第6話 背徳のカップ麺アレンジと翌朝の微かな匂い
月曜日の朝。
週末にかけて丸二日間、自室のベッドで死んだように眠り倒したおかげで、俺の風邪はすっかり完治していた。鉛のように重く軋んでいた体も本来の軽さを取り戻し、俺はいつも通りにオーダースーツに身を包んで出社した。
「おはようございます」
営業部のフロアに入り挨拶をすると、すぐさま鋭い視線が飛んできた。
直属の上司である李雪課長だ。タイトなスーツと完璧なメイク、一切の隙を感じさせない「氷の女帝」は、俺の顔を見るなりカツカツとヒールの音を響かせて歩み寄ってきた。
「橋本さん。体調は万全に戻ったようですね」
「はい。週末は……急に体調を崩してしまい、誠に申し訳ありませんでした」
休日の昼間に、彼女が視察目的で探していたオムライス店へ案内した際、高熱で倒れそうになった失態を思い出し、俺は185センチの巨体を小さく丸めて深々と頭を下げた。
「自己管理も仕事のうちです。あなたが倒れれば、チーム全体のパフォーマンスに影響が出る。遅れを取り戻すよう、今日のプレゼン準備は完璧にこなしてください」
「はい、承知いたしました」
相変わらずの冷徹な言葉だったが、彼女の切れ長の瞳の奥に、ほんのわずかに安堵の色が浮かんだように見えたのは気のせいだろうか。いや、俺のような要領の悪い部下を本気で心配するはずがない。気のせいだ。俺は肩をすくめ、山積みにされた業務へと取り掛かった。
★★★★★★★★★★★
その日の深夜2時。
月曜日から容赦のない残業をこなし、俺はふらふらになりながら自宅近くのコンビニエンスストアへとたどり着いた。
コンタクトレンズを外し、度の強い黒縁メガネに手入れをサボった無精髭。ヨレヨレのグレーのパーカーを羽織った、いつもの「深夜の干物男」スタイルだ。金曜の夜から風邪で寝込んでいたため、ここに来るのは数日ぶりだった。
(今日は……とにかく温かくて、塩分と炭水化物の暴力みたいなものが食べたい……)
自動ドアを抜け、弁当コーナーへ向かおうとした俺は、思わず足を止めた。
棚の前に、見覚えのある毛玉だらけのエンジ色のジャージ姿が立っていたのだ。
分厚い黒縁メガネに、すっぴんの肌。髪を適当なクリップでまとめた彼女は、カゴを腕に下げたまま、まるで誰かを待っているかのようにキョロキョロと店内を見回していた。
俺が近づいていくと、彼女はハッと息を呑み、メガネの奥の目を大きく見開いた。そして、パァッと顔を輝かせて小走りでこちらに近づいてきた。
「……ずっと、来なかったですね」
少し拗ねたような、それでいて心底ホッとしたような、微かに震える声だった。
俺は驚きつつも、頭を掻きながら答えた。
「すみません。週末から少し熱を出して寝込んでいまして。今夜から復帰です」
「熱……そうだったんですか。……心配、しました」
彼女が目を伏せながら小さく呟いた言葉に、俺の胸が少しチクッとした。俺のような見ず知らずの大柄な不審者を、彼女は本気で案じてくれていたらしい。
だが、俺の感傷は、彼女が両手で大事そうに抱えているカゴの中身を見て一瞬で吹き飛んだ。
「激辛・爆炎豚骨カップ麺」
「特大板チョコレート」
「チューブの練乳」。
「……あの。俺が休んでいる間、ずっとそんな狂った組み合わせを食べていたんですか?」
「だって……あなたがいないと、何を買えばいいか分からないんです。自分で適当にアメリカンドッグにソースをかけてみたんですけど、あの最初の一口の美味しさが全然再現できなくて……」
