第5話 師匠の不在と深夜の迷子たち
土曜日の昼下がり。
連日の過酷な残業から解放された俺は、溜まりに溜まった疲労を少しでも抜くため、昼過ぎまでアパートのベッドで泥のように眠っていた。
ようやく重い体を起こし、枯渇した冷蔵庫の中身を補充すべく、近所の少し大きめなスーパーへと足を向けた時のことだ。
駅前の複雑に入り組んだ路地裏で、周囲の風景から完全に浮いている、圧倒的なオーラを放つ女性を見つけた。
上質なベージュのトレンチコートに、体にフィットした黒のハイネックニット。細身のパンツと低いヒールのパンプスという、洗練された大人の休日スタイル。艶やかな黒髪のロングヘアが秋風に揺れている。
しかし、その美しい顔には、似つかわしくないほど険しいシワが刻まれていた。彼女はスマホの地図アプリを親の仇のように睨みつけながら、同じ交差点をウロウロと歩き回っている。
(……李課長!?)
俺は思わず電柱の陰に身を隠した。
間違いない。俺の直属の鬼上司であり、社内で「氷の女帝」と恐れられている李雪その人だ。
休日の私服姿を見るのは初めてだが、会社での隙のないオーダースーツ姿と変わらず、一切の妥協を感じさせない完璧な美しさだった。だが、今の彼女は完全に道に迷っている迷子の顔だ。
見て見ぬふりをしてスーパーへ向かうべきか。
しかし、俺の致命的な「お人好し」の病が、困っている上司を見捨てることを許さなかった。
「……あの、李課長。お疲れ様です」
恐る恐る声をかけると、彼女はビクッと肩を震わせ、鋭い視線をこちらに向けた。
「……橋本さん。なぜあなたがここに?」
「俺、この近くに住んでるんです。買い出しに行こうとしたら、課長が見えたので……もしかして、道に迷われましたか?」
「迷ってなどいません。ただ、このアプリのUIが非論理的で劣悪なだけです」
絶対に非を認めない強気な態度は休日も健在だった。
俺がスマホの画面を覗き込むと、目的地として設定されていたのは、最近テレビやSNSで話題になっている『極上のふわとろオムライス』で有名な洋食店だった。しかし、この店は路地裏の非常に分かりにくい雑居ビルの2階にあるため、初見でたどり着くのは至難の業だ。
「この店なら、ここから歩いて3分ですよ。よろしければ、案内しましょうか?」
「……助かります」
李課長は少しだけバツの悪そうな顔をして頷いた。
案内する道すがら、彼女は言い訳をするように口を開いた。
「誤解のないように言っておきますが、これは個人的な趣味ではありません。話題の飲食店のマーケティング手法と、顧客体験の視察という、いわば市場調査の一環です」
「はあ、なるほど。熱心ですね」
「しかし、人気店となると休日は行列ができているはず。女性一人で並ぶのは、少し……非効率というか、目立ちますからね。橋本さん、ちょうどいいところに現れましたね。あなたも市場調査に同行しなさい」
「……はい?」
「昼食は私が奢ります。部下をご飯に連れて行くのも、上司の務めですから」
有無を言わさぬ女帝の命令により、俺はそのまま彼女と休日のランチ――端から見れば完全に『デート』――をすることになってしまった。
★★★★★★★★★★★
案の定、店の下には10人ほどの行列ができていた。
俺という大きな壁が隣にいるおかげか、李課長は周囲の視線を気にする様子もなく、静かに行列に並んでいた。
「……普段の橋本さんは、休日もそんなに縮こまっているのですか?」
「えっ」
「会社でもそうですが、あなたは体格に恵まれているのに、常に猫背で気配を消そうとしている。もっと堂々としていれば、営業マンとしての見栄えも良くなるはずですが」
痛いところを突かれ、俺は苦笑した。
「すみません。昔から、目立つのがあまり好きじゃなくて。つい癖で丸まっちゃうんです」
「無駄の多い人ですね。他人の仕事ばかり手伝って自分の首を絞めるのも、直した方がいいですよ」
