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聖女を辞めましたが、私は静かに暮らすだけです 〜本物の乙女が現れたので聖印をお返ししたら、辺境でなぜか過剰に大切にされています〜  作者: リリア・ノワール


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第40話 大聖儀

大聖儀の朝は、雲ひとつなく晴れた。


大神殿の前の広場は、夜明け前から人で埋まり始め、儀の刻限には、立錐の余地もなくなった。


私とユリウスは、その群衆の、いちばん後ろにいた。


深いフードの、灰色の外套。


誰も、私を振り返らない。


王都の人々にとって、私はただの、巡礼の女だった。


それで、よかった。


それが、よかった。



刻限を告げる鐘が、鳴った。


大神殿の扉が、ゆっくりと開く。


高位の神官たちが、列をなして石段に並んだ。


その中に、アロイス・ヴェント様の姿もあった。


一年ぶりに見る神殿長は、少し、痩せたように見えた。


そして、最後に。


白い衣の、小柄な人が、石段の上に進み出た。


セシリア・モート様。


当代の、神託の乙女。


広場の喧噪が、潮が引くように、静まっていった。


「……おひとりだ」


誰かが、囁いた。


「本当に、おひとりで務められるのか」


「あんなにお若いのに」


ざわめきの中で、セシリア様は、静かに祭壇の前へ進んだ。


その足取りに、迷いはなかった。



儀式は、長かった。


古い祈祷の言葉が、朗々と、途切れることなく続いた。


私はその声を、群衆の後ろで、目を閉じて聴いていた。


聖女だった頃、私が幾度も唱えた言葉。


ひとつひとつの節の重さも、息の継ぎ場所も、声が揺れやすい段も、全部、覚えている。


——ここは、難しい。


——ここで、息が浅くなる。


——ここを越えれば、あとは、まっすぐ。


祈りの座に着く者にしか分からない道のりを、私は後ろから、一歩ずつ、一緒に歩いた。


声には、出さない。

手も、貸さない。


ただ、見ている。


いちばん後ろから、誰よりも近くで。


セシリア様の声は、一度だけ、かすかに揺れた。


あの、難しい段だった。


けれど、揺れた声は、次の息で、静かに立て直された。


自分の力で。


「……ふ」


私は、フードの下で、微笑んだ。


もう、大丈夫。


私が知っている道の、いちばん険しいところを、あの方はいま、自分の足で越えた。



祈りの最後の言葉が、朝の空に、澄んで響き渡った。


長い、静寂があった。


そして——広場の噴水のほとりで、誰かが声を上げた。


「見ろ、水が」


冬のあいだ涸れかけていた古い噴水が、朝の光の中で、豊かに水を噴き上げていた。


それだけの、ことだった。


天が割れたわけでも、光が降ったわけでもない。


けれど、人々にはそれで十分だった。


「加護だ」


「乙女様の加護だ……!」


歓声が、波のように広場を渡った。


セシリア様は、石段の上で、深く、深く、頭を下げていた。


その姿に、人々はさらに沸いた。


当代の乙女は、ひとりで大聖儀を務め上げた。


誰の力も、借りずに。


——その景色を、私は見ていた。


そして、見てしまった。


石段の脇で、アロイス様が、じっと立ち尽くしているのを。


歓声の中、彼だけが、置き去りにされたように動かなかった。


「万一に備えて」用意された、幾通りもの絵。


そのどれもが、いま、使い道を失った。


乙女はひとりで立ち、儀は成り、元聖女は、どこにもいなかったのだから。


彼はゆっくりと顔を上げ、歓声に沸く広場を、眺め渡した。


その視線が、一瞬——群衆のいちばん後ろを、掠めた気がした。


フードの下の私に、気づいたのかどうか。


それは、分からない。


けれど彼は、何かをあきらめたように、静かに目を伏せて、神殿の奥へと消えていった。



「終わったな」


人の波が引き始めた広場で、ユリウスが言った。


「ええ」


私は頷いた。


「良い、儀式でした」


「……お前は、ずっと祈っていた」


「分かりましたか」


「隣にいたからな」


彼は、それだけ言った。


私は空を見上げた。


初夏の空は高く、大神殿の白い塔が、まぶしかった。


聖印を返したあの日、この塔を、私は振り返らずに去った。


いま、私はこの塔を、まっすぐに見上げている。


なんの、痛みもなく。


役割は、あの石段の上の人に、確かに渡った。


そして私は、私の場所へ、帰るだけだ。


「帰りましょうか」


私は言った。


「リントへ。……皆が、待っていますから」


「ああ」


ユリウスが頷いた、そのときだった。


「お客様」


宿の使いの少年が、人混みをかき分けて、駆け寄ってきた。


「お宿に、お手紙が届いております。急ぎ、お渡しするようにと」


差し出された封筒に、私は目を落とした。


見覚えのある紋。


盾の中に、剣と百合。


——侯爵家の、紋。


封を開くと、便箋には、たった一行だけ、記されていた。


細く、震えを抑えたような文字で。


「一度だけ、会ってもらえますか。 ——母」

本話をお読みいただき、ありがとうございました。


当代の乙女は、ひとりで大聖儀を務め上げました。


天は割れず、光も降らず、

ただ、涸れかけた噴水が、水を噴き上げただけ。


けれど、それで十分でした。


用意されていた幾通りもの「絵」は、すべて使い道を失い、

描いた人は、静かに神殿の奥へ消えました。


そして、帰ろうとしたエルナに、一通の手紙。


「一度だけ、会ってもらえますか。 ——母」


次話「母の、お茶会」から、

物語は、血の記憶へと入っていきます。


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