第7話 健康診断の罠と、深夜のギルティ・ラーメン
水曜日の昼下がり。
営業部のフロアでデスクに向かっていた俺は、無意識のうちに周囲の女性社員たちをチラチラと観察していた。
(……まさかな)
昨日、会議室で李雪課長の髪から漂ってきた、ジャンクな『ポテサラ・チーズラーメン』の匂い。あの時心に芽生えた「深夜のポンコツ女たちは、全員同じ会社の人間なのではないか?」という途方もない疑念が、頭から離れずにいた。
しかし、冷静になって見渡せば、やはり無理がある。
バリバリと仕事をこなす李課長や、いつも完璧な笑顔を絶やさない企画部の山下恭子、定時退社をキメていく爽やかな後輩の石井ミチル。彼女たちと、深夜のイートインでジャンクフードに憑りつかれているあのポンコツたちが同一人物だなんて、まるでフィクションのコメディだ。いくらなんでも、俺は少し疲れているのかもしれない。
「ヘイ、イチロー! ワット・アー・ユー・ドゥーイング! 背中が丸まってるわよ!」
不意に背中を強烈に叩かれ、俺は思わず息を呑んで体を硬直させた。
振り返ると、人事部ウェルネス担当のカルメン・ベガが、太陽のようなビッグスマイルで立っていた。健康的なオリーブスキンに、スポーティなオフィスカジュアル。今日も彼女からは、周囲を圧倒するようなポジティブなオーラが放たれている。
「カルメン……痛いって。いきなりどうしたんだよ」
「どうしたじゃないわ! 先月の健康診断の結果が出たのよ! イチロー、あなた……中性脂肪と悪玉コレステロールの値が、去年より悪化してるじゃない!」
「えっ、マジで?」
「マジよ! 昔ラグビーをやってたからって過信しすぎ! 最近、深夜にジャンクフードばっかり食べてない!?」
図星を突かれ、俺は思わず視線を泳がせた。俺自身が食べているのもそうだが、深夜に様々な女性たちに悪魔的な高カロリー食を錬成して付き合っているせいだ。
「さあ、今すぐリフレッシュルームへ行くわよ! イチローには特別な『地獄の健康指導』が必要ね!」
俺はカルメンに腕を掴まれ、抵抗する間もなくリフレッシュルームへと連行された。
そこから地獄の30分間が始まった。
「はい、もっと深く腰を落として! スクワット50回! 太ももの大臀筋をしっかり意識する!」
「っ……きつ、カルメン、俺、今日外回りしてきて……」
「言い訳ノー! 不健康な体に良いアイデアは宿らないわ! 終わったら、私が持参したこの『完全無農薬ケールとセロリのデトックス・スムージー』を飲みなさい! 添加物ゼロ、細胞が歓喜する味よ!」
芝生をすりつぶしたような泥水を前に、俺は絶望的なスクワットを強いられた。
カルメンは俺のフォームを厳しくチェックしながら、「化学調味料は悪よ」「夜22時以降の食事は毒と同じ」と、オーガニックとヘルシーの尊さを力説し続けていた。
(……やっぱり、違うな)
息を切らしながら、俺は確信した。
深夜のコンビニで出会った、あの『ケミカル・ナチョス』に狂喜していたウインドブレーカーの不審者女。あんなに人工着色料と保存料を愛するジャンク中毒者が、このオーガニックの化身であるカルメンなわけがない。
やはり、俺の疑念はただの勘違いだったのだ。俺はホッと胸を撫で下ろしながら、罰ゲームのようなスムージーを鼻をつまんで流し込んだ。
★★★★★★★★★★★
その日の深夜2時。
残業と、昼間のスクワットによる強烈な筋肉痛を引きずりながら、俺はいつものオアシス――深夜のコンビニへとたどり着いた。
分厚い黒縁メガネに無精髭、ヨレヨレのパーカー姿。疲労が限界に達し、俺の胃袋は「塩分」と「炭水化物」を激しく要求していた。
カップ麺のコーナーへ向かうと、そこに見慣れた黒いウインドブレーカーの背中があった。
キャップを深く被り、黒いマスクで顔を隠した不審者スタイルの女性だ。彼女は棚に並んだ商品を、獲物を狙う鷹のような鋭い目つきで物色している。
「……こんばんは、『共犯者』さん」
俺が声をかけると、彼女は肩をびくつかせ、ハッと振り返った。マスク越しの瞳が俺の姿を認めるなり、パァッと安堵に輝く。
「あ……。こんばんは。……あなたも、悪いことしに来たのね?」
彼女は周囲を警戒するように声を潜めながら、流暢な日本語でそう囁いた。
以前出会った時は、身バレを恐れて不自然なカタカナ口調の外国人を演じていた彼女だが、あっさりと俺に設定を見破られて以降、無理して訛りを装うのはやめたらしい。
「ええ。それで、今日は随分とまた……強烈なラインナップですね」
俺が視線を落とすと、彼女のカゴの中には『極彩色・ケミカルチーズ爆盛り豚骨ラーメン』という、パッケージが毒々しい蛍光イエローで彩られた凶悪なカップ麺と、『蛍光ブルーの超魔剤エナジードリンク』が入っていた。オーソドックスな高カロリー食ではなく、成分表がカタカナの化学調味料で埋め尽くされているであろう、純度100パーセントの「人工的な毒」だ。
「今日は特別なの。昼間、ヘルシーとオーガニックの化身みたいな顔をして、すごく疲れる仕事をしたの。だから今夜は……世界で一番、添加物まみれで体に悪くて、最高にケミカルな毒を胃袋にぶち込みたいのよ……」
彼女は恨めしそうにカップ麺を握りしめた。
昼間のストレスを深夜のジャンクで相殺しようとするその痛切な叫びに、俺の『お節介』のスイッチが入った。