どうやら、限界OLの彼女は、すっかり俺の背徳アレンジに餌付けされてしまっていたようだ。俺の不在の間、彼女がどんな地獄のような食事をして胃腸を痛めつけていたのか想像するだけで、元・料理人としての血が騒いだ。
「病み上がりの俺の胃袋に、そんなものを見せないでください。今日は俺が、最高のカップ麺アレンジを作ります。ちょっと待っていてください」
俺は彼女のカゴから狂気の食材たちを棚に戻し、代わりに『定番のカップ醤油ラーメン』『ポテトサラダ』『とろけるスライスチーズ』『温泉卵』、そして『粗挽き黒胡椒』を購入した。
イートインスペースのテーブルに彼女を座らせ、俺は手早く調理を開始した。
「カップ麺のアレンジは、一歩間違えるとただ味が濃いだけのゲテモノになります。大切なのは、ベースの味を活かしつつ、計算された足し算を行うことです」
俺はカップ醤油ラーメンの蓋を開け、イートインの給湯器で熱湯を注いだ。
3分待つ間、パウチのポテトサラダの準備をする。
「こういうパウチ食品は、密封されたまま電子レンジに入れると破裂して大惨事になります。必ず端を少しだけ切り、蒸気の逃げ道を作ってから、客用電子レンジで20秒ほど温めておきます」
「えっ、ポテトサラダを温めるんですか?」
彼女が不安そうに声を上げる。
「ええ。冷たいままラーメンに入れるとスープの温度が急激に下がり、脂が固まって不味くなりますからね。……さて、時間が来ました。ここに、温めておいたポテトサラダを丸ごと投入します。そして、これをスープの底からしっかりとかき混ぜる」
割り箸でかき混ぜていくと、ポテトサラダのじゃがいもが熱いスープに溶け込み、透明だった醤油スープが、みるみるうちにドロドロの濃厚なポタージュ状に変化していった。
じゃがいもとマヨネーズが熱されることで立ち上る、暴力的なまでに食欲をそそる濃厚な湯気が、テーブルを挟んで向かい合う彼女の顔をふんわりと包み込む。
「じゃがいもがスープにとろみをつけ、マヨネーズのコクと酸味が醤油の角を丸くして深みを出します。そして、熱々のうちにその上からスライスチーズを乗せ、温泉卵を落とす。最後に、粗挽きの黒胡椒をたっぷりと振る」
完成したのは、醤油ラーメンの面影を全く残していない、カロリーの暴力のような一杯だった。
「完成です。『背徳のポテサラ・チーズラーメン〜温玉落とし〜』。さあ、冷めないうちに食べてみてください」
俺が差し出すと、彼女はゴクリと喉を鳴らし、割り箸を受け取った。
ドロドロになったスープと絡んだ麺を持ち上げる。とろけたチーズが糸を引き、温玉の黄身が崩れて麺に黄金色の衣をまとわせる。
ズルッ。
彼女は思い切り麺をすすり、直後にビクンと肩を跳ねさせた。
「……っ!」
彼女のメガネの奥の瞳が、限界まで見開かれた。
醤油の香ばしい風味を土台に、ポテトサラダのまろやかな甘みとマヨネーズのコクが押し寄せる。チーズの塩気と卵の濃厚さが一体となって口内を支配し、最後に黒胡椒のスパイシーな香りが全体の味をピリッと引き締める。
ただの安価なカップ麺が、フレンチのポタージュとジャンクフードを悪魔合体させたような、至高の一杯に進化していたのだ。
「美味しい……なにこれ、美味しいっ!」
彼女は頬を紅潮させ、夢中で麺をすすり始めた。仕事の重圧やストレスがすべて溶けていくような、純粋で無防備な笑顔。立ち上る熱気と湯気に包まれながら、彼女はスープの最後の一滴まで飲み干した。
「良かった。熱で寝込んでいた間、あなたの壊滅的な味覚センスが暴走していないか、少し心配だったんです」
「もう……ひどいですね。でも……」
彼女は額にうっすらと汗をかきながら、少しだけ上目遣いで俺を見た。
