第52話 役割でなく、俺として
丘の上の大きな木は、町と、畑と、遠い山並みを、いちどに見渡せる場所に立っていた。
夕暮れの光が、世界を、蜂蜜の色に染めていた。
その木の下に、ユリウスは立っていた。
本当に、手ぶらだった。
薪も、林檎も、壺も、袋も、何も持たずに、ただ、立っていた。
「……来たか」
「はい」
私は、隣に並んだ。
「手ぶらのユリウス様は、初めて見ます」
「ああ」
彼は、少し笑った。
「落ち着かない」
「ふふ」
しばらく、ふたりで、暮れていく町を眺めた。
家々に、夕餉の灯がともり始める。
川が光り、教会の屋根が、遠くに小さく見えた。
「エルナ」
やがて、ユリウスが言った。
「今日は、話をしに来た。……長くなる。いいか」
「はい」
「俺の話だ。誰にも、したことがない」
◇
「親父が死んだのは、俺が十五の年だ」
彼は、山並みを見たまま、話し始めた。
「流行り病だった。あっけなかった。……葬儀の朝、俺は屋敷の廊下で、家令に呼び止められた。『本日より、御領主様とお呼びいたします』と」
夕方の風が、木の葉を、静かに揺らした。
「泣く暇も、なかった。親父の椅子に座って、親父の印章を持たされて、親父の名で、書類に判を押した。……十五の餓鬼がだ。誰も、俺の顔なんか見ちゃいなかった。皆が見ていたのは『領主』だ。若すぎる領主が、務まるのか、潰れるのか。それだけだ」
「……はい」
「だから俺は、潰れないことにした。感情を、顔に出すのをやめた。言葉を、減らした。迷っても、迷った顔をしない。……そうやって、領主の面だけで、生きてきた。何年も、何年もだ」
彼は、自分の手のひらを、見下ろした。
「そのうち、分からなくなった。領主の面の下に、俺というものが、まだ残っているのか。……残っていたとして、そんなもの、誰かに要るのか」
私は、黙って、聞いていた。
知っている、と思った。
役割の面の下で、自分の輪郭が薄れていく、あの静かな心細さを。
私は、それを、聖女の座で味わった。
この人は、領主の椅子で味わった。
◇
「去年の、夏の終わりだ」
ユリウスは、続けた。
「教会に、王都から人が来たと聞いた。元聖女だと。……正直、面倒だと思った。厄介の種が来た、とな。様子だけ見て、帰るつもりだった」
「まあ」
「そうしたら」
彼は、そこで初めて、私を見た。
「お前は、庭で、ただ、洗い物をしていた」
「……洗い物」
「ああ。聖女だった人間が、辺境の教会の隅で、鼻歌も歌わず、不幸そうでもなく、ただ静かに、桶に向かっていた。……それを見た瞬間、分からなくなった。この人は、何も欲しがっていない。何も、取り戻そうとしていない。役割を降りて、それでも、ちゃんと、そこに立っている」
夕陽が、彼の横顔を、深い金色に縁取っていた。
「衝撃だった。……役割を降りても、人は、人でいられるのか、と。降りた先で、あんなに静かな顔で、立っていられるのか、と。俺が何年も、怖くてできなかったことを、お前は、もう、していた」
「ユリウス様……」
「薪を持っていったのは、その日の夕方だ」
彼は、少し、笑った。
「口実なんてものを、生まれて初めて、考えた。会って、何を話すつもりもない。ただ、あの静けさの近くに、いたかった。……それだけのために、一年あまり、うちの薪と林檎と蜂蜜は、余り続けた」
「ふふ……」
笑いながら、目の奥が、熱くなった。
◇
「エルナ」
ユリウスは、まっすぐに、私に向き直った。
「お前のそばで、俺は、少しずつ、思い出した。領主の面の下に、まだ、俺がいたことをだ。……お前が、名前で呼ばれて嬉しそうにするたび、俺も、思っていた。俺も、ただのユリウスとして、お前の隣にいたいと」
風が、止んだ。
世界の音が、夕陽の色の中に、遠のいていった。
「だから、これは、領主として言うんじゃない。リントの、フォン・リントの、当主として言うんでもない」
彼は、一度、深く息を吸った。
「俺として、言う。……エルナ。俺は、お前に、居てほしい。この先の、俺の一生の、隣にだ」
本話をお読みいただき、ありがとうございました。
十五の年に、泣く暇もなく領主の面をかぶった人が。
洗い物をする元聖女の静けさに、
「役割を降りても、人は人でいられる」ことを教わって。
一年あまり、薪と林檎と蜂蜜を余らせ続けて。
今日、面を外して、言いました。
「俺として、言う」——。
次話「口実の、いらない日」。
手ぶらのはずの彼の手が、ポケットの中で、何かに触れます。
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