06 新城 悠木 の 場合
トイレの個室で胸に腕を押し当て抑えていたさらしを手に巻き取って、パーカーと汗で肌に張り付いたTシャツを脱ぐと、あまり肩幅がなく女性化乳房で胸に膨らみのある上半身が目に入る。
汗で張り付いたTシャツによって多少乳房が支えられていたのか、半裸になった瞬間から詰まった脂肪全ての重みが胸部の筋肉や皮膚から伝わってきた。
胸の支えがなくなったときのこの感じ、いつまで経っても慣れない。
一旦肌から離した汗で所々濡れたさらしはすでに人肌の温もりを失っており、肌に当てるとヒヤッとするさらしをオレは入念に乳房を潰し、きつく巻き直しTシャツを着直した。
シャツの上から胸をさすって膨らみがないことを確認すると、オレはパーカーを羽織りトレーニングルームのフリーウエイトエリアに戻って、シャフト両端に一〇㎏プレートを一対入れ四〇㎏にセットされたベンチラックの傍で立ち、汗を拭いている神座先輩に恐る恐る近づいた。
「おれはもう悠木がトイレ行ってる間にベンチ終えて四〇㎏にしといたけど、やる?」
いつものように穏やかな口調の神座先輩に別段変わった様子はなく、
「は、はいぃ……」
とオレの方が訝しげに返事をすると、セーフティーバーにかけられていた自分のタオルをベンチに敷いて、その上でスタートポジションを取りシャフトをラックから外した。
なんとか一〇レップを上げ切り、オレもこのセットでベンチプレスを終わりにすると、ベンチラックの周りに二〇㎏と一五㎏の重たいプレートがなく神座先輩がすでに片付けてくれていたことに気がつき「残りの軽いプレートはオレが片づけます」と率先して使用したプレートの片付けをした。
ベンチプレスを切り上げて、つぎにオレは胸以外全身の部位を一通りマシンで三セットづつこなすとマットの敷かれたエリアにシューズを脱いで上がり、リュックを傍らに置いて身体を伸ばすべくストレッチを始めた。
神座先輩はオレがマシンをしている間もフリーウエイトエリアにとどまりインクラインベンチプレスで胸の上部と、ダンベルで腕と肩のトレーニングを終え、タイミングを同じくして神座先輩もストレッチをしにマットへ上がってきた。
オレと神座先輩、いつもだいたい決まった時間でマットへ上がりお互いの近くに腰を下ろして雑談をしながらストレッチを始めるのだけど、今回の雑談で神座先輩が口を開くたびに胸のことを言われるか瞳孔が開きっぱなしだったが、話題やオレを見る目に変わりはなく、先にストレッチを終わらせて着替えのために一階の更衣室へ下りて行った。
後に来た神座先輩が先にストレッチを終えてトレーニングルームを退出したのは、オレが入念にストレッチをするという理由もあるが、いつも更衣室を利用せず着替えずに帰宅するオレを待たせないためなのかもしれない。
頃合いを見てオレもストレッチを終え、傍らに置いたリュックからウインドブレーカーとナイロン製巾着袋を取り出し、タオルで巻いたスクイズボトルと入れかえるとマットの手前に脱いだシューズを履いてトレーニングルームを後にした。
一階階段の横に下駄箱がありトレーニングルームに入る際は靴下のままで階段を上がって来たが、運動後疲れた状態のまま靴下で階段を下るのは滑って怪我をしそうで、更衣室を利用しないオレはすぐ外靴と履き替える手間はあるが万が一のためにシューズを履いて一階へ下りることにしている。
下駄箱の手前でシューズを脱ぎ、巾着袋に詰めて口を閉じていると更衣室の方からこちらに胸の位置まで手を上げながら進む神座先輩の姿が見えた。
神座先輩は、ある程度近づいたところで「お待たせ」と言って腕を下げた。
「いや、オレも丁度下りてきたところで」
そう返事をしながらシューズの入った巾着袋をリュックに入れ、オレが背負い終わるのを待ってから下駄箱へ移動し、靴へ履き替えるとスポーツセンターの自動ドアをくぐり外へ出た。
運動して火照った顔が風に撫でられ気持ち良い、だがあと数分もすれば火照った身体も春の夜風で冷やされることだろう。
