第32話 世話焼きのリーゼル
セシリア様からの手紙は、あたたかい近況で満ちていた。
王都の暮らしのこと。
聖務が、少しずつ手に馴染んできたこと。
ヨナス様が、変わらず支えてくださっていること。
そして、最後に、短く一行。
近く、大聖儀の日取りが定まります、と。
大聖儀。
その言葉に、私の指は、ほんの少しだけ止まった。
いつか私を王都へ呼び出す口実に使われた、あの大きな儀式。
けれど手紙の文字は穏やかで、季節の挨拶のように、さらりとその報せを置いていた。
私は手紙をたたみ、抽斗にしまった。
春の空は、まだ晴れている。
◇
数日後の朝、市場の方から、ひときわ明るい声が聞こえてきた。
「ただいま帰りましたーっ!」
広場の入り口で、大きな鞄を背負った娘が、両手を振っていた。
日に焼けた頬。
くるくると動く大きな目。
「リーゼル!」
八百屋の女将が飛び出してきた。
「あんた、帰ってきたのかい!」
「年季が明けたの! 叔母さん、ただいま!」
ふたりは豪快に抱き合った。
——リーゼル。
女将の姪で、隣町のパン職人のもとに、三年のあいだ奉公に出ていた娘なのだという。
「三年ぶりだよ、この子が町にいるのは」
女将は嬉しそうに、そして早口に、私に教えてくれた。
「腕を上げて帰ってきたんなら、うちの隣で店でも開かせようかね」
◇
その日の昼下がり、教会の戸が、勢いよく開いた。
「あなたが、エルナさん!?」
戸口に立っていたのは、リーゼルだった。
その手には、布に包んだ大きなパン。
「え、ええ。エルナと申します」
「やっぱり!」
リーゼルは目を輝かせて、ずんずんと近づいてきた。
「叔母さんの手紙で、ずっと読んでたんです。教会に、それはそれは素敵な人が住んでるって。会うのを楽しみにしてたんですよ、私!」
「まあ……」
「はい、これ! 焼いてきました。うちの師匠直伝の、蜂蜜パン!」
差し出されたパンは、まだほんのりあたたかかった。
「ありがとうございます」
私は受け取って、微笑んだ。
「あの……私が元聖女だということは」
「聞いてます」
リーゼルは、あっけらかんと言った。
「でも、叔母さんの手紙には『うちの町のエルナさん』としか書いてなかったから。私にとっても、エルナさんは、エルナさんです」
私は、一瞬、言葉を失った。
会ったばかりの人にまで、私はもう「役割」ではなく、名前で届いている。
この町が半年かけて私にくれたものを、この娘は、会って三分で手渡してくれた。
「……ふふ」
こぼれた笑いは、自分でも驚くほど、やわらかい音をしていた。
「では、リーゼルさん。お茶を淹れますね。マレンも呼んで、皆でいただきましょう」
「やった!」
◇
リーゼルは、よく喋り、よく笑い、よく働く娘だった。
お茶のあいだに祭壇の埃に気づいて拭き上げ、庭の畑を見れば「豆はもっと間隔を空けなきゃ」と手を入れ、マレンの肩を揉みながら王都のパンの流行を語った。
「この子は昔から、こうなんですよ」
マレンが笑った。
「町じゅうの世話を焼いて回る。……三年、静かだったこと」
「静かな町も好きですけどね」
リーゼルは胸を張った。
「賑やかにするのは、もっと好きです」
そのとき、教会の戸口に、見慣れた背の高い影が立った。
「……林檎の、蜜漬けが」
ユリウスだった。
「……余った。冬の分の、最後だ」
彼は小さな壺を掲げ、いつもの通りに、ぶっきらぼうに言った。
リーゼルの動きが、止まった。
彼女はユリウスを見て、壺を見て、私を見た。
「りょ……領主様、ですよね?」
「ああ」
「領主様が、ご自分で、蜜漬けの壺をひとつ、届けに?」
「……余ったからだ」
「三年前より、お顔がやわらかくなってません?」
「気のせいだ」
リーゼルは、しばらく黙って、私とユリウスを交互に見ていた。
町の人たちなら誰もが知っていて、誰もが知らないふりをしてくれる、その景色を。
帰ってきたばかりの彼女は、まだ、知らないふりを覚えていなかった。
「領主様。それ、口実ですよね!?」
「……っ」
ユリウスが、固まった。
壺を持ったまま、彫像のように。
「だって、蜜漬けなんて日持ちするのに、わざわざ余るわけ——」
「リーゼル」
マレンが、穏やかに、けれど楽しそうに言った。
「お茶が冷めますよ」
◇
夕暮れ、リーゼルは帰り際に、戸口でくるりと振り返った。
「エルナさん! 今日は楽しかったです。パン、また焼いてきますね」
「ええ。ぜひ」
「それと」
彼女はにっこり笑って、世界でいちばん自然な調子で、言った。
「で——式は、いつなんです?」
「…………」
「…………」
私と、まだ帰りそびれていたユリウスは、同時に固まった。
式。
しき。
言葉の意味が、頭に届くまでに、たっぷり三つ数えるほどかかった。
「あれ?」
リーゼルは、きょとんと首を傾げた。
「違いました? てっきり、もうそういうお話なのかと」
「……リーゼル」
マレンが、笑いをかみ殺した声で言った。
「今日のところは、お帰りなさい」
「はーい。それじゃ、また!」
戸が、閉まった。
春の夕暮れの教会に、なんとも言えない沈黙が満ちた。
「………………帰る」
やがて、ユリウスが言った。
耳が、赤かった。
「……はい」
私は俯いた。
頬が、熱かった。
胸の奥では、あの音が、いつもよりずっと速く鳴っていた。
本話をお読みいただき、ありがとうございました。
町に帰ってきた、世話焼き娘のリーゼル。
会って三分で「エルナさんはエルナさん」と言ってのけ、
会って半日で、町じゅうが知らないふりをしてきたことを、
まっすぐ口にしてしまいました。
「で——式は、いつなんです?」
凍った橋を笑いながら渡る人が、
町に、帰ってきたのです。
次話「白百合の、芽」では、
土に還したあの押し花が、静かな奇跡を見せます。
ブックマーク・評価、
どうぞ、よろしくお願いいたします。