「なるほど。ただお湯を入れて食べるだけじゃ、そのストレスは相殺しきれませんね。手っ取り早く、かつ最も罪深いジャンクの極致をお見せしましょう」
俺は彼女のカゴに、さらに『パックご飯』『温泉卵』、そして『チューブのすりおろしニンニク』を追加した。
会計を済ませ、イートインスペースのテーブルにつく。
「まずは、普通にカップ麺にお湯を注ぎます。……そして、麺だけを食べてください」
「えっ? スープは飲んじゃダメなの?」
「スープこそが、今夜のメインディッシュの『土台』になるからです。麺はあくまで前座。存分にすすってください」
彼女は言われた通り、人工的なチーズの匂いが充満するケミカル豚骨の太麺を、ズルズルと勢いよくすすり始めた。マスクを顎までずらし、無我夢中で麺を胃に流し込んでいく。
やがて、彼女のカップの中には、不自然な黄色い脂が層になって浮かぶ、塩分と化学調味料の暴力のようなドロドロのスープだけが残された。
「さて、ここからが本番です」
俺は、客用の電子レンジで熱々に温めておいた『パックご飯』のフィルムを剥がした。
「カップ麺の残り汁にご飯を投入する。それは誰もが一度は夢見ながら、罪悪感から踏みとどまる禁断の行為。別名『ギルティ・ラーメンライス』です」
「オー・マイ・ゴッド……」
俺が熱々の白飯を、ドロドロのケミカル豚骨スープの中に容赦なくドボンと投下すると、彼女は信じられないものを見るような目で息を呑んだ。
「さらに、ここに温泉卵を落とし、ダメ押しでチューブのニンニクを1センチほど絞り出します。これを、スプーンで底からよくかき混ぜます」
熱いスープがご飯のデンプン質を吸い、ただの汁だったものが、濃厚でジャンクな『ケミカル豚骨ニンニクリゾット』へと変貌を遂げていく。立ち上る生のニンニクと人工チーズの強烈な香りが、深夜のイートインに充満した。
「さあ、食べてください。オーガニックへの最高の反逆です」
俺がスプーンを差し出すと、彼女は震える手でそれを受け取り、スープをたっぷり吸い込んだご飯をすくい上げて、口に運んだ。
「……ッ!!」
食べた瞬間、彼女は雷に打たれたように硬直し、両手で口元を覆い隠した。
太麺から溶け出した小麦の甘み、人工的なチーズの強烈な香り、そして旨味調味料の塊のような塩気を、熱々の白飯が一滴残らず吸い込んでいる。そこに温泉卵のまろやかさと、生のニンニクの刺激的な香りが加わり、脳の報酬系を直接殴りつけるような圧倒的な快楽が口内を支配したのだ。
「美味しい……! 信じられないくらい、ギルティで美味しいわ!」
彼女はスプーンを持つ手を止めることができず、ハフハフと熱がりながら、無心でギルティ・ラーメンをかき込み始めた。
「炭水化物を食べた直後に、さらに炭水化物を流し込む。この背徳感こそが、最高のスパイスになるんです」
「最高……! これよ、私が求めていたのはこの毒なのよ!」
恍惚の表情で底のスープまで綺麗に平らげた彼女が、ふうっと深い溜息をつきながら、何気なくこぼした一言。
「はぁ……五臓六腑に合成着色料と化学調味料が染み渡るわ……。昼間、他人に『添加物は悪よ!』とか『太ももの大臀筋を意識して!』なんて偉そうに健康指導しておいて、自分は深夜にこんなケミカルな毒をすすってるなんて、私って本当にバカみたい……」
自嘲気味に呟かれたその言葉が、俺の脳内に雷のように落ちた。
「……えっ?」
「ん? どうしたの?」
俺は硬直した。
添加物は悪。
太ももの大臀筋を意識して。
それは、今日の昼間、俺がリフレッシュルームでスクワット地獄を味わっていた時に、耳にタコができるほど聞かされたフレーズと一言一句違わなかった。
俺は、目の前で満足げに口元を拭っている彼女をまじまじと見つめた。
黒いキャップの奥からわずかに覗く、健康的なオリーブスキン。隠しきれないグラマラスな体型。
(まさか……昼間、俺にスクワットを50回もやらせた……)
「あの……共犯者さん。あなた、もしかして今日の昼間に、誰かにスクワットを50回やらせたりしませんでしたか?」
「ひゃっ!? な、なんで知ってるの!? もしかして、どこかで私の仕事を見てたの!?」
彼女が激しく動揺し、両手で顔を覆う。
間違いない。この大げさなリアクション、そして隠しきれない陽気なオーラ。
俺は、あまりの衝撃に言葉を失った。
昼間は「添加物は毒!」と叫びながら俺にオーガニックスムージーを飲ませてきた人事部のカルメン・ベガが、深夜には俺の作った「ケミカル豚骨ニンニク残り汁ご飯」に狂喜乱舞しているのだ。
(じゃあ、あの李課長とジャージの女が同一人物だっていう昨日の疑念も……事実なのか!?)
深夜のコンビニという、誰の目も気にせずリラックスできる俺だけのオアシス。
そこは、俺の会社の同僚たちが、昼間のプレッシャーから逃れるために「素の自分」をさらけ出す、秘密の溜まり場だったのだ。
俺は愕然としながら、手元の冷めたコーヒーをすすった。
どうやら俺の平穏な深夜の日常は、とっくの昔に崩壊していたらしい。だが、目の前で「また明日も、悪いこと教えてね」と無邪気にウインクしてくるカルメンの顔を見ていると、どうにもこの関係を壊す気になれない、底なしのお人好しな自分がいるのだった。