オレは羽織っただけのウインドブレーカーのチャックを首元まで閉めた。
横を見ると神座先輩も防風パーカーの前を閉じて、革手袋に指を通している。
「今から帰って作るから大したものは作れないけど、べつに良いだろ?」
オレの視線に気づいた神座先輩は手袋をはめた片方の手を、馴染ませるように指先でなにかを鷲掴みにするような仕草をしながら、そう言った。
その神座先輩の手つきに、オレは思わず両手を胸に当てて隠すようにしてしまった。
あー、なに変な反応してるんだオレは……神座先輩が手袋はめるとき、いつもやってる動きじゃないか……しかし、ご飯を作ってくれるという件はまだ生きてるようで良かった。やっぱり今のところいつも通りの神座先輩だけど、食事中にあのとき胸が、と神座先輩が言った真意を当たり障りなく聞き出して確認しなくては。
オレは一定の速度で駐輪場へ歩く神座先輩の横につきながら、あれこれ考えているとまだ手を両胸に当てていることに気づき、急いで両手を下ろしたところで「あっ」と一言発した神座先輩がこちらを向いて、
「おれの家、ここから一〇分くらいのところだから」
そう言葉を続けると再び前を向き、歩みを進めた。
「あー、そうっすか……」
胸に手を当てていたところを見られてないと祈るばかりだ……。
区総合運動公園から神座先輩の先導する自転車に続いて走ると、先ほど言われた通り一〇分ほど離れたマンションに到着した。
そこはかなり階数のあるマンションで敷地内には自走式立体駐車場が備わっており、神座先輩が乗っているオープンカーも屋根のあるこの駐車場に置いているんなら安心だろうなと頭をよぎった。
神座先輩は折り畳み自転車を素早く二つ折りにしてサドルを持ってタイヤを転がしながらマンションの玄関前に移動し、リュックから取り出した財布を壁のセンサーに近づけると外から中身が見えない木目調の自動ドアが左右に開いた。
セキュリティー充分のマンションに二つ折りの自転車を転がす神座先輩に招かれるままエレベーターに乗り案内された五階の一部屋、リビングダイニング側から全体が見渡せる対面キッチンの前に置かれた丸いガラステーブルにオレはつき、リュックと洗濯物を置きにリビングから出た家主が戻るのを今か今かと待っているところだ。
椅子にかけた状態でテーブルに手を乗せ、この広いリビングダイニングを見まわしてみると、ここには二人かけのソファーとソファーテーブルに布製の折りたためる低い椅子、それとこのガラステーブルと二脚の椅子だけ。
PCやデスクに本棚などは神座先輩がリュックを置きに行った自室に揃っているんだろう。
置かれた家具が少なくテレビすらない余白が際立った部屋は、とても広く感じられ、露出したフローリングはよく掃除が行き届いていて脚の長いソファーとソファーテーブルの下にも埃は溜まっていないように見えた。
なんて清潔で居心地の良い空間だろうか、うちの掃除も片付けもできない親に見せてやりながら二つ三つ皮肉を言ってやりたい気分だ。神座先輩のご両親は綺麗好きでしっかりした人なんだろうな。
「あれ、ソファーで楽にしてれば良かったのに」
背後のリビングダイニングと廊下を仕切るドアが静かに開き、戻ってきた神座先輩がダイニングチェアに座るオレを見ると、そう言った。
「ここで充分くつろいでます」
との答えに神座先輩は「そうか」と笑顔で短く返事をしながらオレの横を通り抜けキッチンへと入ると冷蔵庫を開けて、
「ポークステーキで良いだろ」
と取り出した厚めの豚肉が二枚入ったラップで密閉されたパックをこちらに見せながら言った。
ラップの右下に貼られたシールには広告の品豚ロース肉と大きく書かれている。
「神座先輩の作ってくれるものならなんでもいいっす」
こんな時間だから簡単なものをと言っていたけど、運動の後に厚い肉を食べれるのは嬉しい。ポークステーキとご飯、とても美味しそうだ。
「なんでもか、好き嫌いはなさそうだから簡単に作るよ」
