第53話 口実の、いらない日
「俺として、言う。……エルナ。俺は、お前に、居てほしい。この先の、俺の一生の、隣にだ」
その言葉は、夕暮れの丘の上で、まっすぐに、私に届いた。
胸の奥で、ことり、ことり、と、音が鳴り続けていた。
もう、ずっと前から鳴っていた音が、いま、いちばん大きく。
「ユリウス様……」
「まだだ」
彼は、私の言葉を、そっと止めた。
「……まだ、最後まで、言わせてくれ。ここで止まったら、俺は、たぶん、あと二年かかる」
「ふふ……はい」
◇
ユリウスは、上着のポケットに、手を入れた。
手ぶらで来る、と言った人の、その手が、小さなものを、取り出した。
夕陽を受けて、それは、淡く光った。
指輪——ではなかった。
細い若枝を、丁寧に、丁寧に編んで作られた、小さな環だった。
ところどころに、緑の若葉が、まだついている。
「あの木の枝だ」
ユリウスが言った。
「庭の。……あの木の、今年伸びた枝で、作った」
あの木。
彼が十五の年から花をつけなかった、枯れかけていた木。
私が白百合を還した木。
約束の、毎年の、木。
「宝石を、贈るべきなんだろう。家紋の指輪でも、王都の細工物でもいい。それが、家格に見合った形だ。……だが、それは、フォン・リント家の当主が、贈るものだ」
彼は、若枝の環を、手のひらに載せた。
「俺として贈れるものを、考えた。何日も考えて、……これしか、なかった。枯れかけていたのに、お前が来てから、芽吹いた木だ。俺と、同じだからだ」
不器用な指が、環を、私に差し出した。
「エルナ」
夕陽が、沈みかけていた。
世界のいちばん静かな時間に、その言葉は、置かれた。
「俺の、妻になってほしい」
◇
風が、丘を渡った。
町の灯が、またひとつ、ふたつ、増えた。
私は、差し出された小さな環を、見つめていた。
若枝の、環。
薪でも、林檎でも、蜂蜜でもない。
余りものでは、ない。
この人が、生まれて初めて、口実なしに差し出した、たったひとつのもの。
——ずっと、私は「役割」だった。
家にとっての、駒。
神殿にとっての、聖女。
噂の中の、清らかな先代様。
誰かに必要とされるとは、役割を果たすことだと、思って生きてきた。
けれど、この人は。
洗い物をしていただけの私を、見つけてくれた。
何の役にも立たない、ただ静かなだけの私の隣に、一年あまり、口実を積み上げてまで、居続けてくれた。
そして今、領主の面を外して、家格も、体裁も、宝石も、全部脇に置いて。
俺として。
私に、居てほしいと、言ってくれている。
役割では、なく。
エルナとして。
「…………」
目の奥から、熱いものが、あふれそうになった。
言葉が、喉の奥で、いちばん大切な形を、探していた。
去年、聖印を返した日に言った「承知いたしました」でもない。
役割としての、どの言葉でもない。
私の、言葉。
私は、ゆっくりと、息を吸った。
本話をお読みいただき、ありがとうございました。
宝石ではなく、家紋でもなく。
枯れかけていたのに芽吹いた、あの木の若枝の環。
「俺と、同じだからだ」
一年あまりの口実の果てに、
口実のいらない言葉が、夕暮れの丘に置かれました。
「俺の、妻になってほしい」
エルナの返事は——次話「承知、いたしました」。
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