第44話 測れないもの
翌日、私はもう一度、あの小さな庭を訪ねた。
王都を発つ前に、母と、ゆっくり話しておきたかった。
今度は、ユリウスも一緒だった。
「まあ……まあ、まあ」
母は、ユリウスを前にして、何度も同じ言葉を繰り返した。
「辺境伯様、直々に。娘が、その、いつも、お世話に」
「世話には、なっていません」
ユリウスは、生真面目に言った。
「……こちらが、世話になっています。町の全員が」
「まあ」
母は、目を丸くして、それから、ふ、と笑った。
「……正直な方」
「はい」
私は頷いた。
「取り柄です」
「おい」
卓に、昨日とは違う、あたたかい空気が流れた。
二十年ぶんの距離は、一日では埋まらない。
けれど、埋め始めることは、できる。
そう思えた、そのときだった。
◇
庭の入り口で、来客を告げる声がした。
「——ご歓談中、失礼いたします」
優美な声だった。
振り向かなくても、分かった。
レオンハルト・カイ。
彼は、完璧な角度の礼とともに、庭に入ってきた。
「奥方様。約束もなく、非礼をお許しください。……ですが、あなた方がお会いになっていると聞いては、居ても立ってもいられませんでした。カイ家として、これほどの吉事はありませんから」
「レオンハルト様」
母の背筋が、すっと、伸びた。
昨日までの、震える指の母ではなかった。
侯爵夫人の顔が、そこにあった。
「約束のない客人を庭に通す習いは、この家には、ございません」
「手厳しい」
レオンハルトは、少しも動じずに微笑んだ。
「ですが、話は手短に済みます。——エルナ様。昨日までに、お聞きになりましたね。ご自分の血の、本当の物語を」
「……ええ」
「であれば、話が早い」
彼は、卓に一通の書状を置いた。
上質な羊皮紙に、カイ家の封蝋。
「縁組みの、申し入れです。カイ家の名において、正式に」
◇
「あなたの血は、この国の宝です」
レオンハルトは、歌うように続けた。
「祖母君の代には、家格が足りなかった。あなたの代には、神殿の垣根が邪魔をした。ですが今、あなたは自由の身だ。そして、あなたの価値を正しく知る家は、カイ家をおいて他にない。悪い話では、ないはずです。爵位、財、王都での立場——あなたが望むものを、すべて」
「レオンハルト様」
私は、静かに、彼の言葉を止めた。
「ひとつだけ、確かめさせてください」
「なんなりと」
「その申し入れは、私に、なさっていますか」
彼は、わずかに、眉を動かした。
「それとも——私の血に、なさっていますか」
庭の空気が、ぴんと、張りつめた。
「……ふむ」
レオンハルトは、ゆっくりと腕を組んだ。
「区別が、ありますか。血も、あなたの一部でしょう」
「ええ、一部です」
私は頷いた。
「けれど、あなたの仰る『価値』は、私では、ありません。血の話です。私が明日、加護を失っても、あなたはこの書状を、お持ちになりますか」
「…………」
「祖母は、その『価値』に、使い潰されました。母は、その『価値』から私を守るために、二十年を費やしました。そして私は」
私は、まっすぐに、彼を見た。
「その『価値』を、一年前に、返上して参りました。……ですから、この申し入れは、宛先を、間違えておいでです」
◇
沈黙を破ったのは、母だった。
母は、卓の書状を、両手で取り上げた。
そして、丁寧に——押し戻した。
「レオンハルト様。侯爵家の、妻として、お答えいたします」
その声は、静かで、揺るがなかった。
「この子は、もう、役割には渡しません」
「……奥方様」
「二十年前、私はこの子を、神殿の垣根の内に隠しました。カイ家の文から、隠すためです。……ええ、あなたのお家の文からです。古い縁ですもの、ご存じでしょう」
レオンハルトの目が、初めて、かすかに揺れた。
「あの日から、私の答えは、変わっておりません。この子は、駒ではない。切り札でもない。……エルナ、という、ひとりの人です。値をつけることは、誰にも、させません」
「……」
「どうぞ、お引き取りを」
レオンハルトは、黙っていた。
彼は、私を見て、母を見て、それから、少し離れて立つユリウスを見た。
ユリウスは、一言も発していなかった。
ただ、静かに、そこに立っていた。
売り言葉も、威嚇もなく。
けれどその立ち姿が、何よりはっきりと語っていた。
この人に値をつける卓には、誰も着かせない、と。
「————」
レオンハルトが、何かを言いかけた。
けれど、言葉は、続かなかった。
あの優美な人が、言葉を探して、見つけられずにいた。
人を測り続けてきた物差しが、この庭では、何ひとつ、測れずにいた。
「……本日は」
やがて、彼は言った。
「日が、悪かったようです」
完璧な角度の礼は、最後まで崩れなかった。
けれど、その背中が庭を出ていくとき、書状は、卓の上に、置き去りにされたままだった。
母は、それを手に取り、封も開けずに、二つに畳んだ。
「……お茶を、淹れ直しましょうね」
本話をお読みいただき、ありがとうございました。
「その申し入れは、私に、なさっていますか。
それとも——私の血に、なさっていますか」
祖母を使い潰した「価値」。
母が二十年隠し続けた「価値」。
その宛先違いを、エルナは静かに突き返し、
母は、二十年前と同じ答えを、今度は声に出して言いました。
この子は、もう、役割には渡しません。
次話「私は、帰ります」で、
王都の章は、幕を閉じます。
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