神座先輩は軽く笑ってそう言うと、再び冷蔵庫前まで移動し野菜室を開けて幾つもなにやら取り出し、キッチンのワークトップに置き始めた。
しめじ、舞茸、人参、じゃが芋、玉葱にブロッコリーと冷蔵庫からキッチンに出したけど、もしかしてポークステーキ野菜炒めを作るとか言い出すんじゃないだろうか……。
「神座先輩、なにを作ってくれるんですか?」
オレはこみ上げてくる不安から、レバー式ワンホールタイプの蛇口を開けシンクで野菜を洗い始めた神座先輩に、そう尋ねた。
神座先輩はシンクに落とした視線をこちらに向け、レバーハンドルを下げて蛇口を閉めると、
「本日のメニューは、ミネストローネと茹でたブロッコリーにポークステーキ舞茸炒めを添えて、にしようと思っているけど、出した食材に嫌いなものあったか?」
濡れた手で出した食材を円を描くように次々指さしながらそう答えた。
え……ポークステーキとご飯だけじゃない?
「いえいえ、なにを作るのか気になっただけで嫌いなものなんてないっす」
オレは今まで不安に思っていたことを誤魔化そうと大袈裟に顔の前で手を振りながら言った。
オレがする料理といったらスパゲッティを茹でてパスタソースをかけるだけや、袋ラーメンと一緒に卵を茹でただけといった一つの皿、どんぶりに盛った料理とは呼べないものだけ。
実家にいたときも母親が作る料理は大皿に一品だけで、そのおかず一品でご飯を食べるだけという食卓しか知らないからポークステーキ野菜炒めが大皿で出てくるなんて発想になってしまい、料理ができるって人には失礼な懸念だった。
自分と母親が作る料理と今作られようとする料理との比較について考察していると、神座先輩は洗った野菜の皮をすでに剥き終わっていて、まな板の上で人参を薄くいちょう切りに、玉葱とじゃが芋は約一五㎜の角切りにしているところだった。
すごいな……切るの早いし、切られた野菜の薄さと形がほぼ均等に揃ってる。
迷いなく素早く正確に野菜を切る神座先輩の姿は、料理をやり慣れていると確信するに足るものだった。
「あの、なんか手伝うことありますか?」
オレはテーブルに手を置き少し腰を浮かせるようにして、キッチンを挟んで立つ神座先輩に言った。
神座先輩はオレの言葉に動きを止め、少し眉間に皺を寄せて上を向くと少し唸って、
「手伝うことは……野菜も切れたし、もうとくにないな」
オレに向き直ってからそう答えた。
そういえば、料理をしている人とこうして顔を合わせて会話をするのは初めてかもしれない。実家は対面カウンターキッチンではないし、料理をしている母親に話しかけても背中から返事をされるだけだったから。
神座先輩は腰を屈めキッチン台の収納から片手鍋を取り出しシンクの蛇口から水を出して内側を軽く濯いだあとワークトップに置き、まな板上の小さく切った野菜を包丁と左手を使って鍋に掬い入れ、石づきを落としほぐしたしめじも入れると少し水を足してから、コンロの方に移動しキッチンカウンターとリビングダイニング側とを唯一仕切られたガラス越しに見える三口ある五徳の内、壁側の五徳へ鍋を置いてコンロの火を点けた。
まな板の前まで戻った神座先輩は、ブロッコリーのつぼみが茎から枝分かれした根元から包丁で全て切り落とすと、茎の硬い表面部分を厚く剥き、幹竹割りで四等分にした。
「え、ブロッコリーって茎の部分食べれるんですか?」
テーブルから観察していたオレはブロッコリーの茎へ当たり前のように包丁を入れる神座先輩に驚きの声を上げた。
「茎もこうやって硬い表面を剥けば食べれるし、なにより茎部分の方が栄養豊富なんだ」
神座先輩はそう説明しながら振り返り、キッチン奥の壁面に設置された食器棚のガラス戸を開けて大皿を取り出して切り分けた全てのブロッコリーを皿に盛ると、シンク蛇口の下にかざし、一瞬だけレバーを開けて盛ったブロッコリーの上から少量の水を皿に注いだ。
神座先輩はいったい何をしているんだろう…?
