第4話 食感狂いの宇宙人と落ち込む元気印
「橋本さん。このクライアントからの要望を取り入れたUIデザインですが……はっきり言って、美しくないです」
無機質な会議室に、冷たく透き通った声が響いた。
声の主は、UI/UXデザイン部の長谷川真琴。色素の薄いアッシュ系のウェーブヘアに、エッジの効いたヴィンテージの柄シャツを着こなす彼女は、社内でも一際目立つアーティスティックな美女だ。
しかし、その圧倒的な美的センスと引き換えに、彼女の言葉選びは常にストレートで辛辣極まりない。
「ユーザーの視線誘導が完全にノイズで分断されています。このボタンの配置、ダサすぎて私の視力が下がりそうです。営業部からクライアントに、仕様の再検討を説得してください」
「いや、長谷川さん。先方はどうしてもこの導線を入れたいと……」
「美しくないものは作れません。以上です」
バッサリと切り捨てられ、俺、橋本一郎は、185センチの大きな体を縮こまらせてため息をついた。彼女のような天才肌のクリエイターと、数字を追う営業部との板挟みになるのは、お人好しな俺の日常茶飯事だ。
「橋本先輩〜〜っ! ごめんなさい、やっちゃいましたぁぁっ!」
会議室を出て自席に戻ろうとした俺に、今度は弾丸のような勢いで飛びついてきた人影があった。
広報・イベント担当の前田奈緒美だ。健康的な小麦色の肌をハツラツとしたポニーテールにし、動きやすいパンツスーツとスニーカーで社内を駆け回る、通称「社内の元気印」。誰にでも人懐っこい笑顔を向ける彼女だが、持ち前のガッツに反比例して、絶望的に不器用でドジなのだ。
「明日のイベントで配布するノベルティの段ボール、私が台車ごとひっくり返して中身をぶちまけちゃって……数が足りないんですぅ! 先輩、業者への追加発注と在庫確認、手伝ってくださいぃぃ!」
「おいおい、明日のイベントって朝イチだろ!? 今からじゃ……いや、わかった。すぐリスト持ってきて!」
半泣きで縋り付いてくる後輩を見捨てることなど、俺の損な性格では到底不可能だった。
「ありがとうございます! 先輩は神様です!」と拝んでくる奈緒美の尻拭いに奔走し、真琴に突き返されたデザイン案の再調整でクライアントに頭を下げ続ける。
鬼上司に詰められ、他部署のエースに仕事を押し付けられる日々に加え、この仕打ち。俺のHPは、今日も無事にマイナスへと突入した。
★★★★★★★★★★★
その日の深夜2時。
過酷な残業とトラブル対応を終えた俺は、いつものように自宅近くのコンビニエンスストアへ吸い込まれた。
日中のパリッとしたスーツ姿とは打って変わり、度の強い分厚い黒縁メガネに、手入れをサボった無精髭、そしてヨレヨレのグレーのパーカー。深夜の俺は、会社での気弱な営業マンの面影など微塵もない、ただの大柄で小汚い男だ。
(今日は疲れた……塩分と油分の塊みたいなメシが食いたい……)
そんなことを考えながらイートインスペースの横を通りかかると、一番端の席に、丸まった背中があった。
彼氏のお下がりのような大きめのチェックのネルシャツに、色落ちしたダメージデニム。ポニーテールではなく、適当に下ろしただけの髪。
テーブルの上には、海外製の超濃厚チーズ味の巨大なポテトチップス一袋と、1リットルのコーラが置かれている。
彼女はポテトチップスを抱え込むようにして突っ伏し、「……私って、本当にダメだ……生きてる価値ない……」と、この世の終わりのような声で呟いていた。
(……昼間の元気印と、随分ギャップがあるな)
俺は心の中で毒づいた。オフの姿とはいえ、その健康的な肌の色と特徴的な声で、すぐに広報の前田奈緒美だとわかった。どうやら彼女は、日中のドジや失敗を深夜に一人で強烈に引きずるタイプらしい。
彼女はのろのろと身を起こし、巨大なポテトチップスの袋を開けようとした。
極度の落ち込みを、大味で暴力的なスナック菓子と砂糖水の炭酸で紛らわせようとしているのだ。俺の元・料理人としての本能が、静かに警鐘を鳴らした。
「……あの、すみません」
俺が声をかけると、彼女はビクッと肩を震わせて見上げてきた。ノーメイクの目は赤く腫れている。大柄な無精髭の男に声をかけられ警戒したようだが、彼女の意識は深い自己嫌悪の底に沈んでおり、俺の正体を疑うような余裕はないようだった。
