第5話 監査官、解任
再審議の朝は、曇天だった。
王都を覆う雲は低く、重く、まるで空そのものが沈黙しているかのようだった。
アシュレイは一睡もできなかった。
机の上には、昨夜書き直した報告書が置かれている。
感情的な表現を削り、推計を補強し、代替案の骨子も添えた。
聖剣の段階的使用制限。
財政再建三年計画。
遠征規模の再設計。
完璧ではない。
だが、何も示さないよりはいい。
謁見の間へ向かう足取りは、昨日よりも重い。
扉が開く。
昨日と同じ顔ぶれ。
だが空気が違う。
視線に、警戒が混じっている。
王が静かに言った。
「監査官。再度、申すことはあるか」
アシュレイは一礼した。
「はい。聖剣の即時停止ではなく、段階的使用制限を提案いたします」
資料を示す。
「財政再建計画と併行し、三年以内に依存度を五割削減――」
「三年だと?」
軍務卿が遮る。
「三年も防衛線を維持できる保証があるのか」
「現行維持では二年で財政が限界です」
「だからと言って、今弱体化させるのか」
聖堂代表が机を叩く。
「神の御力を疑う者に、発言の資格はない!」
ざわめきが広がる。
アシュレイは、勇者を見る。
レオハルトは沈黙している。
やがて、王が問う。
「勇者よ。お主はどう考える」
議場が静まり返る。
レオハルトはゆっくりと前へ出た。
「監査官の懸念は理解できます」
意外な言葉に、ざわめきが起こる。
「財政の問題も、無視できない」
アシュレイの胸に、わずかな希望が灯る。
だが。
「しかし」
勇者の声が低くなる。
「今この瞬間も、北方では魔物が動いている」
聖剣に触れる。
赤が、脈打つ。
「聖剣の使用制限は、防衛線の崩壊を意味する可能性がある」
「段階的な――」
「保証はあるのか?」
アシュレイは言葉を失う。
「お前の計画で、村が一つも滅びないと保証できるか」
「……」
「俺は、保証できない戦略を採れない」
それは、責任の言葉だった。
勇者は王を見据える。
「陛下。私は、聖剣を振るいます」
赤が、議場全体に広がる。
「たとえ代償があろうとも、今を守る」
沈黙。
王は目を閉じ、やがて告げた。
「監査官アシュレイ・ヴァルト」
「はっ」
「お主の忠言は受け取った」
その声音は、穏やかだった。
「だが、国家の方針を乱す発言は看過できぬ」
空気が冷える。
「本日をもって、王国監査官の任を解く」
言葉は、静かだった。
だが重い。
胸の奥が、空白になる。
「なお、国家機密漏洩防止のため、王都外への退去を命ずる」
追放。
直接の罪状ではない。
だが、事実上の排除。
ざわめきが広がる。
聖堂代表は満足げにうなずき、軍務卿は視線を逸らす。
財務卿ドミニクだけが、無言でこちらを見ていた。
勇者と目が合う。
レオハルトの瞳は、揺れている。
「……すまない」
唇が、わずかに動いた。
声にはならない。
アシュレイは一礼する。
「御意」
それだけを言った。
右目が、激しく脈打つ。
議場の天井を突き破るように、赤黒い竜が形を成している。
翼が広がる。
牙が剥かれる。
だが誰も気づかない。
気づいているのは、自分だけだ。
謁見の間を出る。
廊下の窓から、王都が見える。
金色に輝く街。
その上に重なる、赤い霧。
「……これで、自由だ」
口から零れた言葉に、自分で驚く。
怒りよりも、悔しさよりも。
奇妙な解放感があった。
もう、空気を読まなくていい。
もう、遠慮しなくていい。
だが同時に。
守る立場も、失った。
荷物は少ない。
書類数冊と、個人帳簿。
城門を出るとき、衛兵が目を逸らした。
民衆はまだ、昨日の凱旋の話で盛り上がっている。
誰も、追放された監査官に気づかない。
城壁を振り返る。
赤黒い竜が、城の上にとぐろを巻いている。
そして。
その奥。
かすかな影。
少女の輪郭。
静かな微笑。
――観測者。
「……見ているのか」
風が吹く。
幻のように、影は消えた。
アシュレイは歩き出す。
王都を離れる道は、長く、静かだった。
だが彼の右目には、はっきりと視えている。
赤は、王都だけではない。
地方都市にも、港町にも、小さな村にも。
歪みは、至る所にある。
「なら」
足を止めずに、呟く。
「小さな歪みから、正していく」
国を追われた監査官。
だが。
監査する目までは、奪われなかった。
背後で、鐘が鳴る。
王都の時を刻む鐘。
その音に重なるように、赤黒い竜が静かに吼えた。
それはまだ、誰の耳にも届かない。




