第56話 ふたつの、返事
秋が、深まっていった。
畑の豆は莢ごと乾されて、蔵に積まれた。
森は日ごとに色を変え、朝の空気には、薄く、霜の匂いが混じり始めた。
収穫祭まで、あと十日。
町のおせっかいは、いよいよ仕上げに入っていた。
◇
「参ります!!」の勢いのまま、セシリア様の手紙は、続きも賑やかだった。
「大聖儀より、緊張しております。
何を着てまいればよいのでしょう。
白い衣は、務めの装いですから、違う気がするのです。
ヨナス様に相談しましたら、
『友人の装いで行かれるのがよろしいでしょう』と。
私、務めの外の装いというものを、
ほとんど、持っていないことに気がつきました。
生まれて初めて、旅支度に、わくわくしております。
追伸。
辺境の教会が「祈りの家」であることと、
私がエルナ様の式に参ることは、なんの関わりもございません。
これは、聖女ではなく、友人のセシリアが、参るのです」
「ふふ……」
読みながら、頬がゆるんだ。
役割ではなく、友人として。
あの方は、もう、その区別を、自分の足で歩ける人になっていた。
◇
母からの荷が届いたのは、その数日後だった。
荷馬車から降ろされたのは、大きな木箱がひとつ。
開けてみると、丁寧に布で包まれた品々が、几帳面に納められていた。
婚礼の細々とした支度の品。
王都の上等な糸と布。
茶葉と、菓子と、庭の花の種。
そして、いちばん奥に。
小さな、古い箱があった。
私は、それを、そっと開けた。
中には、一本の櫛が、納められていた。
飴色に艶の出た、古い、木の櫛。
歯のひとつが、少しだけ、欠けている。
添えられた文には、母の細い文字で、こう書かれていた。
「エルナへ。
それは、あなたのおばあさまの、櫛です。
母の持ち物は、ほとんど残っておりません。
祈りのお礼にいただいた品々は、母が、皆、困っている人に配ってしまいましたから。
その櫛だけが、母が最後まで手放さなかった、たったひとつの持ち物です。
なんの変哲もない、田舎の木の櫛です。
けれど母は、祈りで疲れて帰った夜、その櫛で髪を梳きながら、よく歌をうたっていました。
祈りの人ではなく、ただのひとりの人に戻る時間が、
母には、その櫛の時間だけ、だったのだと思います。
婚礼の朝に、あなたの髪に、挿してあげてください。
役割ではなく、ただの人として、
いちばん幸せな日を迎える孫娘を、
母に、見せてあげてください」
◇
私は、櫛を手のひらに載せて、長いあいだ、見つめていた。
会ったことのない、祖母。
善意と敬いに使い潰された人。
その人が、ただのひとりの人に戻れた、櫛の時間。
「……見ていてくださいね」
私は、櫛に、そっと言った。
「あなたの孫は、役割ではなく、ただのエルナとして、嫁ぎます。……あなたの娘が、守り抜いてくれた道の、いちばん先で」
窓の外では、町の広場に、祭の櫓が組み上がっていくところだった。
◇
そして、収穫祭の前日。
町の入り口に、二台の馬車が、相次いで到着した。
一台からは、旅装のセシリア様と、ヨナス様。
「エルナ様ーっ!」
もう、フードで顔を隠す必要のない当代の乙女は、馬車から降りるなり、子どものように手を振った。
もう一台からは——母が、降り立った。
初めて見る、旅装の母。
母は、町を、教会を、集まってきた人々を、ゆっくりと見渡した。
そして、駆け寄った私の手を取って、囁くように言った。
「……良い町。あなたの手紙の、とおりね」
明日は、収穫祭。
そして、式の日だった。
本話をお読みいただき、ありがとうございました。
祈りの人ではなく、ただのひとりの人に戻る時間が、
櫛の時間だけだった、おばあさま。
その櫛が、孫娘の婚礼の朝に、立ち会います。
使い潰された人の物語が、
いちばん幸せな日に、ようやく報われるのです。
次話「白百合の、咲く朝」——
式の朝、庭で、静かな奇跡が待っています。
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