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聖女を辞めましたが、私は静かに暮らすだけです 〜本物の乙女が現れたので聖印をお返ししたら、辺境でなぜか過剰に大切にされています〜  作者: リリア・ノワール


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第43話 守るための、手放し方

「あなたの加護を、隠すことは、できませんでした」


母は、語り続けた。


「三つの子どもは、祈りを隠すことを知りません。花壇が咲き、小鳥が寄り、井戸の水が澄む。……屋敷の使用人が囁き、囁きは、垣根を越えます。あの家の姫様には、加護がある、と」


噂は、歩く。


祖母のときと、同じように。


「真っ先に来たのは、縁談でした」


「縁談……三つの子に、ですか」


「ええ。三つの子に、です」


母は、乾いた声で言った。


「加護の血を、家に取り込みたい家々です。娘の顔も見ずに、血だけを見て、文が来る。……その中には、カイ家の名も、ありました」


——カイ家は、あなたの家と、古い縁がありますから。


レオンハルトの声が、耳の奥で蘇った。


古い縁。


なるほど、確かに、古い縁だった。


「侯爵家は——あなたのお父様は、悪い方では、ありませんでした。ですが、家門の人でした。加護の娘は、家にとって、またとない切り札になる。お父様には、それが、当然の理でした」


家に置けば、いずれ、いちばん家の得になる縁へ、差し出される。


断れば、次の縁。

また次の縁。


祖母が「祈り」を断れなかったように、家は「縁」を断らない。


「私は、考えました。来る日も、来る日も」


母の指が、固く、組まれた。


「この子を、駒にしない道は、どこにあるのか。……逃げましょうか。ふたりで、遠くへ。何度も、考えました。けれど、侯爵家の妻が娘を連れて消えれば、必ず、追われます。連れ戻されたあとは、もっと、悪くなる」


「……」


「そして私は、たったひとつだけ、見つけたのです」


母は、顔を上げた。


「誰の駒にも、ならない場所を」



「神殿、ですか」


「ええ」


母は、頷いた。


「聖女候補として神殿に捧げられた子には、誰も、縁談を持ち込めません。カイ家も、他のどの家も、神殿の垣根の内には、手が届かない。……あの垣根だけが、この国で唯一、血の値段が通らない場所でした」


私は、黙って、聞いていた。


「けれど、ただ捧げたのでは、足りません。家の未練が残れば、いつか呼び戻して、駒に使う。カイ家は、それを待つでしょう。ですから」


母は、一度、深く息を吸った。


「私は、噂を、流させました」


「……噂?」


「あの家は、加護の娘を、持て余したのだ、と」


時が、止まった気がした。


「厄介払いをしたのだ。手に余ったのだ。だから神殿へ、押しつけたのだ。——そういう噂を、私が、この手で、流させたのです」


持て余した。


二十年、私の胸のいちばん深いところに、刺さり続けてきた言葉。


私は、役割としてしか、必要とされなかった。

その役割にすら、家は、値打ちを見なかった。


そう思って、生きてきた。


「持て余された子を、呼び戻す家は、ありません。値打ちのない娘に、縁談を持ち込む家も、ありません。……その噂が、あなたの垣根になる。私は、そう、信じました」


「では」


自分の声が、遠くから聞こえた。


「会いに来てくださらなかったのも」


「……未練を、見せないためです」


母の声が、震えた。


「一度でも会いに行けば、手紙の一通でも届ければ、誰かが見ています。ああ、あの家は、まだあの娘を思っている。まだ、使い道を考えている、と。……だから、私は」


母は、そこで、初めて、言葉を詰まらせた。


「二十年、行かないことを……続けました」



庭の小鳥が、鳴いた。


私は、動けなかった。


胸の奥で、二十年ものあいだ埋まっていた石が、ゆっくりと、ほどけていく。


捨てられたのだと、思っていた。


持て余されたのだと、思っていた。


その言葉の下に、埋まっていたもの。


祖母の震える指を見て育った人が、満開の花壇の前で神様を恨んだ人が、二十年かけて積み上げた、たったひとつの、不器用な。


「……盾、だったのですね」


私は、言った。


「あの言葉は、ずっと。私の、盾だった」


「エルナ……」


「捨てられたのでは、なかったのですね」


言葉にした瞬間、視界が、揺れた。


熱いものが、頬を、伝った。


聖印を返した日も、泣かなかった。

王都を出た日も、泣かなかった。


その私が、小さな庭の、冷めた茶の前で、子どもみたいに、泣いていた。


「ごめんなさい」


母が、椅子から立ち上がって、私の前に膝を折った。


「ごめんなさい。もっと、良い道が、あったのかもしれない。あなたは、二十年、寒い思いをした。私の選んだ盾は、あなたを守って——あなたを、いちばん深く、傷つけた」


「お母様」


「ごめんなさい。……ごめんなさい……」


私は、首を振った。


そして、生まれて初めて、自分から、母を抱きしめた。


小さかった。


記憶の中の母より、ずっとずっと、小さかった。


この小さな体で、この人は、二十年、家と、噂と、カイ家と、たったひとりで向き合ってきたのだ。


会いに行かない、という、いちばん重い方法で。


「……ありがとう、ございます」


私は、母の耳元で、言った。


「守って、くださって。ありがとうございます」


胸の奥で、ことり、と、あの音がした。


それは、二十年ぶんの音だった。



どれだけ、そうしていただろう。


庭の入り口に、静かな足音がした。


ユリウスだった。


約束の刻限を過ぎても戻らない私を、迎えに来てくれたのだろう。


彼は、泣いている私と、母を見て——何も言わずに、少し離れた庭の隅に、静かに立った。


急かしもせず、去りもせず。


ただ、そこに、いてくれた。


母が、涙を拭いて、その姿に目を留めた。


「……あの方が?」


「はい」


私は、頷いた。


「私の——大切な人です」

本話をお読みいただき、ありがとうございました。


「持て余した」。


二十年、いちばん深く刺さっていたその言葉は、

母が自ら流させた、噂という名の、盾でした。


呼び戻されないように。

縁談という駒にされないように。


会いに行かない、という、いちばん重い方法で、

母は二十年、娘を守り続けていました。


捨てられたのでは、なかった——。


次話「測れないもの」では、

古い縁の人が、この庭に、最後の思惑を持ち込みます。


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