第3話 勇者の正義
凱旋式の翌朝、王城は異様な静けさに包まれていた。
祝祭の余韻はまだ街に残っているはずなのに、城内の空気だけが重い。
アシュレイは謁見の間へと向かっていた。
勇者レオハルトから、直接呼び出しを受けたのだ。
巨大な扉が開かれる。
高い天井。赤い絨毯。王座の前に、勇者は立っていた。
鎧は脱いでいる。包帯が腕に巻かれ、顔にも浅い傷がある。
それでも、背筋は真っ直ぐだった。
「来たか、アシュレイ」
声は、思っていたより穏やかだった。
「報告書は読んだ」
「……そうですか」
アシュレイは一礼する。
だが、右目は否応なく反応していた。
勇者の背後。
聖剣レグナリオンが立てかけられている。
その刀身から、細い赤い糸が何本も伸びていた。
それは勇者の背中に絡み、さらに王座へと繋がっている。
勇者個人が悪いのではない。
だが、彼は中心にいる。
「単刀直入に聞く」
レオハルトは言った。
「聖剣が、国を蝕んでいると本気で思っているのか?」
「はい」
即答だった。
勇者の眉が、わずかに動く。
「理由は?」
「契約条項と、財政推移です。討伐地域の再発生率も上昇しています。聖剣を振るうほど、未来の負債が増えている」
「負債、負債と……」
レオハルトは苦笑する。
「お前らしいな」
「数字は嘘をつきません」
「だが、命は数字では測れない」
一歩、近づく。
「昨日、俺は北方で村を救った。魔物に囲まれ、あと数分遅ければ全滅していた」
「……」
「子どもが泣きながら俺の手を掴んだ。『ありがとう』と」
勇者の拳が、ゆっくりと握られる。
「その瞬間、俺は思った。聖剣がどんな代償を要求しようと、振るう価値はあると」
アシュレイは、わずかに視線を落とす。
勇者の背後の赤は、確かに濃い。
だが同時に、彼の周囲には淡い金色の光もある。
信頼。希望。
それらは、赤とは別の色だ。
「私は、その子どもの未来を守りたいのです」
静かに答える。
「三年後、国が破綻し、食料が足りなくなり、兵が払えなくなれば、守った命もまた危険に晒されます」
「三年後に国がある保証はあるのか?」
「……」
「魔王が本気を出せば、明日にも終わるかもしれない」
レオハルトの声に、怒りはない。
焦りがある。
「俺は前線にいる。魔物の数は増えている。強さも増している。聖剣を使わなければ、抑えられない」
その言葉に、アシュレイの右目が強く反応した。
魔物の増加。
聖剣の使用回数増加。
赤の膨張。
「……その増加が、聖剣に起因している可能性は」
「証拠はあるのか?」
遮られる。
「確証はありません。ですが、相関は明確です」
「相関で希望を折れと言うのか?」
沈黙。
謁見の間の空気が、張り詰める。
レオハルトは深く息を吐いた。
「俺はお前を信頼している」
予想外の言葉だった。
「戦場に出ないお前が、なぜここまで食い下がるのか分からなかった。だが昨日、報告書を読んで思った」
彼はまっすぐアシュレイを見る。
「お前は、この国を守ろうとしている」
「当然です」
「だがな」
勇者の声が低くなる。
「守り方が違う」
一歩、距離が縮まる。
「俺は、目の前の命を守る」
「私は、国全体を守る」
「どちらかが間違っているわけではない」
「ですが、両立しなければ意味がない」
レオハルトは聖剣に触れた。
瞬間、赤が大きく脈打つ。
アシュレイは息を飲む。
「この剣がなければ、俺は戦えない」
「……」
「そして今、これを捨てる選択はできない」
その言葉は、決意だった。
では。
自分の役割は何か。
沈黙ののち、アシュレイは言った。
「では、契約の再交渉を」
「不可能だ。契約は絶対だ」
「絶対などありません」
「ある」
勇者の瞳が鋭くなる。
「戦場には、絶対がある。振るうか、死ぬかだ」
その瞬間、アシュレイの口から、余計な言葉が零れた。
「……無駄死にです」
空気が凍った。
自分でも、言ってしまったと分かる。
「何だと?」
「戦略なき消耗は、無駄死にです。負債を積み上げるだけの勝利は、敗北と同義です」
止まらない。
「聖剣に依存し続ければ、いずれ国そのものが崩壊します。あなたは――」
視線がぶつかる。
「あなたは、英雄として歴史に残るでしょう。ですが、その後の瓦礫の中に立つのは、民です」
沈黙。
重い。
レオハルトは、しばらく何も言わなかった。
やがて、静かに言う。
「……お前は、戦場を知らない」
「知っています。数字という形で」
「違う」
低い声。
「血の匂いを知らない」
アシュレイは言い返せなかった。
彼の目には、赤は視える。
だが、痛みは視えない。
「明日、国王陛下への報告がある」
レオハルトは背を向けた。
「そこで、この話をするつもりか」
「はい」
「……そうか」
短い沈黙の後、勇者は言った。
「覚悟を決めろ」
その声音は、冷たくはなかった。
だが、決定的だった。
謁見の間を出る。
扉が閉まる直前、アシュレイは最後に振り返った。
聖剣の周囲の赤が、以前より濃くなっている。
まるで。
会話そのものが、何かを刺激したかのように。
廊下に出た瞬間、右目が焼けるように熱を帯びた。
視界の奥。
王城の上空の赤黒い塊が、ゆっくりと形を変える。
角のような突起。
翼の影。
竜。
「……」
幻覚かもしれない。
だが、確信が芽生える。
何かが、育っている。
そして明日。
自分の言葉が、その成長を加速させるかもしれない。
それでも。
「止めなければ」
アシュレイは歩き出した。
正しさが、正しい結果を生むとは限らない。
だが、沈黙は確実に破滅を呼ぶ。
彼はまだ知らない。
明日の報告が。
自分の立場を、根こそぎ奪うことを。
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