第45話 私は、帰ります
王都を発つ日は、よく晴れた。
初夏の朝の光の中で、私は宿の荷物をまとめ、世話になった帳場の主人に礼を言った。
出立の前に、寄るところが、ふたつあった。
◇
ひとつめは、大神殿の裏手の、小さな門だった。
表の石段からは、入れない。
けれど、裏の通用門なら、と、文を届けてくれた人がいた。
門のそばの木陰に、白い衣のセシリア様と、ヨナス様が立っていた。
「お発ちに、なるのですね」
「ええ」
私は頷いた。
「良い儀式を、見せていただきました。……あの難しい段を、見事に越えられました」
「気づいて、おられたのですか」
セシリア様は、目を丸くして、それから、照れたように笑った。
「あそこで、一度だけ、声が揺れて。……でも、不思議なのです。揺れた瞬間、ふっと、思い出したのです。ひとりで立つことと、ひとりぼっちは、違う、って。そうしたら、次の息が、すっと入って」
「ええ」
私は微笑んだ。
「そういうものです。祈りは」
「エルナ様」
セシリア様は、居住まいを正した。
「神殿は、これから、変わります。変えて、みせます。ヨナス様と、志を同じくする方々と……時間は、かかると思います。けれど」
「ええ。あなたなら、できます」
私は、心から言った。
「王都の乙女は、あなたです。私は、辺境で、畑の祈りをしています。……どちらも、同じ祈りです。場所が、違うだけ」
「……はい!」
別れ際、セシリア様は、少しだけ迷ってから、言った。
「秋に、お手紙を書きます。それから、いつか、必ず、リントへ。……約束のご恩も、まだ、お返しできていませんから」
「お待ちしています」
私は頷いた。
「蜂蜜パンを、ご用意して」
◇
ふたつめは、あの小さな庭だった。
母は、門の前で、待っていてくれた。
「これを」
母は、小さな包みを、私に持たせた。
開けてみると、中には、茶葉の缶と、庭の花の種と——古い、小さな鍵がひとつ。
「鍵……?」
「実家の——私の生まれた家の、文箱の鍵です。母の、祈りの覚え書きが入っています。いつか、あなたに渡したいと、ずっと」
「よろしいのですか」
「あなた以外の、誰が読むのです」
母は、笑った。
昨日よりも、ずっと、やわらかい顔だった。
「急がなくて、いいのです。いつか、読みたくなった日に。……それから、エルナ」
「はい」
「あちらでの暮らしを、手紙に書いてくれますか。季節に、一度でいい。畑のことでも、教会のことでも、パンのことでも」
「はい」
私は頷いた。
「毎月、書きます」
「まあ」
母は、目を潤ませて、笑った。
「二十年ぶんには、まだまだ、足りませんね」
それから母は、馬車のそばに立つユリウスに向き直り、深く、頭を下げた。
「娘を、よろしくお願いいたします」
「はい」
ユリウスは、短く、はっきりと答えた。
「必ず」
その一言に、母は、何かを確かめたように、深く頷いた。
◇
馬車が、王都の門をくぐった。
私は窓から、遠ざかる街を見ていた。
大神殿の白い塔。
貴族街の屋根。
噂の辻。
小さな庭。
一年前、私はこの街を、空っぽの手で出た。
今日の手には、茶葉と、花の種と、古い鍵と——二十年ぶんの、答えがある。
血の秘密は、もう、秘密ではない。
祖母の物語は、悲しい物語だった。
母の沈黙は、痛い沈黙だった。
けれど、そのどちらも、私を縛るものではなかった。
血は、私の一部で。
私は、血より、大きい。
だから、私は、王都に残らない。
侯爵家にも、カイ家にも、神殿にも、戻らない。
私の帰る場所は、決まっている。
「……眠っていい」
隣で、ユリウスが言った。
「着いたら、起こす」
「ふふ。……では、お言葉に甘えて」
私は目を閉じた。
馬車の揺れが、ゆりかごのようだった。
まぶたの裏に、リントの春が浮かんだ。
芽吹いた木。
白百合の芽。
ニコの声。
リーゼルのパン。
マレンのお茶。
私は、帰ります。
役割からでも、過去からでも、逃げるのではなく。
ただ、私の居場所へ、帰るのです。
◇
うとうとと、揺られながら。
半分だけ覚めた耳が、ユリウスの、小さな独り言を拾った。
「……秋、か」
秋?
何のことだろう、と思う間もなく、眠りが私を包んだ。
だから私は、見ていない。
そのとき隣で、何かを深く決めた人が、どんな横顔をしていたのか。
本話をお読みいただき、ありがとうございました。
茶葉と、花の種と、古い鍵と、二十年ぶんの答え。
空っぽの手で出た街を、
エルナは今日、両手をいっぱいにして、後にしました。
血は、私の一部で。
私は、血より、大きい。
これにて、王都の章は幕。
物語は、辺境リントへ帰ります。
そして——「……秋、か」と呟いた人が、
何を決めたのかは、まだ、誰も知りません。
次話「ただいまの、代わりに」では、
町総出の出迎えが待っています。
ブックマーク・評価、
どうぞ、よろしくお願いいたします。




