第2話 辺境の、古い教会
リントの町は、小さく静かだった。
石畳は所々が欠け、家々の屋根は低く、
けれど、どの窓辺にも、枯れかけた花が、それでも飾られていた。
馬車を降りると、秋の風が頬を撫でた。
王都の風より少し冷たくて、少し土の匂いがした。
「ここが……」
教会は、町のはずれにあった。
灰色の石を積んだ、古い建物。
鐘楼の鐘は長く鳴らされていないのか、うっすらと苔をまとっていた。
扉を叩こうとした、そのとき、
中から先に扉が開いた。
「おや」
出てきたのは、年老いたシスターだった。
白髪を布で包み、背は少し丸まっているけれど、
その目は驚くほど澄んでいた。
「あなたが、王都から来る人ね」
「はい。エルナと申します」
私は頭を下げた。
聖女の名も、家の名も、口にしなかった。
ここでは、ただの「エルナ」でいたかった。
シスターは、しばらく私を見つめてから、
ふっと目元をやわらげた。
「マレンですよ。さあ、お入りなさい。
旅で疲れたでしょう」
◇
教会の中は、外から見るより、ずっと温かかった。
古い木の長椅子が並び、
祭壇には、素朴な蝋燭がいくつか灯っている。
マレンは私を奥の小部屋へ通し、
湯気の立つスープを出してくれた。
「たいしたものはないけれど」
「いえ。……ありがとうございます」
スプーンを口に運ぶと、
じんわりとした塩気が、体の奥に染みわたった。
長い旅で、自分が思っていたより冷えていたことに、
そのとき初めて気づいた。
「ここは、人手が足りないと聞きました」
私が言うと、マレンはおかしそうに笑った。
「足りないも何も、シスターは私ひとりですからねえ。
町の人の話を聞いて、祈って、たまに薬草を煎じて。
それで毎日が過ぎていきますよ」
「私にも、できるでしょうか」
「できますとも」
マレンは迷いなく頷いた。
「あなたは、もう、ずっとそうしてきた人の顔をしている」
その言葉に、私は少しだけ手を止めた。
聖女として、私は確かに人の前で祈り続けてきた。
けれど、それは「役割」だった。
ここでのそれは、役割なのだろうか。
それとも――
「……難しく考えなくて、いいんですよ」
私の迷いを見透かしたように、マレンは言った。
「ここはね、昔から、役割を手放した人に、優しい土地なんです」
その言葉の意味を、このときの私は、まだ深く考えなかった。
ただ、不思議と、胸の奥が少し緩んだ。
◇
夕方、教会の小さな部屋を私の寝室として整えていると、
扉の外で、かたん、と音がした。
開けてみると、誰もいなかった。
ただ、扉の脇に、薪がきちんと積まれていた。
割ったばかりなのか、木の切り口がまだ白い。
「……どなたか、来ましたか」
私が尋ねると、マレンは窓の外をちらりと見た。
「ああ。領主様でしょう」
「領主様が……薪を?」
「ええ。あの人は、いつもそう。
何も言わずに、置いていくの」
私はもう一度、扉の外を見た。
すでに、人影はなかった。
ただ、薪の山だけが、夕暮れの中に静かに残されていた。
なぜ、と思った。
領主が、わざわざ。
見ず知らずの、よそ者のために。
「言っておきますけどね」
マレンがくすりと笑う。
「お礼を言おうとしても、あの人、逃げますよ」
「逃げる……?」
「照れているんですよ、きっと」
私は、薪の山をしばらく見つめていた。
割られた木のまっすぐな切り口。
そこに込められた手間を思うと、胸の奥が、また少し緩んだ。
王都では、優しさはたいてい役割と一緒に来た。
聖女だから。
公爵家の――いえ、侯爵家の娘だから。
けれど、この薪には、何の理由もない。
ただ、寒い夜が来る前に、火を焚けるように。
それだけのことが、こんなにも心に残るとは。
私は薪を一本、そっと手に取った。
ひんやりとして、けれど、確かに、
誰かの手の温もりが、まだ残っている気がした。
——お礼を、言わなければ。
そう思って、私は、はたと気づいた。
私は、あの方の名を、まだ知らない。
本話もお読みいただき、ありがとうございました。
次話は「あなただから、と言われて」です。




