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聖女を辞めましたが、私は静かに暮らすだけです 〜本物の乙女が現れたので聖印をお返ししたら、辺境でなぜか過剰に大切にされています〜  作者: リリア・ノワール


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第3話 あなただから、と言われて

辺境での朝は、

鐘の音ではなく、

鳥の声で始まった。


教会の窓を開けると、

冷たい空気が、まっすぐに入ってくる。


私は、その冷たさを、

心地よいと感じている自分に気づいた。


王都の神殿では、

朝のすべてが決まっていた。


起きる時刻も、

祈る言葉も、

微笑む角度さえ。


ここには、それがない。


ただ、鳥が鳴き、

風が吹き、

私は、好きなように一日を始められる。


それは、少し、

心もとなくて、

そして、ひどく、自由だった。



午前のうちに、

マレンに教わりながら、

教会のまわりを掃き、

枯れた花を新しいものに替えた。


町の人が、ときおり通りかかる。


最初は、皆、

私を遠巻きに見ていた。


王都から来た娘。

教会に入った、よそ者。


その視線は、

警戒というより、

やはり、戸惑いだった。


私は、無理に話しかけなかった。


距離を取るとは、

こういう小さな場面で、

相手にも、自分にも、

余白を残すことだと思っていたから。


けれど、昼を過ぎた頃、

ひとりの子どもが、

教会の前で、転んだ。


小さな男の子だった。

膝をすりむき、

驚いたように、口をへの字に曲げている。


私は、思わず駆け寄った。


「大丈夫?」


しゃがみこんで、

すりむいた膝を、そっと見る。


たいした傷ではない。

けれど、子どもにとっては、

世界が終わったような顔だった。


「痛いね。でも、すぐ治るから」


私は、持っていた布で、

膝の砂を、やさしく払った。


聖女だった頃なら、

ここで、加護を使えたのかもしれない。


けれど、もう、聖印はない。


私にできるのは、

ただ、砂を払い、

痛いね、と言ってやることだけだった。


それで、十分だと思った。


子どもは、

じっと私を見上げて、

それから、ぽつりと言った。


「……ねえちゃん、だれ?」


「エルナよ」


「エルナねえちゃん?」


「ええ」


すると、男の子は、

すりむいた膝のことなど忘れたように、

ぱっと、顔を輝かせた。


「エルナねえちゃん、

ここに、ずっといるの?」


その問いに、

私は、一瞬、答えに迷った。


ずっと、いていいのだろうか。

私のような者が。


「……いられたら、いいな、と思っているの」


そう答えると、

男の子は、

当たり前のように、こう言った。


「いてよ。

エルナねえちゃんがいると、

なんか、いいから」


なんか、いいから。


理由なんて、なかった。


聖女だからでも、

役に立つからでもない。


ただ、私がいると、

なんか、いい。


それだけの言葉が、

私の中の、ずっと固かった場所に、

すっと、触れた。



夕方、

領主が、また来た。


今度は、林檎を抱えていた。


私が掃除をしている、ちょうどそのときで、

彼は、ばつが悪そうに、

かごを地面に置こうとした。


逃げるつもりだったのだろう。


「あの」


私が声をかけると、

彼は、びくりと、肩を揺らした。


背の高い、寡黙そうな人だった。

歳は、私より少し上だろうか。


人の上に立つ者の風格がありながら、

その目だけは、

どこか、所在なげだった。


「薪と、それから、いつも……

ありがとうございます」


私が頭を下げると、

彼は、しばらく黙っていた。


それから、ぼそりと、

「……礼は、いい」

とだけ言った。


「困っているだろうと、思っただけだ」


「困っているのは、よそ者の私です。

あなたが、気にかける理由は……」


そこまで言って、

私は、口をつぐんだ。


彼が、ふと、

こちらを見たからだった。


「理由など、いらないだろう」


その声は、

ぶっきらぼうで、

けれど、不思議なほど、

まっすぐだった。


「困っている者がいたら、

手を貸す。

それだけだ」


それだけ言って、

彼は、林檎のかごを置き、

そそくさと、背を向けた。


「あ……お名前を」


「ユリウスだ」


肩越しに、

それだけ残して、

彼は、夕暮れの道を歩いていった。


私は、

林檎のかごを、見下ろした。


赤い実が、

夕日を受けて、

つやつやと光っている。


なんか、いいから。

理由など、いらないだろう。


今日、私は、

二度、そう言われた。


聖女として、

私は数えきれないほど感謝されてきた。


けれど、そのどれもが、

「聖女様だから」だった。


「あなただから」と、

誰かに必要とされたのは、

もしかしたら――

初めてだったのかもしれない。


気づくと、

視界が、わずかに滲んでいた。


泣くつもりなど、なかった。


私は、もう、

何かを失って泣くような自分を、

とっくに、置いてきたはずだった。


それなのに。


ひとつ、

こぼれそうになった涙を、

私は、そっと指で拭った。


それは、

悲しみの涙では、なかった。


ずっと張りつめていた何かが、

静かに、ほどけていく――

そういう、温かい涙だった。


林檎を、ひとつ手に取る。


ひんやりとして、

けれど、確かに、

甘い匂いがした。


「……ありがとう」


誰もいない夕暮れに、

私は、もう一度、呟いた。


今度は、

役割としてではなく。


心から。


本話をお読みいただき、ありがとうございました。


「あなただから」と言われて、

初めて、少しだけ泣きそうになったエルナ。


この一話が、

物語のひとつの節目です。


ここまで読んでくださった方、

本当にありがとうございます。


少しでも心が温まりましたら、

ブックマークや評価をいただけますと、

何よりの励みになります。


次話「何も望まないという贅沢」も、

どうぞ、よろしくお願いいたします。


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