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聖女を辞めましたが、私は静かに暮らすだけです 〜本物の乙女が現れたので聖印をお返ししたら、辺境でなぜか過剰に大切にされています〜  作者: リリア・ノワール


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第33話 白百合の、芽

春の雨が、二日続いた。


三日目の朝、空は洗ったように晴れ上がり、町じゅうの緑が、いっせいに背を伸ばした。


その日、私は屋敷の庭に招かれていた。


「雨のあとの芽吹きは、見ものだ」


昨日、蜜漬けの壺の次の口実を持って現れたユリウスが、そう言ったのだ。


口実は、確か、鹿肉の燻製だった。



庭の木は、見違えるようだった。


雨をたっぷり吸った枝々が、緑の煙をまとったように、いっせいに萌えていた。


「まあ……」


「ああ」


ユリウスは腕を組んで、木を見上げた。


「庭師が言っていた。この木がこんなに芽吹いたのは、先代の頃にもなかったと」


「うれしいことです」


私は木に歩み寄った。


そして、ふと、足を止めた。


木の根元。


あの日、雪を払って、白百合の押し花を埋めた場所。


そこに、小さな緑の芽が、出ていた。


「……ユリウス様」


「どうした」


「これを」


私は膝を折って、その芽を見つめた。


すっと伸びた、細い茎。

先のほうで巻いた、剣のかたちの若葉。


それは、名前を知らなければ、ただの草の芽に見えただろう。


けれど私は、この葉のかたちを知っていた。


神殿の庭で、毎年、数えきれないほど見てきたのだから。


「百合の、芽です」


「……百合?」


ユリウスが隣に膝をついた。


「ここは」


「はい」


私は頷いた。


「あの押し花を、還した場所です」


ふたりとも、しばらく、黙っていた。


朝の光の中で、小さな芽は、ただ静かにそこに立っていた。


「押し花から、芽は出ない」


やがて、ユリウスが言った。


「……そうですね」


私は微笑んだ。


「種が、まぎれていたのかもしれません。あるいは、鳥が運んだのかもしれません」


理屈は、いくらでもつけられる。


けれど、胸の奥では、ことり、と、あの音がしていた。


役割ではなく、自分の意思で持ち出した、たったひとつの過去。


恨みではなく、ありがとうと告げて、この土に還したもの。


それが、名前を変えて、帰ってきた。


「……お前が還したものが」


ユリウスが、ぽつりと言った。


「根を、張ったんだろう」


理屈でも、慰めでもない声だった。


この人は、いつも、こうだ。


言葉は少ないのに、いちばん過不足のないところへ、まっすぐ届く。


「はい」


私は目を細めた。


「そうかも、しれません」



その日の午後、私は教会でマレンに、百合の芽のことを話した。


マレンは、驚かなかった。


ただ、深く、やわらかく、頷いた。


「そう。……根を下ろしたのねえ」


「マレン?」


「昔話をしたのを、覚えていますか」


マレンは、祭壇の奥の、古い書棚に目をやった。


「この土地には昔、役割を捨てた聖人が根を下ろした——という言い伝え」


「ええ」


忘れるはずがなかった。


私がこの町に来て間もない頃、マレンが教えてくれた話。


その言い伝えと、古い記録が、やがて「加護は役割ではなく、人に宿る」という真実へ、私たちを導いてくれたのだ。


「あの言い伝えにはね、エルナ」


マレンは、少しいたずらっぽく笑った。


「続きが、あるのですよ」


「続き……?」


「ええ。ただ——」


彼女は書棚から、あの古い記録の綴りを取り出した。


革の表紙は乾いてひび割れ、綴じ紐は、ほとんど崩れかけている。


「後ろの方の頁は、ごらんのとおり。傷みがひどくて、開くこともできやしない。無理にめくれば、崩れてしまうでしょう」


「まあ……」


「王都には、こういう古い綴りを直す職人がいると聞きますけれどね。この辺境までは、なかなか」


マレンは綴りを、そっと棚に戻した。


「まあ、続きは、逃げやしませんよ。……百合の花と同じです。時が満ちれば、開くでしょう」



夕方、屋敷からの帰り道を、ユリウスが送ってくれた。


並んで歩く道は、すっかり春の匂いがした。


「花が咲くのは、いつになるでしょうね」


私は言った。


「百合は、確か、芽から花まで、時がかかるはずです」


「急ぐことはない」


ユリウスは前を向いたまま言った。


「……この町の良いところだ。急がなくていい」


「ふふ。そうですね」


教会の戸口まで来て、私は振り返った。


「ありがとうございました。今日は、良いものを見ました」


「ああ」


ユリウスは頷いた。


そして、そのまま、立っていた。


帰りそびれた人の立ち方ではなかった。


何かを言おうとしている人の、立ち方だった。


「エルナ」


「はい」


「……」


彼は口を開き、閉じ、それから、視線を横へ流した。


「…………いや」


「?」


「なんでもない。……また来る」


大股に去っていく背中を、私は少しのあいだ、見送った。


言いかけて、やめた言葉。


それが何なのか、私には、わからない。


わからないけれど。


胸の奥の音は、なぜだか、ずっと、鳴りやまなかった。

本話をお読みいただき、ありがとうございました。


土に還した白百合が、芽になって帰ってきました。


押し花から芽は出ない——

理屈は、そのとおりです。


けれど、「ありがとう」と言って手放したものは、

ときどき、名前を変えて帰ってくるのだと。


この土地の言い伝えには「続き」があるようですが、

古い頁は、まだ、開けません。


そして、言いかけて、やめた言葉がひとつ。


次話「セシリア様の、お手紙」では、

王都から、二通目の便りが届きます。


行間に、書かれなかった言葉を乗せて。


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