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聖女を辞めましたが、私は静かに暮らすだけです 〜本物の乙女が現れたので聖印をお返ししたら、辺境でなぜか過剰に大切にされています〜  作者: リリア・ノワール


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第32話 世話焼きのリーゼル

セシリア様からの手紙は、あたたかい近況で満ちていた。


王都の暮らしのこと。

聖務が、少しずつ手に馴染んできたこと。

ヨナス様が、変わらず支えてくださっていること。


そして、最後に、短く一行。


近く、大聖儀の日取りが定まります、と。


大聖儀。


その言葉に、私の指は、ほんの少しだけ止まった。


いつか私を王都へ呼び出す口実に使われた、あの大きな儀式。


けれど手紙の文字は穏やかで、季節の挨拶のように、さらりとその報せを置いていた。


私は手紙をたたみ、抽斗にしまった。


春の空は、まだ晴れている。



数日後の朝、市場の方から、ひときわ明るい声が聞こえてきた。


「ただいま帰りましたーっ!」


広場の入り口で、大きな鞄を背負った娘が、両手を振っていた。


日に焼けた頬。

くるくると動く大きな目。


「リーゼル!」


八百屋の女将が飛び出してきた。


「あんた、帰ってきたのかい!」


「年季が明けたの! 叔母さん、ただいま!」


ふたりは豪快に抱き合った。


——リーゼル。


女将の姪で、隣町のパン職人のもとに、三年のあいだ奉公に出ていた娘なのだという。


「三年ぶりだよ、この子が町にいるのは」


女将は嬉しそうに、そして早口に、私に教えてくれた。


「腕を上げて帰ってきたんなら、うちの隣で店でも開かせようかね」



その日の昼下がり、教会の戸が、勢いよく開いた。


「あなたが、エルナさん!?」


戸口に立っていたのは、リーゼルだった。


その手には、布に包んだ大きなパン。


「え、ええ。エルナと申します」


「やっぱり!」


リーゼルは目を輝かせて、ずんずんと近づいてきた。


「叔母さんの手紙で、ずっと読んでたんです。教会に、それはそれは素敵な人が住んでるって。会うのを楽しみにしてたんですよ、私!」


「まあ……」


「はい、これ! 焼いてきました。うちの師匠直伝の、蜂蜜パン!」


差し出されたパンは、まだほんのりあたたかかった。


「ありがとうございます」


私は受け取って、微笑んだ。


「あの……私が元聖女だということは」


「聞いてます」


リーゼルは、あっけらかんと言った。


「でも、叔母さんの手紙には『うちの町のエルナさん』としか書いてなかったから。私にとっても、エルナさんは、エルナさんです」


私は、一瞬、言葉を失った。


会ったばかりの人にまで、私はもう「役割」ではなく、名前で届いている。


この町が半年かけて私にくれたものを、この娘は、会って三分で手渡してくれた。


「……ふふ」


こぼれた笑いは、自分でも驚くほど、やわらかい音をしていた。


「では、リーゼルさん。お茶を淹れますね。マレンも呼んで、皆でいただきましょう」


「やった!」



リーゼルは、よく喋り、よく笑い、よく働く娘だった。


お茶のあいだに祭壇の埃に気づいて拭き上げ、庭の畑を見れば「豆はもっと間隔を空けなきゃ」と手を入れ、マレンの肩を揉みながら王都のパンの流行を語った。


「この子は昔から、こうなんですよ」


マレンが笑った。


「町じゅうの世話を焼いて回る。……三年、静かだったこと」


「静かな町も好きですけどね」


リーゼルは胸を張った。


「賑やかにするのは、もっと好きです」


そのとき、教会の戸口に、見慣れた背の高い影が立った。


「……林檎の、蜜漬けが」


ユリウスだった。


「……余った。冬の分の、最後だ」


彼は小さな壺を掲げ、いつもの通りに、ぶっきらぼうに言った。


リーゼルの動きが、止まった。


彼女はユリウスを見て、壺を見て、私を見た。


「りょ……領主様、ですよね?」


「ああ」


「領主様が、ご自分で、蜜漬けの壺をひとつ、届けに?」


「……余ったからだ」


「三年前より、お顔がやわらかくなってません?」


「気のせいだ」


リーゼルは、しばらく黙って、私とユリウスを交互に見ていた。


町の人たちなら誰もが知っていて、誰もが知らないふりをしてくれる、その景色を。


帰ってきたばかりの彼女は、まだ、知らないふりを覚えていなかった。


「領主様。それ、口実ですよね!?」


「……っ」


ユリウスが、固まった。


壺を持ったまま、彫像のように。


「だって、蜜漬けなんて日持ちするのに、わざわざ余るわけ——」


「リーゼル」


マレンが、穏やかに、けれど楽しそうに言った。


「お茶が冷めますよ」



夕暮れ、リーゼルは帰り際に、戸口でくるりと振り返った。


「エルナさん! 今日は楽しかったです。パン、また焼いてきますね」


「ええ。ぜひ」


「それと」


彼女はにっこり笑って、世界でいちばん自然な調子で、言った。


「で——式は、いつなんです?」


「…………」


「…………」


私と、まだ帰りそびれていたユリウスは、同時に固まった。


式。


しき。


言葉の意味が、頭に届くまでに、たっぷり三つ数えるほどかかった。


「あれ?」


リーゼルは、きょとんと首を傾げた。


「違いました? てっきり、もうそういうお話なのかと」


「……リーゼル」


マレンが、笑いをかみ殺した声で言った。


「今日のところは、お帰りなさい」


「はーい。それじゃ、また!」


戸が、閉まった。


春の夕暮れの教会に、なんとも言えない沈黙が満ちた。


「………………帰る」


やがて、ユリウスが言った。


耳が、赤かった。


「……はい」


私は俯いた。


頬が、熱かった。


胸の奥では、あの音が、いつもよりずっと速く鳴っていた。

本話をお読みいただき、ありがとうございました。


町に帰ってきた、世話焼き娘のリーゼル。


会って三分で「エルナさんはエルナさん」と言ってのけ、

会って半日で、町じゅうが知らないふりをしてきたことを、

まっすぐ口にしてしまいました。


「で——式は、いつなんです?」


凍った橋を笑いながら渡る人が、

町に、帰ってきたのです。


次話「白百合の、芽」では、

土に還したあの押し花が、静かな奇跡を見せます。


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