき、私には、何も残らないはずだった。
けれど。
いま、私の手の中にあるものを、数えてみる。
朝の祈り。畑の豆。ニコの字。マレンのお茶。リーゼルのパンの味見。母への毎月の手紙。セシリア様との文通。北の聖堂へ送る豆の袋。
そして、夕方に帰る家と、そこで待つ人。
これらは、役割だろうか。
いいえ。
役割は、降りられないから、役割なのだ。
私の手の中のこれらは、ぜんぶ、明日やめても、誰も私を責めないもの。
やめられるのに、やめたくないもの。
自分で、選んだもの。
——役割をぜんぶ降りた人が、最後に自分で選んで引き受けたものは、もう、役割とは呼ばない。
それは、たぶん。
暮らし、と呼ぶのだ。
◇
「ユリウス様」
「なんだ」
「……帰りましょうか」
日の落ちた広場に、祭の灯がともり始めていた。
「そうだな」
彼は、立ち上がって、手を差し出した。
「帰るか。……庭の花も、見たいしな」
「ええ」
私は、その手を、取った。
今朝、世界でいちばんきれいだった、あの庭へ。
ふたりで、帰る。
本話をお読みいただき、ありがとうございました。
役割は、降りられないから、役割。
やめられるのに、やめたくないもの。
自分で選んだものは——「暮らし」と呼ぶのだ。
スープの仕込みと、字の稽古と、パンの味見と、
夕方に帰る家と、そこで待つ人。
エルナは、エルナのまま。
次話、ついに最終話「ここで、生きていく」。
第二部の、結びです。
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