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聖女を辞めましたが、私は静かに暮らすだけです 〜本物の乙女が現れたので聖印をお返ししたら、辺境でなぜか過剰に大切にされています〜  作者: リリア・ノワール


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第35話 ヨナスの、訪問

ヨナス様が町に着いたのは、よく晴れた日の昼前だった。


埃をかぶった旅装で、供も連れず、徒歩で。


神官服の裾は擦り切れかけていたけれど、その目は、記憶の中とまったく同じだった。


誠実な人の、まっすぐな目。


「エルナ様。……ご無沙汰しております」


教会の前で、彼は深く、丁寧に頭を下げた。


「ようこそ、ヨナス様」


私は心からの声で言った。


「よく、いらしてくださいました」



教会の中では、マレンがお茶の支度をしてくれていた。


そして、なぜか当然のようにリーゼルがいて、蜂蜜パンを切り分けていた。


「神殿の人って聞いたから、味方か敵か見極めようと思って」


彼女は堂々とそう言った。


「リーゼル」


「あ、でも大丈夫。顔を見たら分かりました。この人、いい人です」


「……恐縮です」


ヨナス様は、生真面目に頭を下げた。


冬の日、この教会で、王都の使者に「王命の私物化です」と言い切った人が、蜂蜜パンを前に恐縮している。


その景色に、私は少し、頬がゆるんだ。



お茶が一巡りしてから、ヨナス様は姿勢を正した。


「本日は、私的な訪問です。神殿の使いでは、ありません」


彼は、はっきりとそう前置きした。


「ただ——じきに、私的ではないものが、こちらへ届きます。その前に、私の口から、ありのままをお伝えしたく、参りました」


「……はい」


私は頷いた。


「聞かせてください」


「まず、良い報せから」


ヨナス様の表情が、ふとやわらいだ。


「セシリア様は、立派に務めておられます。加護は安定し、祈りの座での御姿は、もう誰の目にも、揺るぎない。王都の人々は、あの方を心から敬い始めています」


「ええ」


私は微笑んだ。


「お手紙から、伝わってきます」


「……あの方を、冬にこの町が受け止めてくださったからです」


ヨナス様は、静かに言った。


「あの日から、あの方は変わられました」


それから、彼は一度、目を伏せた。


「ここからは、良くない報せです」



「評議会は、聖女交代の経緯を、忘れておりません」


ヨナス様は、言葉を選びながら、けれど隠さずに話した。


「昨年の冬の一件で、神殿への疑義は、静かに、しかし確かに残りました。アロイス様のお立場は——揺らいでおります」


「……はい」


「だからこその、大聖儀です」


数十年に一度の、大きな儀。


それが成れば、神殿の威信は回復する。


祈りの座に着くのは、当代の乙女、セシリア様ただひとり。


「セシリア様は、ひとりで務めると仰せです。私も、それがおできになると信じています。ですが——」


ヨナス様は、そこで初めて、苦いものを口にするような顔をした。


「アロイス様は、評議会に諮られました。『万一に備え、元聖女殿のご臨席を賜りたい』と」


「私の……臨席を」


「はい。表向きは、最上の敬意です。けれど」


彼は、まっすぐに私を見た。


「エルナ様が臨席なさり、儀が成れば——『神殿は元聖女の力を呼び戻した』という絵になります。アロイス様の描かれる絵です。あの方の判断は正しかった、元聖女を遇したのも神殿の深慮だった、と」


「そして、私が行かず、セシリア様おひとりで儀が成れば」


私は静かに続きを引き取った。


「『では、あの交代は、いったい何だったのか』——そう、なりますね」


「……仰せの、とおりです」


ヨナス様は、深く頭を下げた。


「アロイス様は、どちらに転んでも良いように、絵の描き方を、幾通りも、ご用意です。あの方は、そういう方です。悪人では、ないのです。ただ——」


「組織を守ることと、ご自身を守ることが」


マレンが、お茶を注ぎ足しながら、穏やかに言った。


「長いあいだに、区別がつかなくなっておしまいになった」


「……はい」


沈黙が、しばらく、卓の上に降りた。



「ですから、エルナ様」


やがて、ヨナス様は言った。


「じきに、神殿と評議会の連名で、正式な招請状が届きます。今度は、出頭命令ではありません。賓客としての、招待です」


「招待……」


「はい。断ることの、できる招待です」


彼は、一語一語、置くように言った。


「お断りになっても、誰も——少なくとも、セシリア様と私は——あなたを責めません。あなたには、静かに暮らす権利がある。それを守るために、あの冬、皆が立ったのですから」


「……ありがとうございます」


「ただ、ひとつだけ。これは、神官としてではなく、ただのヨナスとして、申し上げます」


彼の声が、少しだけ、低くなった。


「セシリア様は、お独りで立つおつもりです。それは、あの方の誇りです。お力添えは、いりません。ですが……」


ヨナス様は、そこで少し、言い淀んだ。


「友人が、見ていてくれたら、と。……それだけは、あの方のお口からは、決して、言えないのです」


私は、目を閉じた。


行間に住んでいた言葉が、いま、声になって、私の前に置かれていた。



ヨナス様は、その日は町の宿に泊まり、明朝、王都へ発つという。


戸口まで見送りに出ると、春の夕風が、彼の擦り切れた裾を揺らした。


「良い町ですね」


彼は、しみじみと言った。


「冬に伺ったときも思いましたが……春は、なお良い」


「ええ」


私は微笑んだ。


「自慢の町です」


ヨナス様は一礼して、宿の方へ歩いていった。


その背中が見えなくなってから、私はしばらく、夕暮れの道に立っていた。


断ることの、できる招待。


友人として、見ていること。


役割として呼ばれるのなら、答えは決まっている。


けれど、これは——。



招請状は、三日後に届いた。


神殿と王都評議会、連名の封書。


上質な羊皮紙に、格式ばった封蝋。


去年の冬に届いた、あの出頭命令の巻物と、同じ意匠の蝋印だった。


けれど、記された言葉は、違った。


命ずる、ではなく。


謹んで、お招き申し上げる、と。


私は、その封を、夕暮れの窓辺で、静かに見つめた。

本話をお読みいただき、ありがとうございました。


正直な人が、正直な報せを運んできました。


良い報せ——セシリア様は、揺るぎなく立っていること。


良くない報せ——その儀式に、幾通りもの「絵」を用意している人がいること。


命令ではなく、断ることのできる招待。


そして、友人の口からは決して言えない、

「見ていてくれたら」という言葉。


次話「役割では、参りません」で、

エルナは、答えを出します。


行くか、行かないか——ではない、答えを。


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