氷の女帝の説教に胃を痛くしているうちに、順番が回ってきた。どうにも体が重く、少し寒気がする気がしたが、俺は上司の前で気を張ってごまかした。
対面式のテーブル席に案内され、名物の『極上のふわとろオムライス』を2つ注文する。
やがて運ばれてきたのは、濃厚なデミグラスソースの海に浮かぶ、黄金色に輝く美しいオムライスだった。スプーンで真ん中を割ると、中から半熟の卵がとろりと溢れ出す。
「いただきます」
李課長は上品にスプーンを持ち、一口分をすくって口に運んだ。
その瞬間だった。
「……んっ」
彼女の切れ長の瞳がパッと見開かれ、険しかった眉間がふわりとほどけた。
冷徹な女帝の仮面が剥がれ落ち、美味しいものを純粋に喜ぶ、子どものような無防備な笑顔がそこに現れたのだ。
「美味しい……。卵の火入れが完璧で、デミグラスソースのコクも深いです。これは、並ぶ価値がありますね」
「ええ、本当に。……あ」
俺は思わず声を漏らした。
オムライスを無邪気に頬張る彼女の口の端に、デミグラスソースがちょこんと付いていたからだ。
俺の視線に気づいたのか、彼女は「何か?」と首を傾げた。
「いや、あの……口の端に、ソースが」
「っ!」
彼女は顔を真っ赤にして、慌てて紙ナプキンで口元を拭った。すぐにいつもの冷徹な表情を取り繕ったが、耳の先まで赤い。
俺は、激しく鼓動する心臓を押さえながら、強烈な既視感に襲われていた。
美味しいものを食べた瞬間の、あの純粋すぎる笑顔。口の端にソースをつける無頓着な癖。
(……どこかで、見たことがある。それに、この感じ……)
脳裏にフラッシュバックしたのは、深夜のコンビニで出会った、あの『毛玉だらけのジャージ姿の女性』だった。
アメリカンドッグの最高のソース配分を教えた時、彼女も全く同じように、ケチャップを口の端につけながら、パァッと花が咲くような最高の笑顔を見せたのだ。
(いや、まさかな……)
俺はすぐにその思考を打ち消した。
目の前に座っているのは、洗練されたファッションに身を包むエリート上司だ。深夜2時に激甘メロンパンと獄炎焼きそばを買おうとしていた、あの味覚の壊れた限界ポンコツOLと同一人物であるはずがない。似ているのは、ただの偶然だ。
「……橋本さん? 手が止まっていますよ。冷めないうちに食べなさい」
「あ、はい。いただきます」
俺は慌ててオムライスを口に運んだ。
しかし、その直後から、俺の体に急激な異変が起こり始めていた。
背中を走る強烈な悪寒。関節の痛み。そして、頭の奥がガンガンと鳴るような熱っぽさ。
連日の無茶な働き方と、深夜のコンビニ徘徊で削り続けた体力が、休日の気が緩んだタイミングで一気に限界を迎え、本格的な風邪の症状として牙を剥いたのだ。
「……橋本さん、顔色が非常に悪いですよ。脂汗もかいている」
「す、すみません。なんだか急に、熱っぽくて……」
「はあ……。自己管理も仕事のうちだと言ったはずですが」
李課長は冷たい声でため息をついた。しかし、その瞳の奥には、ほんの少しだけ焦りのような、心配の色が浮かんでいたように見えた。
「今日の市場調査はここまでです。食事代は出しておきますから、すぐに帰って寝なさい。週明けに響かせたら承知しませんよ」
「申し訳ありません……ごちそうさまでした」
俺はフラフラの足取りで店を出て、鉛のように重い体を引きずりながら、自分のアパートへと倒れ込んだのだった。
★★★★★★★★★★★
その日の深夜2時。
熱を測ると38度5分。俺はアパートのベッドで、スポーツドリンクを片手にうなされていた。
(……やっちまった。こんなに熱が出たのは久しぶりだ)
喉も腫れており、関節の痛みで寝返りを打つのも辛い。
当然、今夜は日課である深夜のコンビニに行くことなど不可能だった。
(……あいつら、俺がいなくて変なもん食ってなきゃいいが……)
朦朧とする意識の中で、俺は持ち前のお節介を発揮し、深夜のコンビニで餌付けした『ポンコツな迷子たち』のことを思い出していた。
