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聖女を辞めましたが、私は静かに暮らすだけです 〜本物の乙女が現れたので聖印をお返ししたら、辺境でなぜか過剰に大切にされています〜  作者: リリア・ノワール


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第37話 一年ぶりの、王都

街道を馬車に揺られて、数日。


丘をひとつ越えたところで、王都の尖塔が見えた。


大神殿の白い塔。

王宮の旗。

幾重にも連なる、家々の屋根。


一年ぶりの、王都だった。


「……変わらないな」


隣で、ユリウスが言った。


「ええ」


私は頷いた。


「変わらないのに——ずいぶん、遠くから来た気がします」


去年の夏の終わり、私はこの街を、荷馬車の荷台に揺られて出た。


聖印を返して、役割を降りて、誰にも見送られずに。


あのときの私に教えてあげたい。


一年後のあなたは、この街を、自分の意思で訪ねてくる。


深いフードの外套を仕立ててくれる人と、隣り合って。



宿は、大通りから一本外れた、静かな通りに取った。


商人や巡礼者の泊まる、飾り気のない宿。


賓客ではない私たちには、ちょうどよかった。


荷を解いて、通りへ出ると、街は大聖儀を控えて、祭りの前の匂いがした。


軒先に飾り紐が渡され、露店が並び、どこの辻でも、人々が同じ話をしていた。


「——なんでも、当代の乙女様おひとりで務められるそうだ」


「まだお若いのに、大したものだねえ」


「聞いたかい。ほら、例の……先代の聖女様の話」


私の足が、ほんの少し、遅くなった。


「ああ、あれだろう。本物の聖女様は、いまも辺境にいらっしゃるって」


「加護の土地の話だろう? 作物が涸れない、井戸が涸れないって」


「お偉方が手放したものを、辺境が拾ったのさ」


噂は、私の知らないところで、私の知らない形に育っていた。


悪意は、なかった。


むしろ、噂の中の「先代の聖女様」は、気の毒なほど清らかで、立派な人だった。


けれど、それもまた、私ではない誰かだった。


役割の代わりに、今度は物語を着せられている。


「……気にするな」


ユリウスが、低く言った。


「噂は、噂だ。お前の顔までは、知らない」


「ええ」


私は、フードの下で微笑んだ。


「大丈夫です。……ただ、少し、セシリア様のことを思いました。あの方は、この噂の街の真ん中に、立っておられるのですね」



翌日、私たちは市場を歩いた。


リーゼルに頼まれた麦の話を聞き、ニコへの土産に木彫りの燕を買い、マレンへは王都の茶葉を選んだ。


……それから、私はひとつだけ、寄り道をした。


製本職人の工房。


古い綴りを直す職人が、王都にはいると、マレンが言っていた。


「持ち込みではなく、出張を?」


工房の主人は、目を丸くした。


「辺境まで? そりゃまた、遠いですなあ」


「傷みがひどくて、運べないのです。無理にめくれば、崩れてしまうほどで」


「ふうむ……」


主人は顎を撫でた。


「秋なら、弟子を回せるかもしれません。約束はできませんが、文をくだされば」


「ありがとうございます。ぜひ」


言い伝えの続きは、逃げやしない。


けれど、時が満ちる手伝いくらいは、してもいい。



その帰り道だった。


大通りの角で、私の足が、止まった。


向こうから来る、一台の馬車。


漆黒の車体に、金の紋章。


盾の中に、剣と百合。


——侯爵家の紋。


私の、生まれた家の紋だった。


馬車は、私に気づくはずもなく、ゆっくりと目の前を横切って、貴族街の方へ去っていった。


窓の帳は、下りていた。


誰が乗っていたのかは、分からない。


けれど、私の胸の奥は、静かに、ざわめいていた。


この街には、神殿がある。

評議会がある。

噂がある。


そして——家が、ある。


「エルナ」


ユリウスの声で、我に返った。


「……はい」


「大丈夫か」


「ええ」


私は頷いて、歩き出した。


「昔の紋を、見かけただけです。もう、遠いものですから」


そう口にした声が、自分でも分かるほど、少しだけ揺れていた。


遠いはずのものは、思っていたより、近くにあった。



宿に戻ると、帳場の主人が私たちを呼び止めた。


「お客様に、面会の申し込みが来ております」


「面会……?」


この街で、私たちの宿を知る者は、いないはずだった。


主人が差し出した名札を見て、私は息を、静かに整えた。


上質な紙に、優美な文字。


レオンハルト・カイ。


「……随分と、耳が早い」


ユリウスが、低く言った。


名札の裏には、一行だけ、添え書きがあった。


「明日、庭園の茶会にて。積もるお話を」

本話をお読みいただき、ありがとうございました。


一年ぶりの王都は、変わらず、けれど違う顔をしていました。


噂の中には、私ではない「先代の聖女様」。

大通りには、遠いはずの、家の紋章。


そして宿には、耳の早い人からの、面会状。


次話「血の秘密の、もう半分」では、

優美な人が、いちばん深い餌を、卓に載せてきます。


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