第16話:特使の傲慢と、新しい請求書。――「吸血鬼の契約」を今すぐ紙屑にいたしますわ。
「……ヴィクトリア。貴公の淹れる茶は、どうしてこうも『整った』味がするのだ」
帝都ノワールの皇宮、その一角にあるバルコニー。
カエルス陛下は、私が差し出したカップを片手に、深く安堵したような吐息を漏らしました。
三年来の不眠が解消された彼の瞳は、今は夜の海のように深く、穏やかな輝きを湛えています。
「あら、陛下。茶葉の量、温度、抽出時間――すべてを正確な数値で管理すれば、味に誤差は生じませんわ。……わたくしの手にかかれば、お茶の一滴まで監査の対象ですもの」
「ふ……。貴公に淹れてもらう限り、毒殺の心配はなさそうだな。あまりに完璧すぎて、隙がない」
陛下が冗談めかして微笑んだ、その時。
背後から、クロエが静かに、けれど明確な拒絶を孕んだ声で告げました。
「お嬢様。……『大陸商業連盟』の特使、マルクス氏が謁見を求めております。……旧王国との『通商条約』の継続確認をしたいとのこと」
私は、扇をゆっくりと畳みました。
平和な時間は、ここまで。……いえ、ここからが「真の精算」の始まりですわね。
「陛下、よろしいかしら? わたくしの新しい庭に、さっそく雑草が入り込もうとしているようですわ」
「よかろう。……私の執行官がどう『除草』するのか、特等席で見学させてもらおうか」
宮殿の応接室。
そこにいたのは、最高級のシルクを身に纏い、指にいくつもの宝石を嵌めた、肥え太った中年男でした。
彼はわたくしたちが入室しても、座ったまま尊大な態度で顎を上げました。
「……お初にお目にかかる、カエルス陛下。そして、こちらが噂の『亡命令嬢』殿ですかな?」
マルクスと名乗った男は、脂ぎった顔でわたくしを舐めるように見つめました。
「我が『大陸商業連盟』は、旧王国と非常に友好な関係を築いてきた。……国が変わろうとも、商売に国境はない。ここに、旧王家と交わした『永続的通商条約』の写しがある。……これの即時継承を認めていただきたい」
彼がテーブルに放り投げた書類。
一見すれば、大陸間の自由貿易を保証する美しい契約書。
ですが、わたくしの目には、その行間に蠢く「寄生虫」の群れがはっきりと見えていました。
「……マルクス様。わたくしの帳簿によれば、この条約は通称『吸血鬼の契約』と呼ばれていたはずですわ」
わたくしは椅子に座ることなく、立ったままその書類を指先で弾きました。
「旧王国が産出する魔石の七割を、連盟が市場価格の三割引きで買い叩く。……代わりに連盟は、王国に『魔導技術の独占的使用権』を与える。……あら。これでは、王国は一生、あなたたちの許可なしには魔法一つ満足に使えない“奴隷”のままですわね?」
「ふん。小娘が、経済の仕組みを分かっておらんようだ。……これは『保護』だ。無能な王国を、我が連盟が支えてやっていたのだよ」
マルクスは鼻で笑い、ワインを一口啜りました。
「さあ、早くサインを。さもなくば、帝国への全物流を停止させても構わんのだぞ? 連盟を敵に回せば、帝都の物価は明日から三倍になるだろうな」
……ふふ。
脅迫、ですかしら?
