第1話 聖印は、静かにお返しした
聖女であることは、
悲しいほど「役割」でした。
けれど、
役割が終わるのなら、
私は静かに身を引くだけでよかった。
これは、
何も争わず、
何も取り戻さず、
ただ距離を取った私の話。
そして、
それでもなぜか、
辺境で大切にされてしまう物語です。
聖印を返す日が来るとは、
思っていなかったわけではない。
むしろ、いつか来るものだと、
どこかで分かっていた気がする。
神殿の大広間。
高い天窓から、初秋の光が斜めに落ちて、
磨かれた石の床に、淡い帯をつくっている。
その光の中に、私は立っていた。
「――新たな神託が降りました」
司祭の声が、広間に静かに響く。
「次代の聖女は、セシリア・モート嬢である、と」
ざわめきは、起きなかった。
すでに皆、知っていたのだろう。
私だけが、最後に聞かされる側だった。
それも、なんとなく察していた。
私は、胸元に下げた聖印に指を添えた。
銀の鎖に繋がれた、薄い円盤。
聖女に授けられる、加護の証。
長く身につけていたのに、
不思議と、もう自分のものという感じがしない。
「エルネスティーネ嬢」
司祭が、わずかに言いよどんだ。
きっと、私が取り乱すか、
あるいは弁明を始めるか、
そのどちらかを覚悟していたのだと思う。
「聖印を……」
「承知いたしました」
私は、その先を言わせなかった。
鎖を外し、両手で円盤を包み、
そっと、台の上に置く。
それだけのことだった。
指先から、少しだけ温もりが離れていく感覚があったけれど、
それは、痛みとは違うものだった。
古い上着を脱いだような。
ずっと背負っていた荷を、静かに下ろしたような。
「……理由を、お聞きにならないのですか」
司祭が、戸惑ったように言った。
私は、首を横に振る。
「神託が降りたのなら、それが理由でしょう」
それ以上、何があるというのだろう。
本物が現れたのなら、
私が身を引くのが筋だ。
立場にしがみつくことも、
誰かを責めることも、
私には、ひどく遠いことに思えた。
広間を出るとき、
背中に、いくつもの視線を感じた。
同情でも、好奇心でもない。
どちらかと言えば――戸惑い。
聖女の座を失った娘は、
もっと取り乱すものだと、
皆、思っていたのだろう。
私は、ただ静かに、
その視線を受け流した。
期待に応えないことが、
こんなにも身軽だとは、
今日まで知らなかった。
◇
自室に戻り、荷をまとめた。
聖女に与えられていた品は、
ほとんどが「役割」のためのもので、
私が持っていく理由のあるものは、少なかった。
最後に、窓辺へ寄る。
神殿の庭には、白百合が咲いていた。
この季節になると、
甘い香りが、風にわずかに混じる。
私は、一輪だけ手折り、
それを、古い本のあいだに挟んだ。
押し花にするつもりだった。
理由は、自分でもよく分からない。
ただ――
神殿を出るにあたって、
「役割」ではなく、
自分の意思で手にしたものを、
ひとつだけ、持っていたかったのかもしれない。
侍女のひとりが、
そっと部屋を覗いた。
「お行き先は……本当に、辺境でよろしいのですか」
「ええ」
王都に残れば、
何かと気を遣われ、放っておいてはもらえないだろう。
私が望むのは、
ただ、静かに暮らすことだった。
それなら、
誰も私を「聖女」として見ない場所がいい。
「リントの教会で、
人手が足りていないと聞きました。
ちょうど、いいでしょう」
侍女は、何か言いたそうにしていたけれど、
やがて、小さく頷いた。
「……どうか、お体を、大切に」
その声が、思いのほか優しくて、
私は、少しだけ言葉に詰まった。
「ありがとう」
それだけ答えて、
私は荷を手に取った。
◇
辺境リントへの道は、
思っていたより、長かった。
王都を出て、丘をいくつも越え、
畑と、低い屋根の村が、
だんだんと景色の主役になっていく。
馬車を引いてくれた御者は、
無口な老人だった。
それが、ありがたかった。
けれど、休憩のために立ち寄った宿場で、
彼はなぜか、私に温かい茶を一杯、黙って差し出した。
「……長旅だ。冷えるといけねえ」
ぶっきらぼうな声だった。
私は、両手でカップを包む。
湯気が、ゆっくりと立ちのぼる。
「ありがとうございます」
そう言うと、
御者は、少し困ったように目をそらした。
「いや。……なに」
なぜ、と思った。
私はもう、聖女ではない。
ただの、行き場を変えただけの娘だ。
それなのに、
見知らぬ人の手が、
こんなにもさりげなく、
私のほうへ差し出される。
カップの温もりが、
指先から、じんわりと伝わってきた。
――これから、どうなるのだろう。
問いかけのようでいて、
答えを求めていない問いだった。
私は、ただ静かに茶を飲み、
ふたたび馬車に揺られた。
辺境の空は、
王都より、ずっと高く見えた。
そのときは、
まだ知らなかった。
この「身を引く」という選択が、
なぜか、人との距離を縮めてしまうことを。
そして、私が思っている以上に、
これから向かう土地が、
私に優しすぎることを。
本話をお読みいただき、ありがとうございました。
何も争わない主人公の、
静かな旅立ちのお話でした。
少しでも続きが気になる、と感じていただけましたら、
ブックマークや評価をいただけると、とても励みになります。
次話「辺境の、古い教会」で、
エルナの新しい暮らしが、静かに始まります。
どうぞ、よろしくお願いいたします。




