第24話 名を呼ぶ、その先
セシリアが王都へ帰る日が来た。
「ヨナス様と一緒に帰ります。そして、神殿の皆に伝えます。肩の力を抜いていいのだと。ひとりで背負わなくていいのだと」
セシリアの顔は、来たときよりずっと晴れやかだった。
「エルナ様。あなたは私の恩人です。いつか、きっと、このご恩をお返しします」
「お返しなど、いりません」
私は微笑んだ。
「ただ、あなたが笑っていてくれたら、それで十分です」
セシリアは涙ぐみながら、何度も振り返りながら、王都へと帰っていった。
その小さな背中を見送りながら、私は思った。
私が聖女をやめた。そのことが、巡り巡って、ひとりの少女を救った。
それは、座を取り戻すことより、ずっと意味のあることだと。
◇
その日の夕暮れ、ユリウスが教会に来た。
今日は口実を持っていなかった。
「……少し、歩かないか」
彼はぼそりと言った。
私は頷いた。
ふたりで雪道を歩く。向かった先は、彼の屋敷の庭だった。
あの、枯れかけた木のある場所。
「見ろ」
ユリウスが指さした。
雪をかぶった枝の先に、小さな芽がひとつ、固くふくらんでいた。
「春に芽吹くだろう。枯れたと思っていた木が」
私は、その小さな芽を見つめた。
「……ええ、きっと」
しばらく、ふたりとも黙って、その芽を見ていた。
やがて、ユリウスがぽつりと言った。
「エルナ」
「はい」
「俺はお前に、ここにいてほしい。それは前にも言った」
「ええ」
「だが」
ユリウスはそこで言葉を切った。
そして、雪の積もった地面を、じっと見つめた。
彼の中で、また言葉がぐるぐると回っているのが分かった。
私は急かさずに待った。
やがて、彼は意を決したように顔を上げた。
「あの言葉は、正しくなかった」
「え?」
「『町が明るい』、と俺は言った。だが、それは本当ではなかった」
ユリウスの声が、わずかに震えていた。
「明るくなったのは、町ではない。俺だ」
私は息をのんだ。
「お前が来てから、俺の毎日が明るくなった。口実を作って、会いに行く。そのくだらない口実を考えている時間さえ、楽しかった」
ユリウスはまっすぐに私を見た。
その目に、いつもの所在なさはなかった。ただ、ひとりの男の、まっすぐな想いがあった。
「俺は、お前がいないと困る。『領主』としてではなく、ユリウスとして、お前にそばにいてほしい」
それは、ほとんど告白だった。最後の一言だけをのぞいて。
けれど、彼が何を言いたいのか、私にははっきりと分かった。
◇
私は胸に手を当てた。
ことり、ことり、と、あの音が止まらなかった。
ずっと、私は自分の感情に距離を取って生きてきた。
何も望まない。何も求めない。それが楽だと思っていた。
けれど、今、この人のまっすぐな言葉を聞いて、私は初めて望んでいた。
この人のそばにいたい、と。
「ユリウス様」
私は懐から、そっと古い本を取り出した。
そして、ページのあいだから、色あせた白百合の押し花を見せた。
「これは、神殿を出るとき、ただひとつ、役割ではなく自分の意思で持ち出したものです」
ユリウスは、その押し花を見た。
「ずっと、これだけが『私のもの』でした。過去の中で、たったひとつの、自分で選んだもの」
私は、その押し花を見つめた。
「でも、最近思うのです。私の『自分で選んだもの』は、もう、これだけではないのだと」
私は顔を上げて、ユリウスを見た。
「この町。この人々。そして……」
そこで、私は少しだけ言いよどんだ。
頬が熱くなった。
「あなたと過ごす時間も」
ユリウスの目が大きく見開かれた。
私はこれ以上は言えなかった。けれど、きっと伝わった。
ユリウスの口元がゆっくりとほどけて、いつになくやわらかく笑った。
雪の積もった庭で、ふたりはしばらく、そうして立っていた。
言葉はそれ以上、いらなかった。
◇
けれど、その温かい時間は長くは続かなかった。
屋敷の門のほうから、衛兵が駆けてきた。
「辺境伯さま! 王都より正式な使者が参りました! エルナ様への召喚状を携えて!」
ユリウスの表情がすっと引き締まった。
私も雪の中で、静かに息を吸った。
来るべきものが来た。それだけだった。
本話をお読みいただき、ありがとうございました。
「ユリウスとして、そばにいてほしい」。
ほとんど告白に近い、ユリウスの言葉。
そして、エルナも、初めて「望む」ことを知ります。
白百合の押し花とともに、想いが、近づきました。
けれど、そこへ王都からの召喚状が。
第五章「冬の客」は、ここまで。
次話からは、第六章「静かな答え」。
第一部の、クライマックスへ向かいます。
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