第60話 ここで、生きていく
祭の灯を背に、私たちは、庭に立っていた。
夜の空気は、澄んで、冷たかった。
月明かりの下で、あの木は、白い花をつけたまま、静かに立っていた。
根元の白百合も、まだ、開いていた。
「……よく咲いたな」
ユリウスが、木を見上げた。
「十五の年から、一度もだ。……一度も咲かなかった木が、まさか、今日を選ぶとはな」
「良い木です」
私は、微笑んだ。
「間の、取り方が」
「ああ。……俺より、ずっと上手い」
ふたりで、少し、笑った。
祭の音が、遠くから、風に乗って届いていた。
◇
「そういえば」
私は、思い出して言った。
「マレンから聞きました。王都の製本の職人さん、弟子の方が、来てくださるそうですね」
「ああ。冬のあいだ、教会に逗留して、あの古い綴りを直すそうだ」
言い伝えの書かれた、古い記録。
開くことのできない、傷んだ後ろの頁。
「職人の見立てでは、春には、読めるようになるらしい」
「春、ですか」
「ああ。……気になるか」
「ええ、少し」
私は、正直に言った。
役割を捨てた聖人が、この土地に根を下ろし、家族を持った。
口伝えの言い伝えは、そこまで。
そのあとの物語は、崩れかけた頁の中で、まだ、誰にも読まれずに眠っている。
「けれど、急ぎません」
私は、木を見上げた。
「マレンが言っていました。続きは、逃げやしない、と。……百合の花と、同じです。時が満ちれば、開きます」
「そうだな」
ユリウスは、頷いた。
「春の、楽しみが増えた」
◇
夜のあいだに、一年が、胸の中を、ゆっくりと巡っていった。
去年の秋、私は、この町の収穫祭の隅で、初めて輪に入れてもらった。
冬、雪の中を、泣きながら訪ねてきた人がいた。
春、約束の芽吹きをふたりで見て、白百合の芽を見つけた。
初夏、王都で、友人がひとりで立つ姿を、いちばん後ろから見届けた。
小さな庭で、二十年ぶんの答えをもらった。
夏、静かな是正が遠くで実り、測る人が測れないものを覚えて帰った。
夕暮れの丘で、口実のない言葉をもらった。
そして今日——一年目の収穫祭に、私は、この町で、嫁いだ。
何も、望まなかったのに。
何も、取り戻そうとしなかったのに。
気がつけば、両手に、抱えきれないほどだ。
「……ユリウス様」
「なんだ」
「私、ずっと、身を引いて生きてきました」
月明かりの下で、言葉は、するりと出てきた。
「争わず、望まず、距離を取って。それが私の、生き方でした。……けれど、いまなら、分かるのです。私は、逃げるために身を引いたのでは、なかった」
白い花びらが、ひとつ、夜風にほどけた。
「引いた先で、根を下ろすために、引いたのです。……この場所に、出会うために」
「ああ」
ユリウスは、短く言った。
それから、私の手を、そっと握った。
「なら、もう、引かなくていい」
「……はい」
「ここから先は、ずっと、ここだ」
◇
いつか、春が来る。
古い頁が開いて、聖人の物語の続きが、読める日が来る。
庭の白百合は、株を増やすだろう。
母は、また訪ねてくると約束した。
セシリア様の手紙は、季節ごとに届く。
北の聖堂には、今年の豆を、ひと袋送った。
ニコは字が上手くなり、リーゼルの店は、春に開く。
そして、私は。
朝の祈りをして、畑の世話をして、夕方には、この庭に帰ってくる。
来年も、再来年も、その先も、ずっと。
毎年、この木の芽吹きを、隣のこの人と、見上げながら。
「……帰ろう」
ユリウスが、言った。
「ええ」
私は、頷いた。
胸に手を当てると、ことり、と、あの音がした。
もう、迷いの音でも、揺れる音でもない。
根を下ろした人の、静かな、鼓動の音だった。
ここが、私の場所。
ここで、私は、生きていく。
月明かりの庭に、白百合の香りが、ほのかに、揺れていた。
――第二部 了。
第二部「取り戻さない人」、
全三十話を、お読みいただき、
本当に、ありがとうございました。
第一部の結びで、エルナは「ここが、私の場所」と言いました。
第二部の結びは、その続きです。
「ここで、私は、生きていく」
血の秘密は、守るための手放しでした。
神殿は、静かに生まれ変わりました。
測る人は、測れないものを覚えて帰りました。
そして、口実の人は、口実なしで想いを告げ、
一年目の収穫祭の日に、ふたりは夫婦になりました。
身を引いた先で、根を下ろし、花が咲く。
この物語が、あなたの心を、
少しでも、あたたかく、ほどけさせる時間になっていたなら、
これ以上の、よろこびはありません。
エルナとユリウスの物語は、
ここで、ひとつの大きな実りを迎えました。
ブックマーク・評価を、
心から、お願いいたします。
ここまでの、長いお付き合いに、
深い、深い感謝を込めて。




