第37話 一年ぶりの、王都
街道を馬車に揺られて、数日。
丘をひとつ越えたところで、王都の尖塔が見えた。
大神殿の白い塔。
王宮の旗。
幾重にも連なる、家々の屋根。
一年ぶりの、王都だった。
「……変わらないな」
隣で、ユリウスが言った。
「ええ」
私は頷いた。
「変わらないのに——ずいぶん、遠くから来た気がします」
去年の夏の終わり、私はこの街を、荷馬車の荷台に揺られて出た。
聖印を返して、役割を降りて、誰にも見送られずに。
あのときの私に教えてあげたい。
一年後のあなたは、この街を、自分の意思で訪ねてくる。
深いフードの外套を仕立ててくれる人と、隣り合って。
◇
宿は、大通りから一本外れた、静かな通りに取った。
商人や巡礼者の泊まる、飾り気のない宿。
賓客ではない私たちには、ちょうどよかった。
荷を解いて、通りへ出ると、街は大聖儀を控えて、祭りの前の匂いがした。
軒先に飾り紐が渡され、露店が並び、どこの辻でも、人々が同じ話をしていた。
「——なんでも、当代の乙女様おひとりで務められるそうだ」
「まだお若いのに、大したものだねえ」
「聞いたかい。ほら、例の……先代の聖女様の話」
私の足が、ほんの少し、遅くなった。
「ああ、あれだろう。本物の聖女様は、いまも辺境にいらっしゃるって」
「加護の土地の話だろう? 作物が涸れない、井戸が涸れないって」
「お偉方が手放したものを、辺境が拾ったのさ」
噂は、私の知らないところで、私の知らない形に育っていた。
悪意は、なかった。
むしろ、噂の中の「先代の聖女様」は、気の毒なほど清らかで、立派な人だった。
けれど、それもまた、私ではない誰かだった。
役割の代わりに、今度は物語を着せられている。
「……気にするな」
ユリウスが、低く言った。
「噂は、噂だ。お前の顔までは、知らない」
「ええ」
私は、フードの下で微笑んだ。
「大丈夫です。……ただ、少し、セシリア様のことを思いました。あの方は、この噂の街の真ん中に、立っておられるのですね」
◇
翌日、私たちは市場を歩いた。
リーゼルに頼まれた麦の話を聞き、ニコへの土産に木彫りの燕を買い、マレンへは王都の茶葉を選んだ。
……それから、私はひとつだけ、寄り道をした。
製本職人の工房。
古い綴りを直す職人が、王都にはいると、マレンが言っていた。
「持ち込みではなく、出張を?」
工房の主人は、目を丸くした。
「辺境まで? そりゃまた、遠いですなあ」
「傷みがひどくて、運べないのです。無理にめくれば、崩れてしまうほどで」
「ふうむ……」
主人は顎を撫でた。
「秋なら、弟子を回せるかもしれません。約束はできませんが、文をくだされば」
「ありがとうございます。ぜひ」
言い伝えの続きは、逃げやしない。
けれど、時が満ちる手伝いくらいは、してもいい。
◇
その帰り道だった。
大通りの角で、私の足が、止まった。
向こうから来る、一台の馬車。
漆黒の車体に、金の紋章。
盾の中に、剣と百合。
——侯爵家の紋。
私の、生まれた家の紋だった。
馬車は、私に気づくはずもなく、ゆっくりと目の前を横切って、貴族街の方へ去っていった。
窓の帳は、下りていた。
誰が乗っていたのかは、分からない。
けれど、私の胸の奥は、静かに、ざわめいていた。
この街には、神殿がある。
評議会がある。
噂がある。
そして——家が、ある。
「エルナ」
ユリウスの声で、我に返った。
「……はい」
「大丈夫か」
「ええ」
私は頷いて、歩き出した。
「昔の紋を、見かけただけです。もう、遠いものですから」
そう口にした声が、自分でも分かるほど、少しだけ揺れていた。
遠いはずのものは、思っていたより、近くにあった。
◇
宿に戻ると、帳場の主人が私たちを呼び止めた。
「お客様に、面会の申し込みが来ております」
「面会……?」
この街で、私たちの宿を知る者は、いないはずだった。
主人が差し出した名札を見て、私は息を、静かに整えた。
上質な紙に、優美な文字。
レオンハルト・カイ。
「……随分と、耳が早い」
ユリウスが、低く言った。
名札の裏には、一行だけ、添え書きがあった。
「明日、庭園の茶会にて。積もるお話を」
本話をお読みいただき、ありがとうございました。
一年ぶりの王都は、変わらず、けれど違う顔をしていました。
噂の中には、私ではない「先代の聖女様」。
大通りには、遠いはずの、家の紋章。
そして宿には、耳の早い人からの、面会状。
次話「血の秘密の、もう半分」では、
優美な人が、いちばん深い餌を、卓に載せてきます。
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