第39話 ふたりの聖女、ふたたび
大聖儀の、前夜だった。
街は宵まで賑わい、大神殿の白い塔には、清めの灯がともっていた。
私は宿の部屋で、窓の外のその灯を、静かに眺めていた。
明日、あの塔の下で、セシリア様が、ひとりで祈りの座に着く。
「どうか」
私は、小さく呟いた。
祈りの言葉は、それ以上、続けなかった。
あの方に必要なのは、私の祈りではなく、あの方自身の祈りなのだから。
◇
そのとき、扉が、控えめに叩かれた。
「エルナ様。お客様です」
帳場の主人の声に、私は首を傾げた。
こんな時刻に?
階下へ降りると、土間の隅に、フードを目深にかぶった、小柄な人影がふたつ、立っていた。
ひとつの影が、フードの下から、そっと顔を上げた。
その顔を見た瞬間、私は言葉を失った。
「……お久しゅうございます、エルナ様」
セシリア・モート様が、そこに立っていた。
明日、大聖儀を務める、当代の神託の乙女が。
前夜の、こんな時刻に。
「セシリア様……!? どうして、こちらに」
「ヨナス様に、無理を申しました」
彼女の後ろで、もうひとつの影——ヨナス様が、恐縮しきった様子で頭を下げた。
「明朝までには、必ずお戻りいただきます。……ですが、その、セシリア様が、どうしてもと」
「だって」
セシリア様は、フードを少し上げて、いたずらが見つかった子どものように笑った。
「エルナ様が王都にいらしていると、聞いてしまったのですもの」
◇
部屋にお通しして、茶を淹れた。
辺境から持ってきた、マレンの茶葉だった。
「……ああ」
ひとくち飲んで、セシリア様は、ほう、と息をついた。
「リントの、味がします」
「ふふ。マレンが持たせてくれました」
「なつかしい……あの冬に、いただいた味です」
去年の冬、この方は、神殿を抜け出して、雪の辺境まで私に会いに来た。
自分の加護に怯えて、泣きながら。
いま目の前にいる人は、同じ顔で、まるで違う目をしていた。
「明日、ですね」
「はい」
セシリア様は、まっすぐに頷いた。
「こわく、ありませんか」
「こわいです」
彼女は、あっさりと言った。
「昨夜は、あまり眠れませんでした。今夜も、たぶん、眠れません。……でも」
茶器を両手で包んで、彼女は続けた。
「去年のこわさとは、違うのです。去年は、自分が偽物かもしれないことが、こわかった。いまは——大切な務めを、ちゃんと果たしたいから、こわい。この、こわさは」
彼女は、少し考えて、言った。
「たぶん、持っていて、いいこわさです」
「……ええ」
私は、深く頷いた。
「それは、誇りと同じ形をした、こわさです」
◇
「エルナ様。ひとつ、伺ってもよろしいですか」
「なんなりと」
「賓客のお席、お断りになったと聞きました。……それなのに、王都まで、来てくださった」
セシリア様は、私をじっと見つめた。
「どうして、と伺うのは、野暮でしょうか」
「野暮では、ありませんけれど」
私は微笑んだ。
「答えは、簡単です。友人の晴れの日を、見たかったからです」
「……っ」
「席がなくとも、見ることはできます。明日、私は群衆のいちばん後ろから、あなたを見ています。誰よりも——近くで」
いちばん後ろから、誰よりも近くで。
矛盾した言葉を、けれどセシリア様は、正しく受け取ってくれた。
彼女の目に、みるみる涙が盛り上がった。
「私……私、明日、がんばれます」
「ええ」
「ひとりで、務めます。でも、ひとりぼっちでは、ないのですね」
「はい」
私は、彼女の手を、そっと包んだ。
「ひとりで立つことと、ひとりぼっちは、違います。あなたがそれを教えてくれたのですよ。あの冬の日に、雪の中を、私に会いに来てくれたときに」
◇
帰り際、戸口でセシリア様は振り返った。
「エルナ様。あの……儀式が、終わったら」
「はい」
「また、お手紙を書いても、いいですか。それから、いつか、また、リントへ」
「もちろんです」
私は頷いた。
「町の皆が、待っています。蜂蜜パンの上手な、新しい友人も増えました」
「ふふ……楽しみです」
フードを直して、彼女はヨナス様と、夜の街へ出ていった。
その小さな背中は、もう、震えてはいなかった。
「……大丈夫だな」
いつの間にか階下に降りてきていたユリウスが、ぽつりと言った。
「ええ」
私は頷いた。
「大丈夫です。あの方は、明日、ひとりで立てます」
夜空の下、大神殿の清めの灯が、静かに揺れていた。
明日、あの場所で。
ふたりの聖女の、長かった物語に、ひとつの答えが出る。
本話をお読みいただき、ありがとうございました。
大聖儀の前夜、訪ねてきたのは、当代の乙女ご本人でした。
去年の冬、雪の辺境に泣きながら来た人が、
いまは「持っていていいこわさ」を抱えて、立っています。
ひとりで立つことと、ひとりぼっちは、違う。
いちばん後ろから、誰よりも近くで。
次話「大聖儀」——
いよいよ、その日が来ます。
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