第42話 使い潰された、加護
「私の母は——あなたのおばあさまは、加護の人でした」
母は、静かに語り始めた。
「私の生まれた家は、古い家系です。侯爵家のような、位の高い家ではありません。けれど、血だけが、古い。……加護を宿しやすい血が、細く、長く、続いてきた家でした」
「それが、お母様の、お家」
「ええ」
母は頷いた。
「あなたの加護は、侯爵家の血ではありません。私の血です。……私の母から、私を素通りして、あなたに届いた血です」
素通りして。
その言い方に、かすかな棘があった。
自分に向けられた棘だと、すぐに分かった。
◇
「母は、それは見事な加護の人でした」
母の目が、遠くなった。
「母が祈ると、涸れた井戸が満ちた。弱った作物が持ち直した。病の床の人が、眠れるようになった。……あなたの、あの辺境の町の話と、同じです。風の便りに聞くたび、私は、母を思い出しました」
「おばあさまも、聖女で?」
「いいえ」
母は、首を振った。
「聖女には、なりませんでした。ただの、田舎の家の娘です。けれど——評判は、歩くのです。あの家の娘の祈りは、効く、と」
はじめは、近隣の村だった。
日照りが続けば、呼ばれた。
疫病が出れば、呼ばれた。
祖母は、断らなかった。
困っている人を前に、断れる人ではなかった。
「そのうち、呼ぶ相手が、変わっていきました。村の長から、町の役人へ。町の役人から、貴族へ。貴族から——神殿と、王都へ」
「……」
「豊穣の祈りに、雨乞いに、疫病封じに。母は、貸し出されるようになりました。ええ、貸し出される、です。それ以外に、言いようがありません」
家には、礼金と、名誉が積まれた。
祖母には、疲れだけが、積まれた。
「祈りは、ただでは、ありません」
母の声が、低くなった。
「あなたなら、知っているでしょう。祈りは、身を削ります。ひとつの井戸を満たすたび、ひとつの病を鎮めるたび、母は、少しずつ、すり減っていきました」
「……はい」
私は、静かに頷いた。
知っている。
聖女だった頃の私は、毎日、祈りの座に着いた。
朝の祈り。
昼の祈り。
夕の祈り。
務めを終えた夜、指の先まで空っぽになって、寝台に沈む。
あれを、断ることを知らないまま、何年も、何十年も続けたら。
「母は、私が十二の年に、亡くなりました」
母は、言った。
「冬の祈祷の帰りに倒れて、そのまま。……まだ、四十にも、なっていませんでした」
◇
庭は、静かだった。
冷めた茶が、卓の上で、光を映していた。
「誰も、母を殺してはいません」
母は、続けた。
「誰も、鞭で打ちはしなかった。むしろ、皆、母を敬いました。ありがたい、ありがたいと、手を合わせて。……そうやって、敬いながら、誰もが少しずつ、母を使ったのです」
「悪意では、なかった」
「ええ。悪意なら、憎めました」
母は、初めて、かすかに笑った。
ひどく、乾いた笑いだった。
「善意と、都合と、敬いが、寄ってたかって、ひとりの人を使い潰した。……最後の年の母は、祈るたびに、指が震えていました。それでも、断らなかった。『困っている人がいるから』と」
私は、目を伏せた。
胸の奥が、冷たく、痛かった。
会ったこともない祖母の姿が、なぜだか、はっきりと見えた。
祈りの座で、震える指を組む人。
その顔が、いつかの私と、重なって見えた。
「母が死んだあと」
母は、続けた。
「私は、決めたことが、ひとつだけあります」
「……はい」
「私には、加護が出ませんでした。血は、私を素通りした。……安堵しました。心から、安堵したのです。ですが、同時に、分かっていました。素通りした血は、消えたのではない。いつか、必ず——」
母は、そこで言葉を切って、私を見た。
「次に、届く」
◇
「あなたが三つの年でした」
母の声が、震え始めた。
「庭の、枯れかけた花壇の前で、あなたが、小さな手を合わせていました。誰に教わったのでもなく。……次の朝、花壇は、満開でした」
私は、覚えていない。
けれど、その景色は、見えた。
「私は、あなたを抱きしめて——」
母は、両手で、自分の指を、固く握った。
「生まれて初めて、神様を、恨みました」
「……お母様」
「よりにもよって、この子に、と」
母は、まっすぐに私を見た。
涙の膜の張った目で、けれど、逸らさずに。
「だから私は、決めたのです」
本話をお読みいただき、ありがとうございました。
祖母は、誰にも殺されませんでした。
善意と、都合と、敬いが、寄ってたかって、
ひとりの人を、静かに使い潰しただけです。
血は、母を素通りして、三つの娘に届きました。
満開の花壇の前で、母は生まれて初めて、神様を恨んだ——。
次話「守るための、手放し方」で、
「持て余した」の本当の意味が、明かされます。
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