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聖女を辞めましたが、私は静かに暮らすだけです 〜本物の乙女が現れたので聖印をお返ししたら、辺境でなぜか過剰に大切にされています〜  作者: リリア・ノワール


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第31話 約束の、芽吹き

春が来た。


辺境リントの春は、静かに、けれど確かにやって来た。


雪解けの水が小川を太らせ、畑の土は黒々と目を覚まし、家々の軒先には、冬のあいだの薪の代わりに、種の袋が並び始めた。


私がこの町に来たのは、去年の夏の終わりだった。


聖印を返し、聖女の役割を降りて、ただ静かに暮らすために。


あれから、秋が過ぎ、長い冬が過ぎた。


季節は、ゆっくりと、ひと巡りの道をたどっている。



朝の教会に、小さな足音が飛び込んできた。


「エルナねえちゃん!」


ニコだった。


「芽が出た! うちの畑の豆、芽が出たよ!」


「まあ」


私は屈んで、ニコと目の高さを合わせた。


「一番乗りですね」


「うん! だから一番に教えに来た!」


ニコは胸を張って、また駆けていった。


春になってから、子どもたちは毎日、何かの「一番」を競うように報せに来る。


つくしの一番。

燕の一番。

そして今日は、豆の芽の一番。


「春は、報せの季節ですねえ」


マレンが祭壇の花を替えながら、目を細めた。


「ええ」


私は頷いた。


胸の中まで、あたたかいものが差し込んでくるような朝だった。



昼下がり、教会の戸口に、見慣れた背の高い影が立った。


ユリウスだった。


その手には、小さな麻の袋。


「……種が、余った」


彼はぶっきらぼうに言った。


「豆の種だ。屋敷の畑に蒔いて、余った」


「まあ」


私は袋を受け取った。


領主様が、種の袋をひとつ、わざわざ自分で届けに来る。


薪が余った。

林檎が採れすぎた。

蜂蜜が、豆が。


この町に来てから、私は彼の「余った」を、いくつ受け取っただろう。


「ありがとうございます」


私は心からの声で言った。


「教会の裏の畑に、蒔きますね」


「ああ」


ユリウスは頷いて、それから、少しだけ黙った。


何かを言おうとして、言葉を探している沈黙だった。


私は待った。


この人の言葉は、ゆっくり来る。

けれど、必ず来る。


それを私はもう知っていた。


「……エルナ」


「はい」


「庭の木が、芽吹き始めた」


その一言に、私の胸の奥で、ことり、と音がした。


「見に、来ないか」


「はい」


私は迷わず頷いた。


「喜んで」



領主の屋敷の庭に、その木は立っていた。


かつては枯れかけていた、古い木。


ユリウスが十五で領主になった年から、ずっと花をつけなかったという木。


去年の冬の終わり、その枝先に小さな芽がついているのを、ふたりで見つけた。


そして、あの雪解けの日。


「春になったら、あの庭の木が芽吹くのを、一緒に見ないか。これからもずっと、毎年」


彼はそう言った。


これは、その一年目だった。


「……見ろ」


ユリウスが枝を指した。


固かった枝の先に、緑がほどけていた。


ひとつやふたつではない。


枝という枝の先が、いっせいに、小さな緑の火を灯すように、芽吹いていた。


「まあ……」


私は言葉を失った。


長いあいだ枯れかけていたとは思えない、いきいきとした緑だった。


「今年は、早い」


ユリウスが言った。


「例年より、ずっと早く、ずっと多い。……庭師が驚いていた」


「きれいです」


私は木を見上げた。


木の根元の土は、まだ静かだった。


あの日、白百合の押し花を還した場所。


過去のかけらは、この土の下で、静かに眠っている。


その上で、木は、これほどに芽吹いている。


「エルナ」


ユリウスが言った。


「はい」


「約束の、一年目だ」


「……はい」


私は頷いた。


胸の奥で、ことり、ことり、と、音が続いていた。


迷いの音ではない。


去年よりも確かになった、しあわせの音だった。


「来年も」


ユリウスは木を見上げたまま言った。


「その先も。……ずっとだ」


「はい」


私は微笑んだ。


「毎年、ご一緒します」


風が吹いて、芽吹いたばかりの枝が、小さく揺れた。


まるで、頷くように。



夕暮れ、教会に戻ると、マレンが戸口で私を待っていた。


その手に、一通の手紙があった。


「エルナ。王都から、春の便りですよ」


「王都から……?」


私は手紙を受け取った。


上質な、けれど飾り気のない封筒。


裏を返すと、丁寧な文字で、差出人の名が記されていた。


セシリア・モート。


新しい神託の乙女——いいえ。


冬の日にこの辺境を訪ね、私と一緒に泣いた、あの人の名前だった。

本話をお読みいただき、ありがとうございました。


第二部「取り戻さない人」、開幕です。


雪解けの辺境リントで、

エルナの二年目の物語が始まります。


まずは、約束の一年目。

「これからもずっと、毎年」の、最初の春です。


枯れかけていた木は、驚くほどの芽吹きを見せ、

そして王都からは、なつかしい人の便りが届きました。


次話「世話焼きのリーゼル」では、

町に、にぎやかな新しい顔がやってきます。


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