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聖女を辞めましたが、私は静かに暮らすだけです 〜本物の乙女が現れたので聖印をお返ししたら、辺境でなぜか過剰に大切にされています〜  作者: リリア・ノワール


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第44話 測れないもの

翌日、私はもう一度、あの小さな庭を訪ねた。


王都を発つ前に、母と、ゆっくり話しておきたかった。


今度は、ユリウスも一緒だった。


「まあ……まあ、まあ」


母は、ユリウスを前にして、何度も同じ言葉を繰り返した。


「辺境伯様、直々に。娘が、その、いつも、お世話に」


「世話には、なっていません」


ユリウスは、生真面目に言った。


「……こちらが、世話になっています。町の全員が」


「まあ」


母は、目を丸くして、それから、ふ、と笑った。


「……正直な方」


「はい」


私は頷いた。


「取り柄です」


「おい」


卓に、昨日とは違う、あたたかい空気が流れた。


二十年ぶんの距離は、一日では埋まらない。


けれど、埋め始めることは、できる。


そう思えた、そのときだった。



庭の入り口で、来客を告げる声がした。


「——ご歓談中、失礼いたします」


優美な声だった。


振り向かなくても、分かった。


レオンハルト・カイ。


彼は、完璧な角度の礼とともに、庭に入ってきた。


「奥方様。約束もなく、非礼をお許しください。……ですが、あなた方がお会いになっていると聞いては、居ても立ってもいられませんでした。カイ家として、これほどの吉事はありませんから」


「レオンハルト様」


母の背筋が、すっと、伸びた。


昨日までの、震える指の母ではなかった。


侯爵夫人の顔が、そこにあった。


「約束のない客人を庭に通す習いは、この家には、ございません」


「手厳しい」


レオンハルトは、少しも動じずに微笑んだ。


「ですが、話は手短に済みます。——エルナ様。昨日までに、お聞きになりましたね。ご自分の血の、本当の物語を」


「……ええ」


「であれば、話が早い」


彼は、卓に一通の書状を置いた。


上質な羊皮紙に、カイ家の封蝋。


「縁組みの、申し入れです。カイ家の名において、正式に」



「あなたの血は、この国の宝です」


レオンハルトは、歌うように続けた。


「祖母君の代には、家格が足りなかった。あなたの代には、神殿の垣根が邪魔をした。ですが今、あなたは自由の身だ。そして、あなたの価値を正しく知る家は、カイ家をおいて他にない。悪い話では、ないはずです。爵位、財、王都での立場——あなたが望むものを、すべて」


「レオンハルト様」


私は、静かに、彼の言葉を止めた。


「ひとつだけ、確かめさせてください」


「なんなりと」


「その申し入れは、私に、なさっていますか」


彼は、わずかに、眉を動かした。


「それとも——私の血に、なさっていますか」


庭の空気が、ぴんと、張りつめた。


「……ふむ」


レオンハルトは、ゆっくりと腕を組んだ。


「区別が、ありますか。血も、あなたの一部でしょう」


「ええ、一部です」


私は頷いた。


「けれど、あなたの仰る『価値』は、私では、ありません。血の話です。私が明日、加護を失っても、あなたはこの書状を、お持ちになりますか」


「…………」


「祖母は、その『価値』に、使い潰されました。母は、その『価値』から私を守るために、二十年を費やしました。そして私は」


私は、まっすぐに、彼を見た。


「その『価値』を、一年前に、返上して参りました。……ですから、この申し入れは、宛先を、間違えておいでです」



沈黙を破ったのは、母だった。


母は、卓の書状を、両手で取り上げた。


そして、丁寧に——押し戻した。


「レオンハルト様。侯爵家の、妻として、お答えいたします」


その声は、静かで、揺るがなかった。


「この子は、もう、役割には渡しません」


「……奥方様」


「二十年前、私はこの子を、神殿の垣根の内に隠しました。カイ家の文から、隠すためです。……ええ、あなたのお家の文からです。古い縁ですもの、ご存じでしょう」


レオンハルトの目が、初めて、かすかに揺れた。


「あの日から、私の答えは、変わっておりません。この子は、駒ではない。切り札でもない。……エルナ、という、ひとりの人です。値をつけることは、誰にも、させません」


「……」


「どうぞ、お引き取りを」


レオンハルトは、黙っていた。


彼は、私を見て、母を見て、それから、少し離れて立つユリウスを見た。


ユリウスは、一言も発していなかった。


ただ、静かに、そこに立っていた。


売り言葉も、威嚇もなく。


けれどその立ち姿が、何よりはっきりと語っていた。


この人に値をつける卓には、誰も着かせない、と。


「————」


レオンハルトが、何かを言いかけた。


けれど、言葉は、続かなかった。


あの優美な人が、言葉を探して、見つけられずにいた。


人を測り続けてきた物差しが、この庭では、何ひとつ、測れずにいた。


「……本日は」


やがて、彼は言った。


「日が、悪かったようです」


完璧な角度の礼は、最後まで崩れなかった。


けれど、その背中が庭を出ていくとき、書状は、卓の上に、置き去りにされたままだった。


母は、それを手に取り、封も開けずに、二つに畳んだ。


「……お茶を、淹れ直しましょうね」

本話をお読みいただき、ありがとうございました。


「その申し入れは、私に、なさっていますか。

それとも——私の血に、なさっていますか」


祖母を使い潰した「価値」。

母が二十年隠し続けた「価値」。


その宛先違いを、エルナは静かに突き返し、

母は、二十年前と同じ答えを、今度は声に出して言いました。


この子は、もう、役割には渡しません。


次話「私は、帰ります」で、

王都の章は、幕を閉じます。


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