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聖女を辞めましたが、私は静かに暮らすだけです 〜本物の乙女が現れたので聖印をお返ししたら、辺境でなぜか過剰に大切にされています〜  作者: リリア・ノワール


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第59話 エルナの、まま

祭は、夕暮れまで続いた。


歌が歌われ、椀が交わされ、子どもたちは花の道の残りを拾って、また撒いて回った。


セシリア様は、リーゼルの祝いパンをたいそう気に入り、焼き方を教わる約束を取りつけていた。


「王都に帰ったら、焼いてみます。……ヨナス様、味見係をお願いしますね」


「私で、よろしければ」


母は、マレンと、ずっと何かを話し込んでいた。


ときどき、ふたりして私の方を見ては、笑っていた。


少し、恥ずかしくて、とても、嬉しかった。



日が傾いた頃、私はユリウスと、広場の隅の樽に、並んで腰かけていた。


祭の輪を、少し離れて眺める、静かな席だった。


「……エルナ」


ユリウスが、椀を手にしたまま、言った。


「ひとつ、聞いておきたい」


「はい」


「明日からのことだ。……お前は、辺境伯の妻になった。屋敷に入って、家の一切を仕切る。それが、習わしだ」


彼は、そこで、少し言葉を選んだ。


「だが、俺は、それをお前に、求めるつもりはない。……お前が、どう暮らしたいか。それを、先に聞きたい」


私は、椀の中の、祝いの酒を見つめた。


この人は、いつも、そうだ。


習わしより先に、私に、訊いてくれる。


「……正直に、申しますね」


「ああ」


「私は、明日も、教会の勤めをしたいのです」


私は、言った。


「朝の祈りをして、畑の世話をして、ニコに字を教えて、マレンとお茶を飲む。……夕方には、あなたの屋敷に帰る。奥方の務めで手が要るときは、務めます。けれど、暮らしの真ん中は、あの教会と、この町の日々のままで、いたい」


「……ふ」


ユリウスは、笑った。


心の底から、安心したような笑いだった。


「なら、決まりだ」


「よろしいのですか? 辺境伯の奥方が、教会住み込み同然などと」


「リントの習わしは、今日から変わる」


彼は、こともなげに言った。


「領主が決めた。……それに」


椀をひとくち、飲んで。


「俺が惚れたのは、奥方の器量じゃない。教会の庭で、洗い物をしていた、お前だ。……それを取り上げたら、何のために、一年かけたのか分からん」


「ふふ……」



祭の輪の中から、女将の声が、飛んできた。


「おおい、エルナさん! 明日のスープの仕込み、手伝っておくれよ!」


「はい。参ります」


「ニコの字の稽古、明後日だからね!」


「ええ、忘れていませんよ」


「奥方様! 新作のパンの味見も!」


「エルナで、お願いしますね。……ええ、喜んで」


返事をするたび、胸の奥が、あたたかかった。


誰も、私を「奥方様」の型に、はめようとしない。


明日からも、スープの仕込みと、字の稽古と、パンの味見が、待っている。


私が、私のままで、いられる場所。


それを、この町は、当たり前の顔をして、差し出してくれる。



ずっと、考えてきた。


役割とは、何だったのだろう、と。


家の駒。神殿の聖女。噂の中の先代様。


かつての私は、与えられた役割を果たすことでしか、ここにいる理由を持てなかった。


役割を降りたとき、私には、何も残らないはずだった。


けれど。


いま、私の手の中にあるものを、数えてみる。


朝の祈り。畑の豆。ニコの字。マレンのお茶。リーゼルのパンの味見。母への毎月の手紙。セシリア様との文通。北の聖堂へ送る豆の袋。


そして、夕方に帰る家と、そこで待つ人。


これらは、役割だろうか。


いいえ。


役割は、降りられないから、役割なのだ。


私の手の中のこれらは、ぜんぶ、明日やめても、誰も私を責めないもの。


やめられるのに、やめたくないもの。


自分で、選んだもの。


——役割をぜんぶ降りた人が、最後に自分で選んで引き受けたものは、もう、役割とは呼ばない。


それは、たぶん。


暮らし、と呼ぶのだ。



「ユリウス様」


「なんだ」


「……帰りましょうか」


日の落ちた広場に、祭の灯がともり始めていた。


「そうだな」


彼は、立ち上がって、手を差し出した。


「帰るか。……庭の花も、見たいしな」


「ええ」


私は、その手を、取った。


今朝、世界でいちばんきれいだった、あの庭へ。


ふたりで、帰る。

本話をお読みいただき、ありがとうございました。


役割は、降りられないから、役割。


やめられるのに、やめたくないもの。

自分で選んだものは——「暮らし」と呼ぶのだ。


スープの仕込みと、字の稽古と、パンの味見と、

夕方に帰る家と、そこで待つ人。


エルナは、エルナのまま。


次話、ついに最終話「ここで、生きていく」。

第二部の、結びです。


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