「そのポテトチップスを否定はしませんが、心がひどく落ち込んでいる時に、冷たくて乾いたお菓子で胃を満たすのはやめた方がいい。余計に虚無感が押し寄せてきます」
「え……? でも、私なんか、こういうジャンクな餌がお似合いなんです……失敗ばかりで、先輩にも迷惑かけて……」
「失敗した日だからこそ、血肉になる温かいジャンクを食べるべきです。ちょっと待っていてください」
俺は彼女の返事を待たず、店舗の棚から『パックご飯』『コンビーフの缶詰』『とろけるスライスチーズ』『半熟ゆで卵』を購入し、レジでご飯を熱々に温めてもらった。
イートインスペースに戻ると、俺は先ほどレジでもらった清潔なプラスチックのスプーンを使い、手早く調理を開始した。
「温かいご飯の上に、このコンビーフをほぐして乗せます。牛の赤身と脂の旨味が凝縮された、保存食の王様です」
熱気でコンビーフの動物的な脂がうっすらと溶け出し、暴力的な肉の香りが漂い始める。俺はさらにその上からスライスチーズを2枚乗せ、店内の客用電子レンジでさらに20秒加熱した。
「コンビーフの塩気と脂を、とろけたチーズの乳脂肪分が包み込む。ここに半熟ゆで卵を崩して乗せ、最後に粗挽きのブラックペッパーを大量に振る」
完成したのは、見るからにカロリーの暴力でありながら、食欲のど真ん中を撃ち抜く『アメリカン・ダイナー風コンビーフ・チーズ丼』だ。
「さあ、食べてください。落ち込んだ心を底上げする、温かいガッツリ飯です」
俺がスプーンを差し出すと、彼女は戸惑いながらも、圧倒的な肉とチーズの香りに抗えず、それを一口頬張った。
「……ッ!」
彼女の瞳に、パッと光が宿った。
熱々のご飯とコンビーフの強烈な旨味が、チーズのまろやかさと絡み合って脳髄を殴りつける。ブラックペッパーの刺激が食欲をさらにブーストさせ、冷え切っていた彼女の胃と心を、内側から強制的に温めていくのだ。
「美味しい……なんだこれ、美味しいっ! お肉の脂とチーズが……ううっ、最高ぉぉっ!」
彼女はポロポロと涙をこぼしながら、野生動物のような勢いでスプーンを動かし始めた。
あっという間に大盛りご飯を平らげると、彼女は鼻をすりながら、先ほどまでの絶望が嘘のような、パァッと晴れやかな笑顔を見せた。
「ウマい! 生きててよかったー! お兄さん、ありがとうございます! 私、明日からまた頑張れます!」
「立ち直りが早くて何よりです。冷たいお菓子は、また元気な時にでも食べてください」
俺がそう告げると、彼女は「はいっ!」と元気に返事をして、俺に向かって深々と頭を下げた。
「あの、お兄さんの作るご飯、本当に神様みたいでした! また落ち込んだら、ここで待ち伏せしてもいいですか!?」
餌付けされた大型犬のように懐いてくる彼女に、俺は「またご縁があれば、いいですよ」とだけ答えて、店を後にした。
★★★★★★★★★★★
それから二日後の、同じく深夜2時。
俺は再び、無精髭とメガネのオフ姿でコンビニを訪れていた。
(今日は甘いものが食べたい気分だな……)
アイスコーナーを物色していると、またしても見慣れたシルエットが、ショーケースの前で幽霊のように立ち尽くしていた。
首元がヨレヨレのマイナーバンドのTシャツに、ゆるいスウェットパンツ。前髪をヘアピンで無造作に留めたその女性は、昼間の会議で俺の提案を「ダサい」と一刀両断した、UI/UXデザイン部の長谷川真琴だった。
日中、モニターを凝視しすぎて眼精疲労が限界に達しているのだろう。彼女の目は死んだ魚のように虚ろで、口元は半開きになっている。脳が完全に「処理落ち」を起こしている状態だ。
彼女はフラフラとした足取りで、カゴの中に『色鮮やかなフルーツゼリー』を入れ、次になぜかホットスナックコーナーから『激辛フライドチキン』を購入して、イートインスペースへと向かった。
(……まさか)
俺が嫌な予感を抱いて見守っていると、彼女は席に座るなり、フライドチキンのザクザクした衣を素手で剥がし、プルプルのフルーツゼリーの上にトッピングし始めたのだ。
「フフ……ザクザク……ゼリーのぷるぷる……絶対、いい音……」
彼女は完全にバグった宇宙人のような虚ろな瞳で、そのおぞましいキメラを生み出そうとしている。味覚などどうでもよく、ただ純粋に「食感」と「視覚的な刺激」だけを求めているのだ。
「あっ、ちょっと待ってください!」
俺は慌てて彼女のテーブルに駆け寄り、その奇行を制止した。