オレが不思議に思っていると、神座先輩は少量の水を注いだ皿をシンク横のワークトップへ置き、キッチン奥壁側を半身で振り向いてバックカウンターにあるラップを取り、
「ブロッコリーはビタミンⅭが豊富な野菜なんだけど、茹でずにこうやってラップをふわっとかけてレンジで蒸すと水溶性のビタミンⅭもしっかり摂取できるってわけ」
そう言いながらオレが座った位置から見えるように実演すると、ラップをかけられた皿を持ち上げバックカウンターに置かれたレンジへ入れて操作を始めた。
「レンジで蒸し野菜、それなら楽でいいっすね……そういえばトレーニングしてる人って、よくブロッコリーを食べてるイメージなんですが、あれなんでなんっすかね?」
オレはふと疑問に思ったことを独り言ちたが、
「あー、それはね……」
神座先輩ならそれにちゃんと答えてくれるとの確信は当たったようだ。
神座先輩はしゃがんだ状態でバックカウンターの下部収納から取り出したカットトマト缶を片手に立ち上がると、こちらを振り向き、
「ブロッコリーはその含まれる栄養素から野菜の王様って呼ばれていてね、食物繊維やビタミン類、葉酸、鉄分とカリウム、マグネシウムだったり野菜の中ではタンパク質も豊富だ」
キッチンワークトップに置いたトマト缶のプルトップを開けながらも、時折オレの方に目を向けてさらに話を続ける。
「あとはジインドリルメタンとインドール-3-カルビノールって成分だろうな、抗炎症作用や抗癌作用とか言われてるけど、女性ホルモンのエストロゲンを抑えて男性ホルモンのテストステロンを増強する働きを重視して食べてるんだと思うよ」
神座先輩はそう話をしながらも動きを止めることなく、蓋を開けたトマト缶を片手にコンロ前まで移動し、火にかけている鍋に缶詰を傾けて静かに中身を空け、レードルで数回鍋をかき回すと、レードルで掬った鍋の中身を缶詰に注ぎ、回すようにして中身を濯いで鍋に戻した。
なんとなく口にした疑問だったけど、なんでそんなに詳しいの…? って回答がくるとは思いもしなかった。
「へー、栄養素がトレーニング後の身体に良いんっすね。でもブロッコリーをそんなに語れる人、初めて見たっす」
神座先輩がオレの言葉に短く笑ったところでレンジの電子音が鳴った。
しかし良いことを聞いた、ブロッコリーにテストステロンを増やす効果があるなんて、レンジを使えば皿一つで調理できるし、まさにオレが食べるべき野菜じゃないか。神座先輩や守野先輩との何気ない会話には、いつも好奇心が満たされるし、有益な情報にはいつも助けられている。
「よし、肉の調理だ」
バックカウンターのレンジからミトンをはめた手で皿を取り出してレンジ横に置くと振り返り、最初に冷蔵庫から出した豚ロースが密閉されたパックのラップを破って二枚の肉をまな板に並べた。
おお、肉っ! 肉の料理方法はちゃんと見ておきたい。
オレは椅子から腰を上げて、神座先輩とはキッチン台を挟んで対面となる場所に立ち、観察を始めた。
神座先輩はまな板の豚肉、脂身と赤身との境に包丁の切っ先を使って数か所の切り込みを入れているが、なんのためなんだろう……味の染み込みをよくするためとか……?
