第30話 ここが、私の場所
雪が溶け始めた。
辺境の土から小さな緑が顔を出し、風にほんの少し春の匂いが混じるようになった。
長い冬が終わろうとしていた。
◇
ある、よく晴れた朝。
町の広場に人々が集まっていた。
冬を越えた祝いのためだった。
無事に冬を越えられたことへの感謝。
そして、新しい季節への期待。
私もその輪の中にいた。
もう、隅から眺めるよそ者ではなかった。
広場の真ん中で、皆と笑い、スープを分け合う、ひとりとして。
「なあ、エルナさん」
女将がスープをよそいながら言った。
「あんた、王都の連中にまた呼ばれても行かないんだろ?」
「ええ」
私は頷いた。
「行きません」
「そうかい」
女将は満足そうに笑った。
「なら、あたしらが何度でも追い返してやるよ。
なあ、みんな!」
「おう!」
広場のあちこちから声が上がった。
「エルナさんは、うちの町の宝だ!」
「誰にも渡さねえ!」
それは豪快で温かい宣言だった。
私は胸が熱くなった。
ずっと、私は「役割」だった。
家にとって、神殿にとって、カイ家にとって、道具でしかなかった。
それなのに、ここでは私は「宝」だと言われる。
加護があるから、ではない。
何かの役に立つから、でもない。
ただ「エルナ」がいてくれる。
それだけで宝だ、と。
◇
そのとき、マレンがそっと私のそばに来た。
「エルナ。
この町は決めましたよ」
「決めた……?」
「ええ」
マレンは穏やかに笑った。
「あなたを守る、と。
王都が何を言ってこようと、あなたがこの町にいたいと願うかぎり、私たちはあなたを守る。
それがこの町の総意です」
私は言葉を失った。
「あなたはこの土地に加護をもたらしてくれた。
でもね、エルナ。
私たちがあなたを守るのは、加護のお返しではないのですよ」
マレンの目が優しく細められた。
「ただ、あなたが好きだから。
それだけです」
ただ、好きだから。
その一言が、私の胸のいちばん深いところに届いた。
涙がこぼれそうになった。
けれど、それは悲しみではなく、満たされたことの涙だった。
◇
祝いの賑わいから少し離れて、私はユリウスと並んで立っていた。
「……賑やかだな」
ユリウスが広場を見て呟いた。
「ええ」
私は頷いた。
「あたたかい町です」
しばらく、ふたりとも黙って、その光景を眺めていた。
やがて、ユリウスが口を開いた。
「エルナ」
「はい」
「春が来る」
「ええ」
「春になったら」
ユリウスは、そこで一度、言葉を切った。
そして、少し照れたように、けれど、まっすぐに言った。
「あの庭の木が芽吹くのを、一緒に見ないか。
これからもずっと、毎年」
それは不器用な人の、精一杯の言葉だった。
「これからもずっと、毎年」。
その言葉の意味を、私はちゃんと受け取った。
それは、来年も再来年も、その先もずっと、そばにいてほしい、という約束の申し出。
「……はい」
私は微笑んだ。
「喜んで」
ユリウスの口元がゆっくりとほどけた。
冬のあいだずっと固かった枝の先の芽が、今、ほころびかけているように。
◇
風が吹いた。
春の匂いのする風だった。
私は広場の賑わいを、マレンを、そして、隣のユリウスを見渡した。
ここに来たあの日、私はただ静かに暮らしたかった。
何も望まず、何も取り戻さず、ただ距離を取って生きていく。
それでいいと思っていた。
それなのに、身を引いたその先で、私はこんなにもたくさんのものに出会った。
名前で呼ばれるよろこび。
頼られるあたたかさ。
そして、「ここにいていい」と思える場所。
役割ではなく、「エルナ」として。
私は胸に手を当てた。
ことり、と、あの音がした。
それはもう、迷いの音ではなかった。
確かにここが好きだという、しあわせの音だった。
王都の影はまだ消えていない。
血の秘密のもう半分も、明らかにはなっていない。
きっと、これからも静かな波紋は続くのだろう。
けれど、私はもうひとりではない。
そして、何より、私は知っていた。
ここが私の場所、だと。
「ここにいて、よかった」
私はそっと呟いた。
春の風が、その言葉をやさしくさらっていった。
――第一部 了。
第一部「身を引いた先で」、
全三十話を、
お読みいただき、
本当に、ありがとうございました。
聖印を返し、辺境へ身を引いたエルナ。
彼女が見つけたのは、取り戻した立場ではなく、
「ここにいていい」と思える、場所でした。
名前で呼ばれるよろこび。
過剰なほどの優しさ。
そして、ユリウスとの、じわじわと深まる絆。
何も望まず、何も取り戻さなかった人が、
気づけば、たくさんのものに、囲まれている。
少しでも、あなたの心が、
あたたかく、ほどけて、
休まる時間に、なっていましたら。
これ以上の、よろこびは、ありません。
物語は、第二部へと続きます。
レオンハルトの語った、血の秘密のもう半分。
神殿長アロイスの、これから。
王都で歩み出した、セシリア。
そして、ユリウスとの、約束の行く末。
また、次の季節で、お会いしましょう。
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ここまでの、お付き合いに、感謝を込めて。