「……ふわぁ? なに……? 私、ザクザクが欲しいの……脳みそが、音を求めてるの……」
彼女は焦点の合わない目で俺を見上げた。俺の無精髭とメガネの変装のせいもあるが、そもそも視覚情報がまともに脳に伝わっていないようだ。
「食感を求めるのは理解できます。ですが、味の調和を無視した異物同士の組み合わせは、脳に認知不協和を起こさせ、逆にストレスを与えます。計算し尽くされた極上の食感を、俺が作ります。少し待っていてください」
俺は急いで店舗の棚を回り、『プレミアムバニラアイス』『厚焼きビスケット』『キャラメリゼされたミックスナッツ』『ビターの板チョコレート』、そして『ホットの無糖コーヒー』を購入した。
彼女のテーブルに戻ると、俺は買ってきた厚焼きビスケットの袋を開封せず、袋の上から自分の拳の腹を使って軽く叩き、中身を粗めに砕いた。
「いいですか。究極の食感とは、味のベクトルが同じ方向を向いている時にのみ成立します」
俺はプレミアムバニラアイスの蓋を開け、その上に砕いたビスケットとミックスナッツをたっぷりと乗せ、さらに細かく割った板チョコレートを散らした。
「これだけでも十分ザクザクですが、さらに『温度差』を利用した魔法をかけます」
俺は、買ってきたばかりのホットコーヒーを、ほんの少しだけ、板チョコレートとアイスの上から回しかけた。
すると、熱いコーヒーが板チョコレートを溶かし、それが冷たいアイスに触れた瞬間に急激に冷やされて「パリッ」と固まるのだ。ビスケットはコーヒーの水分を吸う前にチョコレートでコーティングされるため、ザクザク感は全く失われない。
「完成です。『究極のザクザク・アフォガート』。さあ、スプーンで表面のチョコを割って、食べてみてください」
彼女は言われるがままにスプーンを突き立てた。
パリッ、ザクッ。
静かな深夜の店内に、小気味良い破壊音が響く。彼女はそれをすくい上げ、ゆっくりと口に運んだ。
「……っ!」
彼女の目に、一瞬でハイライトが戻った。
滑らかで濃厚なバニラアイスに、ほろ苦いコーヒーの香り。そこに、瞬間冷却されてパリパリになったチョコレートと、粗く砕かれたビスケット、そしてナッツの強烈な『ザクザク感』が、脳髄に直接響くような極上のASMRを生み出しているのだ。
味の調和が完璧だからこそ、食感の暴力が純粋な快楽として脳に突き刺さる。
「……ヤバい」
彼女は恍惚とした表情を浮かべ、頬を紅潮させた。
「なにこれ……世界で一番美しい食感……ザクザク、パリパリ……冷たくて、甘くて、苦い……完璧なユーザー体験……」
彼女は夢中でスプーンを動かし続け、あっという間に至高のスイーツを平らげてしまった。
食べ終わった彼女は、熱に浮かされたような瞳で俺のパーカーの袖を無言で引っ張った。
「……ねえ。あなた、錬金術師?」
「ただの、食感にうるさいコンビニ客ですよ」
「……また、ザクザクさせて……私に、美しい音を食べさせて……」
合法スレスレの危ういトーンでおねだりしてくる彼女に、俺は少し背筋を寒くしながら「俺の気が向いたら、いいですよ」と告げて逃げるように退散した。
★★★★★★★★★★★
翌朝。
睡眠不足のまま出社した俺は、デスクで濃いコーヒーを飲みながらため息をついた。
巨大ポテチで落ち込んでいた女に、ゼリーにチキンを乗せようとしていた食感狂いの女。深夜のコンビニには、本当に奇行に走る人間が多い。
「橋本先輩! 昨日は本当にありがとうございました! おかげでイベント大成功でした! 先輩は私の神様です!」
広報の奈緒美が、日焼けした肌に満面の笑みを浮かべて、俺の背中をバンバンと叩いていく。
「橋本さん。昨日のUIの件ですが、営業部の意図を汲んで、少し丸みを持たせたデザインに修正しました。……今回は特別に、歩み寄ってあげます」
デザイン部の真琴が、気怠げな視線を送りながら、修正案のファイルを俺のデスクにそっと置いていった。普段の彼女からは考えられない妥協案だ。
(……うちの会社の人たちも、あのコンビニで会った素直な女性たちみたいに、弱さや隙を見せてくれれば、もっと助けてやれるのにな……)
俺は心の底からそう思いながら、無機質なエクセルの画面に向かって、静かに首を振った。
俺が深夜のコンビニで餌付けした『落ち込む大型犬』と『食感狂いの錬金術師』が、今まさに俺の平穏な日常を少しずつ侵食し始めている張本人たちだとは、俺はまだ知る由もなかった。




