第50話 敬意を、残して
夏の終わりの、風の澄んだ日だった。
教会の前に、一台の馬車が停まった。
漆黒の車体。
金の飾り。
辺境の町には、あまりに場違いな、王都仕立ての馬車。
降りてきた人は、旅の埃ひとつ感じさせない立ち姿で、優美に一礼した。
「ご機嫌よう、エルナ様」
レオンハルト・カイだった。
◇
「……先触れもなく、非礼をお許しください。なに、長居はいたしません」
彼は、教会には入らず、前庭に立ったまま言った。
その視線が、ふと、庭の畑と、干してある洗濯物と、ニコが置き忘れた木剣を、順に辿った。
「なるほど。……これが、あなたの選んだ場所ですか」
「はい」
私は頷いた。
「ようこそ、リントへ」
「ふ。……敵地でも、ようこそと仰る」
「敵地では、ありませんから」
そのとき、教会の裏手から、足音がした。
ユリウスだった。
畑仕事の途中だったのだろう、袖をまくった普段着のまま、彼は無言で私の隣に立った。
レオンハルトは、その姿に目を細めた。
「これは、フォン・リント卿。……領主自ら、畑を?」
「余っていたからだ」
「何が、です」
「手が」
レオンハルトは、一瞬きょとんとして、それから、ほんとうに小さく、噴き出した。
私が初めて見る、作り物ではない笑いだった。
◇
「本日は、ふたつ、お伝えに参りました」
彼は、姿勢を正した。
「ひとつ。カイ家は、先の縁組みの申し入れを、正式に撤回いたします。以後、あなたに、いかなる申し入れもいたしません。……当主たる私の名において、決めたことです」
「……はい」
「ふたつ。これは、伝えるというより、白状ですが」
彼は、少しのあいだ、言葉を選んだ。
「私は、生まれてこのかた、人を測って生きてまいりました。血筋、家格、才、美質、使い道。……測って、値をつけて、並べる。それが私の役目であり、才であり、誇りでした」
夏の終わりの風が、庭の木々を、さらさらと鳴らした。
「あなたを初めて測ったとき、私の物差しは、こう言いました。最上の血、最上の加護、しかるに立場は空位。これほど値打ちのある駒が、野に落ちている、と」
「ええ。そういう目を、しておいででした」
「でしょうな」
彼は、苦笑した。
「ですが、あなたと出会ってこのかた、私の物差しは、狂いっぱなしです。座を惜しまぬ聖女。血の話を退ける令嬢。値打ちを告げるほど、遠ざかる人。……挙げ句、あの小さな庭で、あなたの母君と、あなたに」
彼は、首を振った。
「私は、白状します。あなたを、測れませんでした。私の物差しには、あなたの目盛りが、ないのです」
「レオンハルト様」
私は、静かに言った。
「それは、あなたの物差しが、壊れているのではありません」
「ほう」
「人は、そもそも、測るものでは、ないというだけです」
彼は、長いあいだ、私を見ていた。
やがて、ゆっくりと、頷いた。
「……その理屈を認めるには、私は少々、この生き方が長すぎました。ですが」
彼は、庭の隅に目をやった。
あの木の根元で、白百合の芽が、風に揺れていた。
「測れないものが、あるということだけは。……覚えて、帰ります」
◇
彼は、馬車に戻りかけて、足を止めた。
そして、ユリウスに向き直った。
「フォン・リント卿」
「なんだ」
「あなたは、良いものを測り当てた」
ユリウスは、少しのあいだ黙って、それから、静かに答えた。
「……測ったわけじゃない」
「ええ」
レオンハルトは、微笑んだ。
「それが、私との、違いです」
彼は、完璧な角度の礼を、最後にもう一度だけして、馬車に乗り込んだ。
車輪の音が、遠ざかっていく。
漆黒の馬車は、夏の終わりの街道を、王都へ向かって、小さくなっていった。
もう、振り返らなかった。
私たちも、追わなかった。
「……行ったな」
「ええ」
「これで、全部か」
「はい」
私は、頷いた。
神殿の垣根も、王都の思惑も、血の値段も。
私をどこかへ引き戻そうとするものは、この世界から、ひとつ残らず、なくなった。
「これで、全部です」
空は高く、風は澄んで、秋の匂いが、もう、混じり始めていた。
隣で、ユリウスが、小さく息を吸った。
何かを、言いかけて。
「……いや」
やめて、それから、思い直したように、言った。
「エルナ。……近いうちに、話がある」
「はい?」
「近いうちに、だ」
そう言って、彼は、耳を赤くしたまま、畑へ戻っていった。
本話をお読みいただき、ありがとうございました。
人を測り続けた人が、
「測れなかった」と白状しに、遠い辺境まで来ました。
あなたは、良いものを測り当てた。
——測ったわけじゃない。
ええ。それが、私との、違いです。
これで、エルナを引き戻そうとするものは、
世界から、ひとつ残らず、なくなりました。
そして——「近いうちに、話がある」。
次話「夏の、リント」から、
物語は、いよいよ、ご褒美の季節に入ります。
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どうぞ、よろしくお願いいたします。




