第29話 白百合を、手放す
レオンハルトが去って、しばらく経った。
辺境の冬はまだ続いていたけれど、日差しが少しずつ長くなっていた。
その朝。
私は懐から古い本を取り出した。
ページのあいだに挟んだ白百合の押し花。
それはすっかり色を失って、薄茶色になっていた。
◇
私はその押し花を、そっと手のひらにのせた。
これを持ち出したのは、神殿を出るあの日。
役割ではなく、自分の意思で手にした、たったひとつのもの。
ずっと、これだけが「私のもの」だった。
過去の中で唯一、自分で選んだ証。
けれど、今は違う。
私はこの町を選んだ。
この人々を選んだ。
マレンを、セシリアを、ヨナスを、そして、ユリウスを。
「私のもの」は、もうこの押し花だけではなかった。
両手に抱えきれないほど、たくさんのものを、私は今、持っていた。
◇
私は雪の積もった庭へ出た。
あの枯れかけた木のそばへ。
小さな芽が雪の下で、固く春を待っている。
私はその木の根元の雪を、そっと払った。
そして、土を少し掘り、白百合の押し花をそこに埋めた。
「……ありがとう」
私はそっと呟いた。
長いあいだ私を支えてくれた、過去のかけら。
それをこの土に還す。
役割としての私。
誰にも「私」を見てもらえなかった、あの日々。
それを私は恨んではいなかった。
ただ、静かに別れを告げる。
「さようなら」ではなく、「ありがとう」、と。
あの日々があったから、私は距離を取ることを学んだ。
争わないことを学んだ。
そして、その静けさが巡り巡って、この町で愛される理由になった。
過去は無駄ではなかった。
ただ、もう握りしめておく必要はない。
◇
土をそっとかぶせ、その上に雪を戻す。
春になれば、この木の芽が開く。
そして、その根元から、もしかしたら、いつか白百合が咲くかもしれない。
そう思うと、胸が温かくなった。
「……何をしている」
声に振り向くと、ユリウスが立っていた。
「過去を土に還していました」
私は微笑んだ。
「もう握りしめておく必要がなくなったので」
ユリウスは私の埋めた場所を見て、それから私を見た。
「身軽になったか」
「ええ」
私は頷いた。
「とても」
不思議だった。
ずっと持っていたものを手放したのに、寂しさより身軽さが勝っていた。
それはきっと、手放したその手で、新しいものを握れるからだった。
ユリウスがそっと手を差し出した。
「冷えただろう。
戻ろう」
私はその手を見た。
大きくて、少しごつごつした、働く者の手。
私はゆっくりと、その手に自分の手を重ねた。
温かかった。
雪の中で、ふたりの手がそっと重なっていた。
それは、過去を手放した、その手で握った、新しい何かだった。
本話をお読みいただき、ありがとうございました。
次話「ここが、私の場所」で、
第一部の結びを迎えます。
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