「やっぱり、あなたの作るご飯が、世界で一番美味しいです。……ずっと、待ってました」
深夜のイートインスペースに、彼女の小さな声が響いた。
俺は照れ隠しのように鼻の頭を掻き、「気が向いた時なら、いつでも作りますよ」と答えるのが精一杯だった。
★★★★★★★★★★★
翌朝。火曜日。
営業部のフロアでは、週に一度の定例合同会議が行われていた。
会議室の最前列に立ち、プロジェクターの資料を指しながら、今週の目標と課題をロジカルに説明しているのは、氷の女帝・李雪課長だ。
完璧なメイク、一切のシワがないオーダースーツ。彼女の口から発せられる指示は的確で、反論の余地を一切与えない。
「――以上が、今期のKPI達成に向けたプロセスです。各自、タスクの進捗を前倒しで報告するように。橋本さん、昨日のクライアントからの追加要望の資料を、皆さんに配布してください」
「はい、承知いたしました」
俺は立ち上がり、印刷した資料の束を持って会議室の長いテーブルを回り始めた。
李課長の横を通り過ぎ、彼女の手元に資料を置こうとした、その瞬間だった。
彼女が資料を受け取ろうとわずかに顔を向けた拍子に、ふわりと、綺麗にセットされた艶やかな黒髪が揺れた。
直後、高級な香水とシャンプーの良い香りが鼻をくすぐった。
だが、実家が定食屋であり、元・料理人として日々スパイスや食材の匂いに敏感な俺の嗅覚は、その香りの奥底に潜む「微かな違和感」を鋭く捉えてしまった。
(……なんだ、この匂い)
香水でマスキングされてはいるが、ほんの微かに、彼女の髪の毛の奥から漂ってくる匂い。
それは、チーズの乳脂肪分と、ポテトサラダのマヨネーズの酸味、そして黒胡椒が混ざり合った、強烈なジャンクフードの残り香だった。豚骨やシーフードではなく、明らかに「醤油ベースのスープ」と乳製品が結合した時にだけ放たれる、特有の匂い。
恐らく、深夜に濃厚な湯気を顔中から浴びて髪に匂いが染み付いたまま、疲弊しきって風呂にも入らずに寝落ちしてしまい、今朝慌ててシャワーを浴びたものの、髪の奥深くまでは匂いを落としきれなかったのだろう。
昨晩、俺が深夜のコンビニでジャージ姿の彼女に作った『背徳のポテサラ・チーズラーメン』の匂いと、完全に一致している。
俺は思わず足を止め、資料を配る手を止めて、李課長の横顔をまじまじと見つめた。
涼しい顔をして会議を仕切り、部下たちに厳しい視線を向けている、氷の女帝。
(まさか……あのジャージ姿の限界OLが、李課長……?)
いや、そんなはずはない。体型はスーツで隠れているし、雰囲気も違いすぎる。深夜の彼女は度が全く合わない分厚いメガネをかけていて、俺が同じ会社の部下であることにも気づいていなかった。休日にオムライスを食べに行った時でさえ、彼女は俺に対して厳しい上司のままだったのだ。
だが、あの匂いは絶対に勘違いじゃない。
「……橋本さん? 手が止まっていますよ。早く資料を配り終えなさい」
李課長が怪訝そうな顔で俺を睨みつけた。
「あ、すみません! すぐ配ります!」
俺は慌てて残りの資料を配り歩きながら、心臓が早鐘のように打つのを感じていた。
もし、もしも仮に、あの深夜のポンコツな彼女が李課長だとしたら。
そして、もしも深夜に出会ってきた他の女性たち――スウェットのダイエッター、限界ゲーマー、着ぐるみの不審者、落ち込むネルシャツ女、食感狂いの宇宙人も、すべて俺の身近な人間だったとしたら……?
(もしかして……俺の周りのポンコツたちは……全員、同じ会社の人間なのか……?)
俺の心の中に、初めて明確な「疑念」の種が、深く根を下ろした瞬間だった。




