第31話 約束の、芽吹き
春が来た。
辺境リントの春は、静かに、けれど確かにやって来た。
雪解けの水が小川を太らせ、畑の土は黒々と目を覚まし、家々の軒先には、冬のあいだの薪の代わりに、種の袋が並び始めた。
私がこの町に来たのは、去年の夏の終わりだった。
聖印を返し、聖女の役割を降りて、ただ静かに暮らすために。
あれから、秋が過ぎ、長い冬が過ぎた。
季節は、ゆっくりと、ひと巡りの道をたどっている。
◇
朝の教会に、小さな足音が飛び込んできた。
「エルナねえちゃん!」
ニコだった。
「芽が出た! うちの畑の豆、芽が出たよ!」
「まあ」
私は屈んで、ニコと目の高さを合わせた。
「一番乗りですね」
「うん! だから一番に教えに来た!」
ニコは胸を張って、また駆けていった。
春になってから、子どもたちは毎日、何かの「一番」を競うように報せに来る。
つくしの一番。
燕の一番。
そして今日は、豆の芽の一番。
「春は、報せの季節ですねえ」
マレンが祭壇の花を替えながら、目を細めた。
「ええ」
私は頷いた。
胸の中まで、あたたかいものが差し込んでくるような朝だった。
◇
昼下がり、教会の戸口に、見慣れた背の高い影が立った。
ユリウスだった。
その手には、小さな麻の袋。
「……種が、余った」
彼はぶっきらぼうに言った。
「豆の種だ。屋敷の畑に蒔いて、余った」
「まあ」
私は袋を受け取った。
領主様が、種の袋をひとつ、わざわざ自分で届けに来る。
薪が余った。
林檎が採れすぎた。
蜂蜜が、豆が。
この町に来てから、私は彼の「余った」を、いくつ受け取っただろう。
「ありがとうございます」
私は心からの声で言った。
「教会の裏の畑に、蒔きますね」
「ああ」
ユリウスは頷いて、それから、少しだけ黙った。
何かを言おうとして、言葉を探している沈黙だった。
私は待った。
この人の言葉は、ゆっくり来る。
けれど、必ず来る。
それを私はもう知っていた。
「……エルナ」
「はい」
「庭の木が、芽吹き始めた」
その一言に、私の胸の奥で、ことり、と音がした。
「見に、来ないか」
「はい」
私は迷わず頷いた。
「喜んで」
◇
領主の屋敷の庭に、その木は立っていた。
かつては枯れかけていた、古い木。
ユリウスが十五で領主になった年から、ずっと花をつけなかったという木。
去年の冬の終わり、その枝先に小さな芽がついているのを、ふたりで見つけた。
そして、あの雪解けの日。
「春になったら、あの庭の木が芽吹くのを、一緒に見ないか。これからもずっと、毎年」
彼はそう言った。
これは、その一年目だった。
「……見ろ」
ユリウスが枝を指した。
固かった枝の先に、緑がほどけていた。
ひとつやふたつではない。
枝という枝の先が、いっせいに、小さな緑の火を灯すように、芽吹いていた。
「まあ……」
私は言葉を失った。
長いあいだ枯れかけていたとは思えない、いきいきとした緑だった。
「今年は、早い」
ユリウスが言った。
「例年より、ずっと早く、ずっと多い。……庭師が驚いていた」
「きれいです」
私は木を見上げた。
木の根元の土は、まだ静かだった。
あの日、白百合の押し花を還した場所。
過去のかけらは、この土の下で、静かに眠っている。
その上で、木は、これほどに芽吹いている。
「エルナ」
ユリウスが言った。
「はい」
「約束の、一年目だ」
「……はい」
私は頷いた。
胸の奥で、ことり、ことり、と、音が続いていた。
迷いの音ではない。
去年よりも確かになった、しあわせの音だった。
「来年も」
ユリウスは木を見上げたまま言った。
「その先も。……ずっとだ」
「はい」
私は微笑んだ。
「毎年、ご一緒します」
風が吹いて、芽吹いたばかりの枝が、小さく揺れた。
まるで、頷くように。
◇
夕暮れ、教会に戻ると、マレンが戸口で私を待っていた。
その手に、一通の手紙があった。
「エルナ。王都から、春の便りですよ」
「王都から……?」
私は手紙を受け取った。
上質な、けれど飾り気のない封筒。
裏を返すと、丁寧な文字で、差出人の名が記されていた。
セシリア・モート。
新しい神託の乙女——いいえ。
冬の日にこの辺境を訪ね、私と一緒に泣いた、あの人の名前だった。
本話をお読みいただき、ありがとうございました。
第二部「取り戻さない人」、開幕です。
雪解けの辺境リントで、
エルナの二年目の物語が始まります。
まずは、約束の一年目。
「これからもずっと、毎年」の、最初の春です。
枯れかけていた木は、驚くほどの芽吹きを見せ、
そして王都からは、なつかしい人の便りが届きました。
次話「世話焼きのリーゼル」では、
町に、にぎやかな新しい顔がやってきます。
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