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聖女を辞めましたが、私は静かに暮らすだけです 〜本物の乙女が現れたので聖印をお返ししたら、辺境でなぜか過剰に大切にされています〜  作者: リリア・ノワール


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第52話 役割でなく、俺として

丘の上の大きな木は、町と、畑と、遠い山並みを、いちどに見渡せる場所に立っていた。


夕暮れの光が、世界を、蜂蜜の色に染めていた。


その木の下に、ユリウスは立っていた。


本当に、手ぶらだった。


薪も、林檎も、壺も、袋も、何も持たずに、ただ、立っていた。


「……来たか」


「はい」


私は、隣に並んだ。


「手ぶらのユリウス様は、初めて見ます」


「ああ」


彼は、少し笑った。


「落ち着かない」


「ふふ」


しばらく、ふたりで、暮れていく町を眺めた。


家々に、夕餉の灯がともり始める。


川が光り、教会の屋根が、遠くに小さく見えた。


「エルナ」


やがて、ユリウスが言った。


「今日は、話をしに来た。……長くなる。いいか」


「はい」


「俺の話だ。誰にも、したことがない」



「親父が死んだのは、俺が十五の年だ」


彼は、山並みを見たまま、話し始めた。


「流行り病だった。あっけなかった。……葬儀の朝、俺は屋敷の廊下で、家令に呼び止められた。『本日より、御領主様とお呼びいたします』と」


夕方の風が、木の葉を、静かに揺らした。


「泣く暇も、なかった。親父の椅子に座って、親父の印章を持たされて、親父の名で、書類に判を押した。……十五の餓鬼がだ。誰も、俺の顔なんか見ちゃいなかった。皆が見ていたのは『領主』だ。若すぎる領主が、務まるのか、潰れるのか。それだけだ」


「……はい」


「だから俺は、潰れないことにした。感情を、顔に出すのをやめた。言葉を、減らした。迷っても、迷った顔をしない。……そうやって、領主の面だけで、生きてきた。何年も、何年もだ」


彼は、自分の手のひらを、見下ろした。


「そのうち、分からなくなった。領主の面の下に、俺というものが、まだ残っているのか。……残っていたとして、そんなもの、誰かに要るのか」


私は、黙って、聞いていた。


知っている、と思った。


役割の面の下で、自分の輪郭が薄れていく、あの静かな心細さを。


私は、それを、聖女の座で味わった。


この人は、領主の椅子で味わった。



「去年の、夏の終わりだ」


ユリウスは、続けた。


「教会に、王都から人が来たと聞いた。元聖女だと。……正直、面倒だと思った。厄介の種が来た、とな。様子だけ見て、帰るつもりだった」


「まあ」


「そうしたら」


彼は、そこで初めて、私を見た。


「お前は、庭で、ただ、洗い物をしていた」


「……洗い物」


「ああ。聖女だった人間が、辺境の教会の隅で、鼻歌も歌わず、不幸そうでもなく、ただ静かに、桶に向かっていた。……それを見た瞬間、分からなくなった。この人は、何も欲しがっていない。何も、取り戻そうとしていない。役割を降りて、それでも、ちゃんと、そこに立っている」


夕陽が、彼の横顔を、深い金色に縁取っていた。


「衝撃だった。……役割を降りても、人は、人でいられるのか、と。降りた先で、あんなに静かな顔で、立っていられるのか、と。俺が何年も、怖くてできなかったことを、お前は、もう、していた」


「ユリウス様……」


「薪を持っていったのは、その日の夕方だ」


彼は、少し、笑った。


「口実なんてものを、生まれて初めて、考えた。会って、何を話すつもりもない。ただ、あの静けさの近くに、いたかった。……それだけのために、一年あまり、うちの薪と林檎と蜂蜜は、余り続けた」


「ふふ……」


笑いながら、目の奥が、熱くなった。



「エルナ」


ユリウスは、まっすぐに、私に向き直った。


「お前のそばで、俺は、少しずつ、思い出した。領主の面の下に、まだ、俺がいたことをだ。……お前が、名前で呼ばれて嬉しそうにするたび、俺も、思っていた。俺も、ただのユリウスとして、お前の隣にいたいと」


風が、止んだ。


世界の音が、夕陽の色の中に、遠のいていった。


「だから、これは、領主として言うんじゃない。リントの、フォン・リントの、当主として言うんでもない」


彼は、一度、深く息を吸った。


「俺として、言う。……エルナ。俺は、お前に、居てほしい。この先の、俺の一生の、隣にだ」

本話をお読みいただき、ありがとうございました。


十五の年に、泣く暇もなく領主の面をかぶった人が。


洗い物をする元聖女の静けさに、

「役割を降りても、人は人でいられる」ことを教わって。


一年あまり、薪と林檎と蜂蜜を余らせ続けて。


今日、面を外して、言いました。


「俺として、言う」——。


次話「口実の、いらない日」。

手ぶらのはずの彼の手が、ポケットの中で、何かに触れます。


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