第51話 夏の、リント
夏の名残りの、よく晴れた日だった。
川では、ニコと子どもたちが、今年最後の水遊びに興じていた。
「エルナねえちゃん、見てて!」
ニコが石の上から飛び込んで、盛大な水しぶきを上げる。
「上手ですよ」
私は岸辺で、洗い物をしながら笑った。
畑では豆の莢が膨らみ、森の蜂の巣箱は蜜の甘い匂いを放ち、町は冬支度にはまだ早い、いちばん穏やかな季節の中にいた。
神殿の垣根も、王都の思惑も、もう、ない。
あるのは、洗い物と、豆と、蜂蜜と、子どもの歓声だけ。
なんて、豊かなのだろう。
◇
その帰り道、私は蜂蜜屋の前で、女将とリーゼルに呼び止められた。
「エルナさん、ちょっと味見していきなよ。今年の初物だ」
「まあ。では、少しだけ」
匙でひとくち。
夏の花の香りが、口いっぱいに広がった。
「おいしい……」
「だろう? 今年のは、格別でねえ」
女将は、にんまりと笑った。
「格別といえば、エルナさん。あんた最近、うちの領主様を見たかい」
「ユリウス様、ですか? ここ数日は、お見えになりませんけれど」
「だろうねえ」
「だろうねえ、って」
リーゼルと女将は、顔を見合わせて、実に楽しそうに笑った。
「いやあ、ねえ?」
「ねえ?」
「あの、おふたりとも……?」
「なんでもないさ。ほら、蜂蜜、ひと瓶持っていきな。おまけだよ」
◇
数日ぶりにユリウスの姿を見たのは、その翌日、教会の窓からだった。
彼は、教会には来なかった。
代わりに、マレンが畑の隅で、彼と何やら立ち話をしていた。
ユリウスは、腕を組んで、難しい顔をしている。
マレンは、それは穏やかに、何度も頷いている。
やがてユリウスは、深々と頭を下げて——領主が、シスターに、深々と——足早に帰っていった。
「……マレン?」
夕方、私は思いきって訊いてみた。
「ユリウス様と、何のお話をなさっていたのですか」
「ん? ああ」
マレンは、こともなげに言った。
「懺悔ですよ」
「ざ、懺悔!? ユリウス様が、何か悪いことを」
「まあ、悪いこと、といいますか」
マレンは、笑いをかみ殺した。
「いい大人が、まだ言えずにいる言葉がある、というのは、罪といえば、罪ですかねえ」
「……?」
「こちらの話です。さ、夕餉にしましょう」
◇
その夜、私は寝台の中で、天井を見つめていた。
近いうちに、話がある。
あの日から、ユリウスは、教会に来ない。
口実の、薪も、林檎も、蜂蜜も、ぱたりと、止まった。
来ないと、来ないで。
こんなにも、落ち着かない。
「……いつの間に」
私は、毛布を、少しだけ引き上げた。
いつの間に、私は、あの見え透いた口実たちを、こんなにも、待つようになっていたのだろう。
胸の奥で、ことり、ことり、と、音がしていた。
静かな夜に、その音だけが、妙に大きく聞こえた。
◇
そして、数日後の朝。
教会の戸口に、ニコが駆け込んできた。
「エルナねえちゃん! あのね、領主様が!」
「ユリウス様が、どうかしましたか」
「あのね、夕方、丘の上の、大きな木のところに、来てほしいって!」
ニコは、言伝の大役に、頬を紅潮させていた。
「それでね、えっとね……『手ぶらで来る』って!」
「……手ぶらで?」
「うん! 『今日は、口実がない』って、言ってた!」
本話をお読みいただき、ありがとうございました。
大きな話がぜんぶ終わった町で、
小さな企みが、すくすく育っています。
女将とリーゼルの含み笑い。
マレンへの「懺悔」。
そして、ぱたりと止まった、口実の品々。
——『今日は、口実がない』。
次話「役割でなく、俺として」。
夕方の丘で、生まれてから今日までぶんの言葉が、語られます。
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