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聖女を辞めましたが、私は静かに暮らすだけです 〜本物の乙女が現れたので聖印をお返ししたら、辺境でなぜか過剰に大切にされています〜  作者: リリア・ノワール


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第45話 私は、帰ります

王都を発つ日は、よく晴れた。


初夏の朝の光の中で、私は宿の荷物をまとめ、世話になった帳場の主人に礼を言った。


出立の前に、寄るところが、ふたつあった。



ひとつめは、大神殿の裏手の、小さな門だった。


表の石段からは、入れない。


けれど、裏の通用門なら、と、文を届けてくれた人がいた。


門のそばの木陰に、白い衣のセシリア様と、ヨナス様が立っていた。


「お発ちに、なるのですね」


「ええ」


私は頷いた。


「良い儀式を、見せていただきました。……あの難しい段を、見事に越えられました」


「気づいて、おられたのですか」


セシリア様は、目を丸くして、それから、照れたように笑った。


「あそこで、一度だけ、声が揺れて。……でも、不思議なのです。揺れた瞬間、ふっと、思い出したのです。ひとりで立つことと、ひとりぼっちは、違う、って。そうしたら、次の息が、すっと入って」


「ええ」


私は微笑んだ。


「そういうものです。祈りは」


「エルナ様」


セシリア様は、居住まいを正した。


「神殿は、これから、変わります。変えて、みせます。ヨナス様と、志を同じくする方々と……時間は、かかると思います。けれど」


「ええ。あなたなら、できます」


私は、心から言った。


「王都の乙女は、あなたです。私は、辺境で、畑の祈りをしています。……どちらも、同じ祈りです。場所が、違うだけ」


「……はい!」


別れ際、セシリア様は、少しだけ迷ってから、言った。


「秋に、お手紙を書きます。それから、いつか、必ず、リントへ。……約束のご恩も、まだ、お返しできていませんから」


「お待ちしています」


私は頷いた。


「蜂蜜パンを、ご用意して」



ふたつめは、あの小さな庭だった。


母は、門の前で、待っていてくれた。


「これを」


母は、小さな包みを、私に持たせた。


開けてみると、中には、茶葉の缶と、庭の花の種と——古い、小さな鍵がひとつ。


「鍵……?」


「実家の——私の生まれた家の、文箱の鍵です。母の、祈りの覚え書きが入っています。いつか、あなたに渡したいと、ずっと」


「よろしいのですか」


「あなた以外の、誰が読むのです」


母は、笑った。


昨日よりも、ずっと、やわらかい顔だった。


「急がなくて、いいのです。いつか、読みたくなった日に。……それから、エルナ」


「はい」


「あちらでの暮らしを、手紙に書いてくれますか。季節に、一度でいい。畑のことでも、教会のことでも、パンのことでも」


「はい」


私は頷いた。


「毎月、書きます」


「まあ」


母は、目を潤ませて、笑った。


「二十年ぶんには、まだまだ、足りませんね」


それから母は、馬車のそばに立つユリウスに向き直り、深く、頭を下げた。


「娘を、よろしくお願いいたします」


「はい」


ユリウスは、短く、はっきりと答えた。


「必ず」


その一言に、母は、何かを確かめたように、深く頷いた。



馬車が、王都の門をくぐった。


私は窓から、遠ざかる街を見ていた。


大神殿の白い塔。

貴族街の屋根。

噂の辻。

小さな庭。


一年前、私はこの街を、空っぽの手で出た。


今日の手には、茶葉と、花の種と、古い鍵と——二十年ぶんの、答えがある。


血の秘密は、もう、秘密ではない。


祖母の物語は、悲しい物語だった。

母の沈黙は、痛い沈黙だった。


けれど、そのどちらも、私を縛るものではなかった。


血は、私の一部で。

私は、血より、大きい。


だから、私は、王都に残らない。

侯爵家にも、カイ家にも、神殿にも、戻らない。


私の帰る場所は、決まっている。


「……眠っていい」


隣で、ユリウスが言った。


「着いたら、起こす」


「ふふ。……では、お言葉に甘えて」


私は目を閉じた。


馬車の揺れが、ゆりかごのようだった。


まぶたの裏に、リントの春が浮かんだ。


芽吹いた木。

白百合の芽。

ニコの声。

リーゼルのパン。

マレンのお茶。


私は、帰ります。


役割からでも、過去からでも、逃げるのではなく。


ただ、私の居場所へ、帰るのです。



うとうとと、揺られながら。


半分だけ覚めた耳が、ユリウスの、小さな独り言を拾った。


「……秋、か」


秋?


何のことだろう、と思う間もなく、眠りが私を包んだ。


だから私は、見ていない。


そのとき隣で、何かを深く決めた人が、どんな横顔をしていたのか。

本話をお読みいただき、ありがとうございました。


茶葉と、花の種と、古い鍵と、二十年ぶんの答え。


空っぽの手で出た街を、

エルナは今日、両手をいっぱいにして、後にしました。


血は、私の一部で。

私は、血より、大きい。


これにて、王都の章は幕。

物語は、辺境リントへ帰ります。


そして——「……秋、か」と呟いた人が、

何を決めたのかは、まだ、誰も知りません。


次話「ただいまの、代わりに」では、

町総出の出迎えが待っています。


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