だが、今の俺には自分の身を案じることしかできない。俺は再び、深く重い眠りの底へと沈んでいった。
――ここから先は、高熱でうなされている俺が知る由もない、とある週末の深夜の出来事である。
俺のオアシスである深夜のコンビニでは、奇妙な現象が起きていた。
カランコローン。
自動ドアが開き、毛玉だらけのエンジ色のジャージを着た女性が入店してきた。分厚い黒縁メガネをかけた李雪だ。
彼女は休日の昼間に、出来の悪い部下と思いがけずランチを共にし、さらにその部下が自分の目の前で体調を崩したことで、なぜかペースをひどく乱されていた。夜になっても仕事の企画書作りに集中できず、やり場のないプレッシャーとモヤモヤを抱えたまま、無意識のうちに深夜のコンビニへと足を向けてしまっていたのだ。
彼女は一直線にレジ横のホットスナックコーナーへ向かった。ケースの中には、黄金色のアメリカンドッグが1本残っている。
しかし、彼女はそれを買おうとはせず、キョロキョロと店内を見回した。
「……おかしいですね。休日の深夜だから、あの大きな男の人がいるはずないのに……もしかしたらって、少し期待してしまいました」
彼女は誰にともなく、気弱な声で呟いた。
仕方なく彼女は自分でアメリカンドッグを注文し、パキッテを受け取ってイートインスペースへ向かった。見よう見まねで先端にソースを集中させようとしたが、不器用な彼女の手元が狂い、ケチャップは無残にもアメリカンドッグの側面にべちゃりと飛び散ってしまった。
「ああ……これじゃダメなんです。最初の一口の暴力的な味が……あの人が作ってくれないと、美味しく感じないんです……」
彼女はしょんぼりと肩を落とし、味気ないアメリカンドッグをかじった。
その数十分後。
今度は、大きめのスウェットに伊達メガネをかけた山下恭子がやってきた。
休日を満喫し、夜更かしして動画を見ていた彼女は、深夜特有の抑えきれない食欲の爆発に見舞われていた。彼女は弁当コーナーの前で、サラダチキンとカップ春雨を両手に持ち、激しく葛藤していた。
「……どうしよう。休日のご褒美に唐揚げをダイブさせたい気分なのに……平日じゃないから、背中を押してくれる『悪魔のお兄さん』はいませんよね……」
平日深夜の残業終わりにしか会ったことがないのだから、休日のこんな時間にいるはずがない。頭ではわかっていながらも、彼女は店内を何度も往復してあのイケメンマッチョの姿を探したが、やはり見つからない。
結局、自分で唐揚げとチーズを乗せる勇気が出ず、彼女は味気ない春雨スープだけをすすり、「こんなの中途半端な罪悪感でしかないですぅ……」と涙目で店を後にした。
さらにその直後。
変なロゴTシャツにちょんまげ頭の限界ゲーマー、石井ミチルが転がり込んできた。
金曜の夜から一睡もせずにゲームをやり続けていた彼女は、日曜の午前2時になってついに空腹の限界を迎えていた。彼女は両手に特大カップ焼きそばとフライドチキンを抱え、イートインスペースの誰もいない席を見つめた。
「アニキ……! どこですか、アニキ。私、チキンの正しいほぐし方がわからないんです。あの卵とマヨネーズの黄金比がないと、この焼きそば、ただの油の塊になっちゃうじゃないですかぁ……」
彼女は悲しそうに敬語で呟いた。当然、返事はない。彼女は絶望した顔で、マヨネーズのかかっていない平坦な味の焼きそばを無機質に胃袋へと流し込んだ。
深夜のコンビニエンスストア。
互いの正体を知らぬまま、会社では決して見せない無防備な姿で集まってきた女性たち。
彼女たちは皆、平日の深夜ではないとわかっていながらも、自分たちの胃袋と疲れた心を完璧に満たしてくれる『魔法のシェフ』の姿を求めて、深夜のイートインで途方に暮れる迷子となっていた。
俺が風邪で寝込んでいるたった一夜の間に、自分が彼女たちにとってどれほど『代えがたい存在』になってしまっていたかを、俺はまだ知る由もなかった。




