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聖女を辞めましたが、私は静かに暮らすだけです 〜本物の乙女が現れたので聖印をお返ししたら、辺境でなぜか過剰に大切にされています〜  作者: リリア・ノワール


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第60話 ここで、生きていく

祭の灯を背に、私たちは、庭に立っていた。


夜の空気は、澄んで、冷たかった。


月明かりの下で、あの木は、白い花をつけたまま、静かに立っていた。


根元の白百合も、まだ、開いていた。


「……よく咲いたな」


ユリウスが、木を見上げた。


「十五の年から、一度もだ。……一度も咲かなかった木が、まさか、今日を選ぶとはな」


「良い木です」


私は、微笑んだ。


「間の、取り方が」


「ああ。……俺より、ずっと上手い」


ふたりで、少し、笑った。


祭の音が、遠くから、風に乗って届いていた。



「そういえば」


私は、思い出して言った。


「マレンから聞きました。王都の製本の職人さん、弟子の方が、来てくださるそうですね」


「ああ。冬のあいだ、教会に逗留して、あの古い綴りを直すそうだ」


言い伝えの書かれた、古い記録。


開くことのできない、傷んだ後ろの頁。


「職人の見立てでは、春には、読めるようになるらしい」


「春、ですか」


「ああ。……気になるか」


「ええ、少し」


私は、正直に言った。


役割を捨てた聖人が、この土地に根を下ろし、家族を持った。


口伝えの言い伝えは、そこまで。


そのあとの物語は、崩れかけた頁の中で、まだ、誰にも読まれずに眠っている。


「けれど、急ぎません」


私は、木を見上げた。


「マレンが言っていました。続きは、逃げやしない、と。……百合の花と、同じです。時が満ちれば、開きます」


「そうだな」


ユリウスは、頷いた。


「春の、楽しみが増えた」



夜のあいだに、一年が、胸の中を、ゆっくりと巡っていった。


去年の秋、私は、この町の収穫祭の隅で、初めて輪に入れてもらった。


冬、雪の中を、泣きながら訪ねてきた人がいた。


春、約束の芽吹きをふたりで見て、白百合の芽を見つけた。


初夏、王都で、友人がひとりで立つ姿を、いちばん後ろから見届けた。


小さな庭で、二十年ぶんの答えをもらった。


夏、静かな是正が遠くで実り、測る人が測れないものを覚えて帰った。


夕暮れの丘で、口実のない言葉をもらった。


そして今日——一年目の収穫祭に、私は、この町で、嫁いだ。


何も、望まなかったのに。


何も、取り戻そうとしなかったのに。


気がつけば、両手に、抱えきれないほどだ。


「……ユリウス様」


「なんだ」


「私、ずっと、身を引いて生きてきました」


月明かりの下で、言葉は、するりと出てきた。


「争わず、望まず、距離を取って。それが私の、生き方でした。……けれど、いまなら、分かるのです。私は、逃げるために身を引いたのでは、なかった」


白い花びらが、ひとつ、夜風にほどけた。


「引いた先で、根を下ろすために、引いたのです。……この場所に、出会うために」


「ああ」


ユリウスは、短く言った。


それから、私の手を、そっと握った。


「なら、もう、引かなくていい」


「……はい」


「ここから先は、ずっと、ここだ」



いつか、春が来る。


古い頁が開いて、聖人の物語の続きが、読める日が来る。


庭の白百合は、株を増やすだろう。


母は、また訪ねてくると約束した。

セシリア様の手紙は、季節ごとに届く。

北の聖堂には、今年の豆を、ひと袋送った。


ニコは字が上手くなり、リーゼルの店は、春に開く。


そして、私は。


朝の祈りをして、畑の世話をして、夕方には、この庭に帰ってくる。


来年も、再来年も、その先も、ずっと。


毎年、この木の芽吹きを、隣のこの人と、見上げながら。


「……帰ろう」


ユリウスが、言った。


「ええ」


私は、頷いた。


胸に手を当てると、ことり、と、あの音がした。


もう、迷いの音でも、揺れる音でもない。


根を下ろした人の、静かな、鼓動の音だった。


ここが、私の場所。


ここで、私は、生きていく。


月明かりの庭に、白百合の香りが、ほのかに、揺れていた。


――第二部 了。

第二部「取り戻さない人」、

全三十話を、お読みいただき、

本当に、ありがとうございました。


第一部の結びで、エルナは「ここが、私の場所」と言いました。


第二部の結びは、その続きです。


「ここで、私は、生きていく」


血の秘密は、守るための手放しでした。

神殿は、静かに生まれ変わりました。

測る人は、測れないものを覚えて帰りました。


そして、口実の人は、口実なしで想いを告げ、

一年目の収穫祭の日に、ふたりは夫婦になりました。


身を引いた先で、根を下ろし、花が咲く。


この物語が、あなたの心を、

少しでも、あたたかく、ほどけさせる時間になっていたなら、

これ以上の、よろこびはありません。


エルナとユリウスの物語は、

ここで、ひとつの大きな実りを迎えました。


ブックマーク・評価を、

心から、お願いいたします。


ここまでの、長いお付き合いに、

深い、深い感謝を込めて。

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