第40話 大聖儀
大聖儀の朝は、雲ひとつなく晴れた。
大神殿の前の広場は、夜明け前から人で埋まり始め、儀の刻限には、立錐の余地もなくなった。
私とユリウスは、その群衆の、いちばん後ろにいた。
深いフードの、灰色の外套。
誰も、私を振り返らない。
王都の人々にとって、私はただの、巡礼の女だった。
それで、よかった。
それが、よかった。
◇
刻限を告げる鐘が、鳴った。
大神殿の扉が、ゆっくりと開く。
高位の神官たちが、列をなして石段に並んだ。
その中に、アロイス・ヴェント様の姿もあった。
一年ぶりに見る神殿長は、少し、痩せたように見えた。
そして、最後に。
白い衣の、小柄な人が、石段の上に進み出た。
セシリア・モート様。
当代の、神託の乙女。
広場の喧噪が、潮が引くように、静まっていった。
「……おひとりだ」
誰かが、囁いた。
「本当に、おひとりで務められるのか」
「あんなにお若いのに」
ざわめきの中で、セシリア様は、静かに祭壇の前へ進んだ。
その足取りに、迷いはなかった。
◇
儀式は、長かった。
古い祈祷の言葉が、朗々と、途切れることなく続いた。
私はその声を、群衆の後ろで、目を閉じて聴いていた。
聖女だった頃、私が幾度も唱えた言葉。
ひとつひとつの節の重さも、息の継ぎ場所も、声が揺れやすい段も、全部、覚えている。
——ここは、難しい。
——ここで、息が浅くなる。
——ここを越えれば、あとは、まっすぐ。
祈りの座に着く者にしか分からない道のりを、私は後ろから、一歩ずつ、一緒に歩いた。
声には、出さない。
手も、貸さない。
ただ、見ている。
いちばん後ろから、誰よりも近くで。
セシリア様の声は、一度だけ、かすかに揺れた。
あの、難しい段だった。
けれど、揺れた声は、次の息で、静かに立て直された。
自分の力で。
「……ふ」
私は、フードの下で、微笑んだ。
もう、大丈夫。
私が知っている道の、いちばん険しいところを、あの方はいま、自分の足で越えた。
◇
祈りの最後の言葉が、朝の空に、澄んで響き渡った。
長い、静寂があった。
そして——広場の噴水のほとりで、誰かが声を上げた。
「見ろ、水が」
冬のあいだ涸れかけていた古い噴水が、朝の光の中で、豊かに水を噴き上げていた。
それだけの、ことだった。
天が割れたわけでも、光が降ったわけでもない。
けれど、人々にはそれで十分だった。
「加護だ」
「乙女様の加護だ……!」
歓声が、波のように広場を渡った。
セシリア様は、石段の上で、深く、深く、頭を下げていた。
その姿に、人々はさらに沸いた。
当代の乙女は、ひとりで大聖儀を務め上げた。
誰の力も、借りずに。
——その景色を、私は見ていた。
そして、見てしまった。
石段の脇で、アロイス様が、じっと立ち尽くしているのを。
歓声の中、彼だけが、置き去りにされたように動かなかった。
「万一に備えて」用意された、幾通りもの絵。
そのどれもが、いま、使い道を失った。
乙女はひとりで立ち、儀は成り、元聖女は、どこにもいなかったのだから。
彼はゆっくりと顔を上げ、歓声に沸く広場を、眺め渡した。
その視線が、一瞬——群衆のいちばん後ろを、掠めた気がした。
フードの下の私に、気づいたのかどうか。
それは、分からない。
けれど彼は、何かをあきらめたように、静かに目を伏せて、神殿の奥へと消えていった。
◇
「終わったな」
人の波が引き始めた広場で、ユリウスが言った。
「ええ」
私は頷いた。
「良い、儀式でした」
「……お前は、ずっと祈っていた」
「分かりましたか」
「隣にいたからな」
彼は、それだけ言った。
私は空を見上げた。
初夏の空は高く、大神殿の白い塔が、まぶしかった。
聖印を返したあの日、この塔を、私は振り返らずに去った。
いま、私はこの塔を、まっすぐに見上げている。
なんの、痛みもなく。
役割は、あの石段の上の人に、確かに渡った。
そして私は、私の場所へ、帰るだけだ。
「帰りましょうか」
私は言った。
「リントへ。……皆が、待っていますから」
「ああ」
ユリウスが頷いた、そのときだった。
「お客様」
宿の使いの少年が、人混みをかき分けて、駆け寄ってきた。
「お宿に、お手紙が届いております。急ぎ、お渡しするようにと」
差し出された封筒に、私は目を落とした。
見覚えのある紋。
盾の中に、剣と百合。
——侯爵家の、紋。
封を開くと、便箋には、たった一行だけ、記されていた。
細く、震えを抑えたような文字で。
「一度だけ、会ってもらえますか。 ——母」
本話をお読みいただき、ありがとうございました。
当代の乙女は、ひとりで大聖儀を務め上げました。
天は割れず、光も降らず、
ただ、涸れかけた噴水が、水を噴き上げただけ。
けれど、それで十分でした。
用意されていた幾通りもの「絵」は、すべて使い道を失い、
描いた人は、静かに神殿の奥へ消えました。
そして、帰ろうとしたエルナに、一通の手紙。
「一度だけ、会ってもらえますか。 ——母」
次話「母の、お茶会」から、
物語は、血の記憶へと入っていきます。
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