第41話 母の、お茶会
返事は、その日のうちに書いた。
書き出しに、ずいぶん迷った。
お母様、と書くには、遠すぎた。
侯爵夫人様、と書くには、冷たすぎた。
結局、私はどちらも書かず、ただ一行、こう返した。
「お会いします。場所と日時を、お報せください」
◇
指定されたのは、貴族街の外れの、小さな庭だった。
侯爵家の屋敷ではなかった。
古い知人に借りたという、名も知らぬ家の、猫の額ほどの庭。
石の卓がひとつ。
椅子がふたつ。
そして、そこに、母が座っていた。
「……」
「……」
二十年ぶりに見る母は、記憶より、ずっと小さかった。
黒に近い、地味な衣。
結い上げた髪には、白いものが増えていた。
けれど、背筋だけは、記憶のままに、まっすぐだった。
「……来て、くれたのですね」
母が、立ち上がった。
その声を聞いた瞬間、分かった。
ああ。
この声だ。
幼い日、廊下の向こうから聞こえていた声。
神殿へ発つ朝、最後に「お行きなさい」と言った声。
「お久しゅうございます」
私は、丁寧に礼をした。
それ以外の言葉が、ひとつも出てこなかった。
◇
お茶が、注がれた。
母の手つきは、静かで、少しだけ、震えていた。
「……大きく、なりました」
「はい」
「元気で、いましたか」
「はい。……お陰さまで」
会話は、それきり、途切れた。
庭の隅で、小鳥が鳴いた。
私は茶器を見つめていた。
訊きたいことは、山ほどあった。
なぜ、私を手放したのですか。
なぜ、一度も会いに来てくださらなかったのですか。
なぜ、手紙の一通も——。
二十年、胸の底に埋めてきた問いたち。
けれど、いざ目の前に母がいると、そのどれもが、喉の奥で、石のように動かなかった。
「……辺境は」
先に口を開いたのは、母だった。
「良い、ところですか」
「はい」
私は顔を上げた。
「良いところです。冬は長くて、厳しいですけれど。春の芽吹きは、王都のどこよりも、きれいです」
「そう」
母は、目を細めた。
「あなたが、その、辺境で……穏やかに暮らしていると、風の便りに聞いて。それだけを、支えにしておりました」
支えに。
その言葉に、私の胸の奥が、小さく軋んだ。
支えにするほど、私を、気にかけていた?
それなら、なぜ——。
問いが、また喉元まで上がってきて、また、沈んだ。
◇
母は、何度か、口を開きかけた。
「あの……エルネスティーネ。いえ」
言い直した。
「……エルナ、と。今は、そう名乗っているのですね」
「はい」
「良い、名前です」
「町の子が、最初に呼んでくれた名です」
「そう。……そう」
母は頷いて、また、言葉を探した。
「私は、あなたに……いえ」
やめた。
「あの家は、その……いえ、これも、違う」
やめた。
言いかけては、やめる。
そのたびに、母の指が、卓の上で、所在なく動いた。
私は、その指を見ていた。
そして、気づいた。
母もまた、二十年ぶんの言葉の重さに、押しつぶされそうになっているのだと。
どこから話しても、言い訳になる。
どこから話しても、遅すぎる。
それが分かっているから、この人は、何度も、言葉を呑み込んでいる。
「……お母様」
気づけば、私は、そう呼んでいた。
二十年、口にしなかった呼び名だった。
母の肩が、小さく、跳ねた。
「私は、責めるために、来たのではありません」
私は、静かに言った。
「知るために、来ました。……ですから、どうか。順番も、言い訳も、気になさらず。話しやすいところから、お話しください」
母は、長いあいだ、私を見つめていた。
その目に、ゆっくりと、涙の膜が張っていくのが分かった。
けれど母は、泣かなかった。
背筋を、もう一度まっすぐに伸ばして、彼女は言った。
「では……あなたの、おばあさまの話を」
「祖母、の」
「ええ」
母は頷いた。
「私の、母の話です。すべては、そこから始まったのですから」
本話をお読みいただき、ありがとうございました。
二十年ぶりの母娘は、
お茶が冷めるまで、ほとんど話せませんでした。
言いかけては、やめる。
どこから話しても、遅すぎるから。
それでも、最後にエルナが渡したのは、
責める言葉ではなく、「話しやすいところから」でした。
次話「使い潰された、加護」では、
祖母の物語——「持て余した」の本当の意味の、前半が語られます。
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