第33話 白百合の、芽
春の雨が、二日続いた。
三日目の朝、空は洗ったように晴れ上がり、町じゅうの緑が、いっせいに背を伸ばした。
その日、私は屋敷の庭に招かれていた。
「雨のあとの芽吹きは、見ものだ」
昨日、蜜漬けの壺の次の口実を持って現れたユリウスが、そう言ったのだ。
口実は、確か、鹿肉の燻製だった。
◇
庭の木は、見違えるようだった。
雨をたっぷり吸った枝々が、緑の煙をまとったように、いっせいに萌えていた。
「まあ……」
「ああ」
ユリウスは腕を組んで、木を見上げた。
「庭師が言っていた。この木がこんなに芽吹いたのは、先代の頃にもなかったと」
「うれしいことです」
私は木に歩み寄った。
そして、ふと、足を止めた。
木の根元。
あの日、雪を払って、白百合の押し花を埋めた場所。
そこに、小さな緑の芽が、出ていた。
「……ユリウス様」
「どうした」
「これを」
私は膝を折って、その芽を見つめた。
すっと伸びた、細い茎。
先のほうで巻いた、剣のかたちの若葉。
それは、名前を知らなければ、ただの草の芽に見えただろう。
けれど私は、この葉のかたちを知っていた。
神殿の庭で、毎年、数えきれないほど見てきたのだから。
「百合の、芽です」
「……百合?」
ユリウスが隣に膝をついた。
「ここは」
「はい」
私は頷いた。
「あの押し花を、還した場所です」
ふたりとも、しばらく、黙っていた。
朝の光の中で、小さな芽は、ただ静かにそこに立っていた。
「押し花から、芽は出ない」
やがて、ユリウスが言った。
「……そうですね」
私は微笑んだ。
「種が、まぎれていたのかもしれません。あるいは、鳥が運んだのかもしれません」
理屈は、いくらでもつけられる。
けれど、胸の奥では、ことり、と、あの音がしていた。
役割ではなく、自分の意思で持ち出した、たったひとつの過去。
恨みではなく、ありがとうと告げて、この土に還したもの。
それが、名前を変えて、帰ってきた。
「……お前が還したものが」
ユリウスが、ぽつりと言った。
「根を、張ったんだろう」
理屈でも、慰めでもない声だった。
この人は、いつも、こうだ。
言葉は少ないのに、いちばん過不足のないところへ、まっすぐ届く。
「はい」
私は目を細めた。
「そうかも、しれません」
◇
その日の午後、私は教会でマレンに、百合の芽のことを話した。
マレンは、驚かなかった。
ただ、深く、やわらかく、頷いた。
「そう。……根を下ろしたのねえ」
「マレン?」
「昔話をしたのを、覚えていますか」
マレンは、祭壇の奥の、古い書棚に目をやった。
「この土地には昔、役割を捨てた聖人が根を下ろした——という言い伝え」
「ええ」
忘れるはずがなかった。
私がこの町に来て間もない頃、マレンが教えてくれた話。
その言い伝えと、古い記録が、やがて「加護は役割ではなく、人に宿る」という真実へ、私たちを導いてくれたのだ。
「あの言い伝えにはね、エルナ」
マレンは、少しいたずらっぽく笑った。
「続きが、あるのですよ」
「続き……?」
「ええ。ただ——」
彼女は書棚から、あの古い記録の綴りを取り出した。
革の表紙は乾いてひび割れ、綴じ紐は、ほとんど崩れかけている。
「後ろの方の頁は、ごらんのとおり。傷みがひどくて、開くこともできやしない。無理にめくれば、崩れてしまうでしょう」
「まあ……」
「王都には、こういう古い綴りを直す職人がいると聞きますけれどね。この辺境までは、なかなか」
マレンは綴りを、そっと棚に戻した。
「まあ、続きは、逃げやしませんよ。……百合の花と同じです。時が満ちれば、開くでしょう」
◇
夕方、屋敷からの帰り道を、ユリウスが送ってくれた。
並んで歩く道は、すっかり春の匂いがした。
「花が咲くのは、いつになるでしょうね」
私は言った。
「百合は、確か、芽から花まで、時がかかるはずです」
「急ぐことはない」
ユリウスは前を向いたまま言った。
「……この町の良いところだ。急がなくていい」
「ふふ。そうですね」
教会の戸口まで来て、私は振り返った。
「ありがとうございました。今日は、良いものを見ました」
「ああ」
ユリウスは頷いた。
そして、そのまま、立っていた。
帰りそびれた人の立ち方ではなかった。
何かを言おうとしている人の、立ち方だった。
「エルナ」
「はい」
「……」
彼は口を開き、閉じ、それから、視線を横へ流した。
「…………いや」
「?」
「なんでもない。……また来る」
大股に去っていく背中を、私は少しのあいだ、見送った。
言いかけて、やめた言葉。
それが何なのか、私には、わからない。
わからないけれど。
胸の奥の音は、なぜだか、ずっと、鳴りやまなかった。
本話をお読みいただき、ありがとうございました。
土に還した白百合が、芽になって帰ってきました。
押し花から芽は出ない——
理屈は、そのとおりです。
けれど、「ありがとう」と言って手放したものは、
ときどき、名前を変えて帰ってくるのだと。
この土地の言い伝えには「続き」があるようですが、
古い頁は、まだ、開けません。
そして、言いかけて、やめた言葉がひとつ。
次話「セシリア様の、お手紙」では、
王都から、二通目の便りが届きます。
行間に、書かれなかった言葉を乗せて。
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どうぞ、よろしくお願いいたします。




