第3話 あなただから、と言われて
辺境での朝は、
鐘の音ではなく、
鳥の声で始まった。
教会の窓を開けると、
冷たい空気が、まっすぐに入ってくる。
私は、その冷たさを、
心地よいと感じている自分に気づいた。
王都の神殿では、
朝のすべてが決まっていた。
起きる時刻も、
祈る言葉も、
微笑む角度さえ。
ここには、それがない。
ただ、鳥が鳴き、
風が吹き、
私は、好きなように一日を始められる。
それは、少し、
心もとなくて、
そして、ひどく、自由だった。
◇
午前のうちに、
マレンに教わりながら、
教会のまわりを掃き、
枯れた花を新しいものに替えた。
町の人が、ときおり通りかかる。
最初は、皆、
私を遠巻きに見ていた。
王都から来た娘。
教会に入った、よそ者。
その視線は、
警戒というより、
やはり、戸惑いだった。
私は、無理に話しかけなかった。
距離を取るとは、
こういう小さな場面で、
相手にも、自分にも、
余白を残すことだと思っていたから。
けれど、昼を過ぎた頃、
ひとりの子どもが、
教会の前で、転んだ。
小さな男の子だった。
膝をすりむき、
驚いたように、口をへの字に曲げている。
私は、思わず駆け寄った。
「大丈夫?」
しゃがみこんで、
すりむいた膝を、そっと見る。
たいした傷ではない。
けれど、子どもにとっては、
世界が終わったような顔だった。
「痛いね。でも、すぐ治るから」
私は、持っていた布で、
膝の砂を、やさしく払った。
聖女だった頃なら、
ここで、加護を使えたのかもしれない。
けれど、もう、聖印はない。
私にできるのは、
ただ、砂を払い、
痛いね、と言ってやることだけだった。
それで、十分だと思った。
子どもは、
じっと私を見上げて、
それから、ぽつりと言った。
「……ねえちゃん、だれ?」
「エルナよ」
「エルナねえちゃん?」
「ええ」
すると、男の子は、
すりむいた膝のことなど忘れたように、
ぱっと、顔を輝かせた。
「エルナねえちゃん、
ここに、ずっといるの?」
その問いに、
私は、一瞬、答えに迷った。
ずっと、いていいのだろうか。
私のような者が。
「……いられたら、いいな、と思っているの」
そう答えると、
男の子は、
当たり前のように、こう言った。
「いてよ。
エルナねえちゃんがいると、
なんか、いいから」
なんか、いいから。
理由なんて、なかった。
聖女だからでも、
役に立つからでもない。
ただ、私がいると、
なんか、いい。
それだけの言葉が、
私の中の、ずっと固かった場所に、
すっと、触れた。
◇
夕方、
領主が、また来た。
今度は、林檎を抱えていた。
私が掃除をしている、ちょうどそのときで、
彼は、ばつが悪そうに、
かごを地面に置こうとした。
逃げるつもりだったのだろう。
「あの」
私が声をかけると、
彼は、びくりと、肩を揺らした。
背の高い、寡黙そうな人だった。
歳は、私より少し上だろうか。
人の上に立つ者の風格がありながら、
その目だけは、
どこか、所在なげだった。
「薪と、それから、いつも……
ありがとうございます」
私が頭を下げると、
彼は、しばらく黙っていた。
それから、ぼそりと、
「……礼は、いい」
とだけ言った。
「困っているだろうと、思っただけだ」
「困っているのは、よそ者の私です。
あなたが、気にかける理由は……」
そこまで言って、
私は、口をつぐんだ。
彼が、ふと、
こちらを見たからだった。
「理由など、いらないだろう」
その声は、
ぶっきらぼうで、
けれど、不思議なほど、
まっすぐだった。
「困っている者がいたら、
手を貸す。
それだけだ」
それだけ言って、
彼は、林檎のかごを置き、
そそくさと、背を向けた。
「あ……お名前を」
「ユリウスだ」
肩越しに、
それだけ残して、
彼は、夕暮れの道を歩いていった。
私は、
林檎のかごを、見下ろした。
赤い実が、
夕日を受けて、
つやつやと光っている。
なんか、いいから。
理由など、いらないだろう。
今日、私は、
二度、そう言われた。
聖女として、
私は数えきれないほど感謝されてきた。
けれど、そのどれもが、
「聖女様だから」だった。
「あなただから」と、
誰かに必要とされたのは、
もしかしたら――
初めてだったのかもしれない。
気づくと、
視界が、わずかに滲んでいた。
泣くつもりなど、なかった。
私は、もう、
何かを失って泣くような自分を、
とっくに、置いてきたはずだった。
それなのに。
ひとつ、
こぼれそうになった涙を、
私は、そっと指で拭った。
それは、
悲しみの涙では、なかった。
ずっと張りつめていた何かが、
静かに、ほどけていく――
そういう、温かい涙だった。
林檎を、ひとつ手に取る。
ひんやりとして、
けれど、確かに、
甘い匂いがした。
「……ありがとう」
誰もいない夕暮れに、
私は、もう一度、呟いた。
今度は、
役割としてではなく。
心から。
本話をお読みいただき、ありがとうございました。
「あなただから」と言われて、
初めて、少しだけ泣きそうになったエルナ。
この一話が、
物語のひとつの節目です。
ここまで読んでくださった方、
本当にありがとうございます。
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次話「何も望まないという贅沢」も、
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