第4話 何も望まないという贅沢
辺境での暮らしは、
驚くほど、単純だった。
朝、教会を掃き、
花を替え、
町の人の話を聞き、
祈り、
日が暮れたら、眠る。
それだけの一日。
王都にいた頃の私なら、
きっと、物足りなく感じただろう。
聖女の務めは、
分刻みで詰まっていた。
儀式、謁見、視察、慈善。
一日の終わりには、
何をしたのか思い出せないほど、
疲れていた。
けれど、ここでは違う。
何もない一日の終わりに、
私は、確かに「生きていた」と感じる。
不思議なことだった。
◇
マレンは、
薬草の煎じ方を、少しずつ教えてくれた。
「これはね、咳に効くの。
こっちは、傷の腫れに」
枯れた指が、
乾いた草を、丁寧により分ける。
私は、その手元を、
じっと見つめていた。
「覚えられそう?」
「はい。……でも」
「でも?」
「私に、できるでしょうか。
加護も、もう、ありませんし」
そう言うと、
マレンは、手を止めて、
おかしそうに笑った。
「加護がなくちゃ、
人の役に立てないと思っているの?」
「……いえ、そういうわけでは」
「あのね、エルナ」
マレンは、
私の手に、乾いた草を一束、握らせた。
「薬草は、誰が煎じても効くんですよ。
聖女でも、ただのシスターでも。
大事なのは、
その人のことを、ちゃんと思って煎じるかどうか。
それだけ」
その言葉が、
妙に、胸に残った。
私は、ずっと、
「聖女である自分」にしか、
価値がないと思ってきた。
加護があるから、
人は私を頼り、
私は、人の役に立てる。
聖印を返したとき、
私は、その価値も一緒に、
返したのだと思っていた。
けれど、もしかしたら――
握らされた薬草の、
かさり、という乾いた感触を、
私は、しばらく確かめていた。
◇
午後、
教会の扉が、控えめに叩かれた。
開けると、
ユリウスが立っていた。
今日は、手に、
布で包んだ何かを持っている。
「……これを」
差し出されたのは、
焼きたてのパンだった。
まだ、ほんのり温かい。
「町のパン屋が、焼きすぎたと言うので」
「焼きすぎ……ですか」
「ああ。余ったものだ。
捨てるのも、もったいない」
私は、その「口実」が、
あまりに見え透いていることに、
気づいてしまった。
パン屋が、領主にわざわざ余り物を渡し、
領主が、それをわざわざ教会まで運ぶ。
そんな偶然が、
そうそう、あるだろうか。
けれど、私は、
何も言わなかった。
「ありがとうございます。
いただきます」
そう答えると、
ユリウスは、ほっとしたように、
小さく頷いた。
「……無理は、していないか」
「無理?」
「慣れない土地だ。
気を張っているのではないかと」
その問いに、
私は、少しだけ、間を置いた。
「いいえ」
正直な答えだった。
「私は、ここに来て、
初めて、気を張らずにいられます」
ユリウスは、
意外そうに、私を見た。
「ここは、
何もない土地だが」
「ええ」
私は、微笑んだ。
「何もないことが、
私には、ちょうどいいのです」
ユリウスは、
しばらく、何か言いたそうにしていた。
けれど、結局、
「……そうか」
とだけ言って、
背を向けた。
「それなら、いい」
去り際の、その背中が、
ほんの少しだけ、
柔らかく見えたのは、
気のせいだろうか。
◇
その夜、
私は、ユリウスのパンを、
スープに浸して食べた。
素朴な、けれど、
じんわりと旨い味だった。
窓の外では、
辺境の夜が、
ゆっくりと更けていく。
王都にいた頃、
私は、夜が来るのが、
少しだけ、怖かった。
明日の務めを思うと、
眠りが、浅くなった。
けれど、今は、
明日が来るのが、
ほんの少し、楽しみだった。
何もない明日。
誰にも望まれない、
ただの一日。
その「何もなさ」が、
私には、
何よりの贅沢だった。
――このまま、静かに過ごせばいい。
そう思った、そのときだった。
ふと、
神殿の、白百合のことを思い出した。
本のあいだに挟んだ、
あの一輪は、
今ごろ、どうなっているだろう。
私は、
本を取り出し、
ページを、そっと開いた。
白百合は、
少し色を失いながらも、
まだ、その形を保っていた。
過去の、
ただひとつの、
自分で選んだもの。
私は、それを、
しばらく見つめてから、
静かに、本を閉じた。
本話もお読みいただき、ありがとうございました。
見え透いた口実で、
パンを届けにくるユリウス。
彼の不器用さが、
少しでも微笑ましく思えましたら、
嬉しいです。
次話「王都からの、短い手紙」では、
エルナのもとに、
思いがけない便りが届きます。
ブックマークや評価も、
どうぞ、よろしくお願いいたします。




