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聖女を辞めましたが、私は静かに暮らすだけです 〜本物の乙女が現れたので聖印をお返ししたら、辺境でなぜか過剰に大切にされています〜  作者: リリア・ノワール


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第57話 白百合の、咲く朝

収穫祭の朝は、金色に晴れた。


夜明け前から、町は動き出していた。


広場に並ぶ祝いの卓。

焼き上がっていくパンの匂い。

子どもたちの、はしゃぐ声。


その真ん中の教会で、私は、花嫁支度の椅子に座っていた。


「じっとしていてくださいね、エルナさん!」


リーゼルが、私の髪を、丁寧に結い上げていく。


鏡の中には、白い衣の私と、その後ろに、母と、マレンがいた。


「……きれいですよ」


母が、囁いた。


「世界で、いちばん」



そのときだった。


教会の外から、ニコの声が、転がり込んできた。


「エルナねえちゃん! たいへん! たいへんだよ!」


「ニコ? どうしました」


「咲いた!」


ニコは、息を切らせて、目をまんまるにして、叫んだ。


「お屋敷の庭の! 木の下の! ……咲いたんだよ!」



支度の途中のまま、私たちは、屋敷の庭へ急いだ。


朝の光の中に、あの木は立っていた。


夏に葉を茂らせた枝は、いまは秋の色に染まり——その枝という枝に、小さな白い花が、ほころんでいた。


季節外れの、花だった。


十五の年から一度も花をつけなかった木が、秋の朝に、静かに、咲いていた。


そして、その根元に。


白百合が、一輪、咲いていた。


まっすぐに伸びた茎の先で、朝露をまとって、開いたばかりの白が、光っていた。


あの日、土に還した、押し花の場所で。


「…………」


誰も、何も、言わなかった。


理屈なら、いくらでも、つけられるのだろう。


季節を間違えた花。

まぎれていた種。

暖かい秋。


けれど、この庭に立つ誰ひとり、理屈を口にしなかった。


「……間に合ったのですね」


私は、白百合の前に、膝を折った。


「今日に、間に合うように、咲いてくれたのですね」


神殿の庭から、たった一輪、持ち出した花。


役割の日々の、唯一の「私のもの」。


ありがとうと言って手放した過去が、名前を変えて、根を張って——私のいちばん大切な朝に、花になって、帰ってきた。


「エルナ」


マレンが、静かに言った。


「言い伝えの続きを、お話ししましたかね」


「続き……古い記録の、開けない頁の」


「ええ。頁は、まだ開けません。けれど、言い伝えのほうは、口伝えで、少しだけ、残っているのですよ」


マレンは、花咲く木を見上げた。


「役割を捨てた聖人は、この土地に根を下ろした。……その続きは、こうです」


朝の風が、白い花びらを、ひとつ、ふたつ、揺らした。


「——その聖人は、この土地で、家族を持ったそうですよ」



「役割を捨てて、根を下ろして、家族を持った」


マレンは、私を見て、目を細めた。


「昔の人の言い伝えなんて、当てにならないものです。けれどね、エルナ。今日という日に限っては——ずいぶん、当てになる話だとは、思いませんか」


「……ええ」


私は、笑った。


涙がこぼれる前に、笑った。


「ずいぶん、当てになります」


「さ、戻りますよ」


マレンが、手を叩いた。


「支度の途中の花嫁を、いつまでも庭に立たせておくものではありません」



教会に戻ると、母が、あの小さな箱を開けた。


飴色の、古い櫛。


母は、それを手に取り、結い上がった私の髪に、そっと、挿した。


「……ああ」


鏡の中の私を見て、母は、両手で口元を覆った。


「母さん。……見えますか」


母の呟きは、囁きよりも小さかった。


「あなたの櫛が、今日、いちばん幸せな髪に、挿さっていますよ」


鏡の中で、櫛は、白い衣によく映えた。


なんの変哲もない、田舎の木の櫛。


けれど今日、この櫛は、世界のどんな宝冠よりも、誇らしかった。


祖母の時間と、母の二十年と、私のこれからが、この一本に、そっと重なっていた。


遠くから、祭の始まりを告げる鐘が、聞こえてきた。


「さあ」


マレンが、扉に手をかけた。


「参りましょうか、花嫁さん」

本話をお読みいただき、ありがとうございました。


十五の年から花をつけなかった木が、咲きました。


土に還した白百合が、

いちばん大切な朝に、間に合いました。


そして、言い伝えの続き。


「——その聖人は、この土地で、家族を持ったそうですよ」


祖母の櫛を髪に、鐘の音とともに。


次話「静かな、結婚式」です。


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