第57話 白百合の、咲く朝
収穫祭の朝は、金色に晴れた。
夜明け前から、町は動き出していた。
広場に並ぶ祝いの卓。
焼き上がっていくパンの匂い。
子どもたちの、はしゃぐ声。
その真ん中の教会で、私は、花嫁支度の椅子に座っていた。
「じっとしていてくださいね、エルナさん!」
リーゼルが、私の髪を、丁寧に結い上げていく。
鏡の中には、白い衣の私と、その後ろに、母と、マレンがいた。
「……きれいですよ」
母が、囁いた。
「世界で、いちばん」
◇
そのときだった。
教会の外から、ニコの声が、転がり込んできた。
「エルナねえちゃん! たいへん! たいへんだよ!」
「ニコ? どうしました」
「咲いた!」
ニコは、息を切らせて、目をまんまるにして、叫んだ。
「お屋敷の庭の! 木の下の! ……咲いたんだよ!」
◇
支度の途中のまま、私たちは、屋敷の庭へ急いだ。
朝の光の中に、あの木は立っていた。
夏に葉を茂らせた枝は、いまは秋の色に染まり——その枝という枝に、小さな白い花が、ほころんでいた。
季節外れの、花だった。
十五の年から一度も花をつけなかった木が、秋の朝に、静かに、咲いていた。
そして、その根元に。
白百合が、一輪、咲いていた。
まっすぐに伸びた茎の先で、朝露をまとって、開いたばかりの白が、光っていた。
あの日、土に還した、押し花の場所で。
「…………」
誰も、何も、言わなかった。
理屈なら、いくらでも、つけられるのだろう。
季節を間違えた花。
まぎれていた種。
暖かい秋。
けれど、この庭に立つ誰ひとり、理屈を口にしなかった。
「……間に合ったのですね」
私は、白百合の前に、膝を折った。
「今日に、間に合うように、咲いてくれたのですね」
神殿の庭から、たった一輪、持ち出した花。
役割の日々の、唯一の「私のもの」。
ありがとうと言って手放した過去が、名前を変えて、根を張って——私のいちばん大切な朝に、花になって、帰ってきた。
「エルナ」
マレンが、静かに言った。
「言い伝えの続きを、お話ししましたかね」
「続き……古い記録の、開けない頁の」
「ええ。頁は、まだ開けません。けれど、言い伝えのほうは、口伝えで、少しだけ、残っているのですよ」
マレンは、花咲く木を見上げた。
「役割を捨てた聖人は、この土地に根を下ろした。……その続きは、こうです」
朝の風が、白い花びらを、ひとつ、ふたつ、揺らした。
「——その聖人は、この土地で、家族を持ったそうですよ」
◇
「役割を捨てて、根を下ろして、家族を持った」
マレンは、私を見て、目を細めた。
「昔の人の言い伝えなんて、当てにならないものです。けれどね、エルナ。今日という日に限っては——ずいぶん、当てになる話だとは、思いませんか」
「……ええ」
私は、笑った。
涙がこぼれる前に、笑った。
「ずいぶん、当てになります」
「さ、戻りますよ」
マレンが、手を叩いた。
「支度の途中の花嫁を、いつまでも庭に立たせておくものではありません」
◇
教会に戻ると、母が、あの小さな箱を開けた。
飴色の、古い櫛。
母は、それを手に取り、結い上がった私の髪に、そっと、挿した。
「……ああ」
鏡の中の私を見て、母は、両手で口元を覆った。
「母さん。……見えますか」
母の呟きは、囁きよりも小さかった。
「あなたの櫛が、今日、いちばん幸せな髪に、挿さっていますよ」
鏡の中で、櫛は、白い衣によく映えた。
なんの変哲もない、田舎の木の櫛。
けれど今日、この櫛は、世界のどんな宝冠よりも、誇らしかった。
祖母の時間と、母の二十年と、私のこれからが、この一本に、そっと重なっていた。
遠くから、祭の始まりを告げる鐘が、聞こえてきた。
「さあ」
マレンが、扉に手をかけた。
「参りましょうか、花嫁さん」
本話をお読みいただき、ありがとうございました。
十五の年から花をつけなかった木が、咲きました。
土に還した白百合が、
いちばん大切な朝に、間に合いました。
そして、言い伝えの続き。
「——その聖人は、この土地で、家族を持ったそうですよ」
祖母の櫛を髪に、鐘の音とともに。
次話「静かな、結婚式」です。
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