第6話 赤字の霧
王都を離れて三日。
石畳はやがて土道に変わり、尖塔は地平線の彼方へ沈んだ。
アシュレイは一人で歩いていた。
護衛も、従者もいない。
監査官だった頃なら考えられない状況だが、不思議と恐怖はなかった。
右目に映るのは、相変わらずの赤。
だが王都ほど濃くはない。
地方へ行くほど、赤は薄くなる。
それはつまり――まだ、手遅れではない場所があるということだ。
「……問題は資金だな」
腰の革袋を確認する。
退職金代わりに渡された金貨は、わずか。
王都での生活水準から見れば、心許ない額だ。
だが贅沢をしなければ、数か月は持つ。
問題は、その先。
街道の分岐で立ち止まる。
北は王国領内の穀倉地帯。
東は交易路。
南西には、小さな港町ヴェルグ。
赤が、南西で少しだけ揺らいでいる。
濃くはない。
だが、不自然だ。
「……あそこか」
足を向ける。
歩きながら、彼は考えていた。
自分は何をするべきか。
王国全体を変えるなど、今は不可能だ。
だが、小さな都市一つなら。
収支を正し、循環を整えれば。
証明できるかもしれない。
聖剣に頼らずとも、持続できる仕組みを。
夕刻、ヴェルグの外壁が見えた。
石造りの小さな港町。
だが門前の活気は薄い。
商隊は少なく、荷車もまばら。
門をくぐった瞬間、右目が微かに疼いた。
赤い霧が、低く漂っている。
王都ほどではない。
だが確実に、滞留している。
港へ向かう。
海は静かだが、停泊船は少ない。
桟橋の一部が崩れ、修繕もされていない。
「……税収不足か」
港湾使用料が高すぎるか、流通が止まっているか。
あるいはその両方。
倉庫前で口論が聞こえた。
「だから払えねぇって言ってんだろ!」
「規則だ! ギルド登録がなければ荷は降ろせん!」
商人らしき男と、受付係が揉めている。
受付の背後に、濃い赤が溜まっている。
二重取り。
直感が走る。
アシュレイは近づいた。
「何が問題です?」
商人が苛立った顔で振り向く。
「関係ねぇだろ、あんた」
「少し聞くだけです」
受付係が鼻で笑う。
「外部の者に話すことではない」
その背後の帳簿に視線を落とす。
赤が、帳簿の一部に集中している。
「港湾使用料と、ギルド手数料が別計上になっていますね」
受付係の表情が固まる。
「何故分かる」
「推測です」
実際には、赤がはっきりと二層に分かれている。
「港湾使用料が通常の一・五倍。さらにギルドが同額を徴収している」
商人が目を見開く。
「そうだ! 合計で三倍だ!」
「そのうち半分は、どこへ?」
受付係が視線を逸らす。
赤が一段濃くなる。
腐敗。
小規模だが、確実だ。
「……規定だ」
「規定なら公開されているはずです」
アシュレイは穏やかに言う。
「このままでは商船は寄りつかない。税収は減り、港はさらに荒れる」
商人が唸る。
「だから皆、東の大港に流れてるんだよ」
なるほど。
競争に負けている。
そして焦って値を上げ、さらに客を失う。
典型的な負の循環。
「町長はどこに?」
受付係が睨む。
「何者だ、お前は」
「元監査官です」
言った瞬間、周囲がざわつく。
受付係の顔色が変わる。
「……王都から?」
「ええ。今はただの旅人ですが」
嘘ではない。
だが、肩書きは効く。
受付係は小声で言う。
「町長は役所にいる」
アシュレイは頷いた。
「案内を」
役所は質素な建物だった。
中に入ると、疲れた顔の中年男が書類を睨んでいる。
「町長か」
「……そうだが」
目の下の隈が濃い。
背後に漂う赤は、腐敗ではない。
焦燥だ。
「港の収支が悪化している」
単刀直入に言う。
「放っておけば一年で破綻する」
町長が目を細める。
「誰だお前は」
「元王国監査官、アシュレイ・ヴァルト」
沈黙。
やがて町長が苦く笑う。
「ずいぶん大物が流れ着いたな」
「提案があります」
机に近づく。
「港湾使用料を半減。ギルド手数料を一本化。成功報酬型討伐制度を導入」
「馬鹿を言うな。今でさえ赤字だ」
「だからです」
右目に、数字が浮かぶ。
使用料を下げれば、船は戻る。
流通が回復すれば、税収は増える。
短期赤字は出る。
だが、半年で黒転する。
「証明します」
静かに言う。
「この町を、黒字に」
町長は長くアシュレイを見つめた。
疑い。
期待。
恐れ。
背後の赤が、わずかに揺れる。
「……条件がある」
「何でしょう」
「失敗したら、お前が責任を取れ」
「構いません」
即答だった。
町長が小さく笑う。
「面白い。やってみろ」
窓の外で、海風が吹く。
赤い霧が、わずかに薄れた気がした。
遠く。
王都の方向に、巨大な赤黒い影が見える。
だが今は、目の前だ。
小さな歪みを、正す。
それが第一歩。
監査官ではなくなった。
だが。
構造を見る目は、まだ生きている。
ヴェルグの港に、夕陽が差した。
赤い光が海面に反射する。
それは血ではなく、希望の色に見えた。
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