これほどまでに「数字の根拠」がない脅し、わたくしの耳には子守唄よりも退屈に聞こえますわ。
「……あら。物価が上がる、とおっしゃいましたかしら? ……いいえ、マルクス様。上がるのは物価ではなく、あなたの『賠償額』ですわよ」
「……何だと?」
わたくしは懐から『錆びた鉄のペン』を取り出し、その契約書の上に、冷徹な一線を引きました。
「この条約の第十二条、『技術提供の主体』について。……ここには『連盟が指定するアストレア商会が、すべての魔導具のメンテナンスを行う』と記されていますわ。……マルクス様、アストレア商会の現在のオーナーが誰か、ご存知かしら?」
マルクスの顔が、ピクリと強張りました。
「それは……当然、王国が管理しているものと……」
「いいえ。アストレア商会は、わたくし個人の私産ですわ。そして現在、商会は連盟との全ての提携を解除しております。……つまり、連盟が王国に提供していた『技術』の中身は、すべてわたくしの私物でしたの」
わたくしは、扇をカチリと閉じました。
「提携が解消された以上、連盟が保有する魔導具の九割は、現在『特許侵害』の状態にあります。……さらに、過去十年間にわたる技術料の未払い分。……これを算出したところ、利息を含めて八百億ゴルドになりましたわ。――今すぐ、支払っていただけますかしら?」
「ば、馬鹿な! そんな話、聞いたこともない! この条約は絶対だ!」
「いいえ。……契約の前提条件が崩れれば、その紙切れは鼻をかむのにも適さないゴミですわ。……陛下、不法な知財使用、および詐欺まがいの通商行為。――この場で、彼の資産の差し押さえ(・・・・・・)を許可していただけます?」
背後で見ていたカエルス陛下が、愉悦に満ちた声を響かせました。
「許可しよう。……クロエ、連盟がこの近辺に保有している倉庫と資産を、すべて帝国軍で包囲しろ。一ゴルドの流出も許すな」
「心得ました」
マルクスが椅子から転げ落ち、脂汗を流しながら震え始めました。
王国の資産を買い叩きに来たはずが、数分の会話で自分たちの命脈を握られてしまった。……これが、わたくしの流儀です。
「ま、待て……! こんなことをして、連盟の女帝『セレスティア様』が黙っていると思うなよ!」
「あら、セレスティア様ですか。……是非、お会いしたいものですわ。……わたくしの新しい帳簿、まだ最初の数頁しか埋まっておりませんもの。彼女がどれほどの『負債』を抱えているのか、じっくり監査して差し上げますわ」
わたくしは、床に這いつくばる特使を一瞥もせず、カエルス陛下に向き直りました。
「陛下。……さて、雑草の処理が終わりました。……先ほどのお話の続きを、お伺いしてもよろしくて?」
カエルス陛下は、少しだけ照れくさそうに、けれど真剣な眼差しでわたくしを見つめました。
「……ああ。ヴィクトリア。……貴公に、受け取ってほしいものがある。……これは、契約の一部でも、報酬でもない。……ただ、貴公の傍にいたいと思った私が選んだ……『贈り物』だ」
陛下が差し出したのは、小指の先ほどの小さな、けれど透き通るような青い宝石。
魔力的な価値も、資産価値も、今のわたくしには測れない……「無償の品」。
「……っ」
わたくしの思考が、一瞬でフリーズしました。
対価、がない?
これを頂くことで、わたくしは何を返すべき……?
計算式が、脳内でエラーを吐き出します。
「……あ、陛下。その、……鑑定を、……鑑定をさせていただきますわね?」
「……ふ。……やはり貴公は、攻略しがいのある『難攻不落の帳簿』だな」
カエルス陛下の笑い声が、夜の帳が降り始めた執務室に響きました。
経済の戦いは圧倒的優位。……ですが、この「対価のない贈り物」をどう精算すべきか。
執行官ヴィクトリア、人生最大の『計算不能』な事態に直面しておりますわ。
「鑑定をさせていただきますわね?」
……ふふ、どんな巨大組織の特使も一分で論破するヴィクトリア様が、カエルス陛下からの「無償の贈り物」一つでフリーズしてしまう。このギャップが、わたくしは堪らなく好きですわ。
新章、大陸再編編が始まりました。
マルクスの背後に控える、商業連盟の女帝・セレスティア。
彼女が仕掛ける「世界規模の経済攻撃」に、ヴィクトリア様はどう立ち向かうのか。
「特使をゴミ扱いするのスカッとする!」
「フリーズするヴィクトリア様、守りたい……」
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利息以上の「知的興奮」と「じれったい恋模様」を、次話でお約束いたします。
それでは、大陸の覇権を巡る「真の監査」へ。