「これは筋を切ってるんだ、こうしておかないと焼いたときに筋が収縮して肉が丸まっちゃうからね」
「へー、そうなんっすね」
切れ込みの意味と、疑問に思っただけで口に出さないことにも答えてくれる神座先輩に素直に感心した。
少々切りにくそうに一枚目生肉の筋切りが終わったところで、先ほどカットトマトを入れた鍋から沸々とする音が聞こえてきた。
神座先輩は一度鍋の方に目をやり、まな板に視線を戻すと、
「悠木、悪いんだが、そこに置いてある固形コンソメを鍋に入れて溶かしてくれないか?」
指先が肉の脂で光る左手でコンロ近くにある四角く包まれた小さな銀紙を指して、そう言った。
あれは自分で買ったことも使ったこともないが、どこの家庭にもあって一〇人に一人くらいはキャラメルと間違えて口に入れたことがありそうな調味料だ。
「了解っす」
神座先輩一人に料理をさせていて手持ち無沙汰と申し訳ない思いをずっとしていたところだ、なにか頼んでくれたほうが嬉しい。
オレはキッチン台を回り込んでキッチン内に入り、神座先輩の後ろを抜けてコンロ前に立つと、一旦火を弱めてからコンソメを手に取って銀紙を開封した。
「これ、このまま入れちゃっていいんっすか?」
手の平上で開いた銀紙に載せたままの固形コンソメを神座先輩に見せるようにして、オレは聞いた。
「砕いて入れる人もいるけどそのまま入れても大丈夫、混ぜてれば溶けるしね」
もう一枚の筋切りを終えシンクで手を泡立たせながら、こちらを向いて発した神座先輩の言葉に、オレは「はいっす」と答えた。
オレは固形コンソメを摘まんで赤い鍋の中へ静かに落としてコンロの火力を中火くらいに戻した。
もし実家で母親の料理を手伝ったとして、こんな何気ない一つの疑問を呈しただけで嫌味を何分間言われることか……。
そんなことも聞かなきゃわからないの? 本当になにをやらせても駄目なのね。
容易に嫌味ったらしく呆れた表情を浮かべた母親の音声付き映像が頭に思い浮かんだ。
オレは鍋に沈み立てかけられたレードルを手に取って、ゆっくりとスープを回転させると、人参とじゃが芋のまだ堅い感触がレードルから伝わってくると同時に、溶けたコンソメの良い匂いを含んだ湯気に顔が包まれた。
でも神座先輩はそんなことはしない。それが普通なんだろうけど、神座先輩のは普通よりも温和な……そうか、例えるならコンソメの柔らかい香りのような人だな。それに比べてオレの両親は……。
あの二人の遺伝子を後世に残したくない、オレで絶やさなくては。
親に対してはそんな感情すら湧いてしまうくらいだ……まあ、オレにはもう子供を作ることはできないんだけど。でも神座先輩と結婚して、その間にできた子供だったら見てみたい気がするな。
レードルをゆっくり一定の速度で回している鍋の中で、トマトが溶け込み重くなった水分をかき分け上がってきた気泡が表面で破裂する数が増えてきたところでコンロの火力を弱火に下げた。
コンソメを入れてスープを混ぜているだけなのに料理をしている気分に浸れて、なんだか楽しい。加熱調理中の湯気にはテーブルに並ぶ出来上がった料理にはない、食欲を刺激される匂いが含まれて……ん? 湯気に当たりながら半ば無意識に鍋を回しコンソメを溶かしていたけど、さっきのオレってナチュラルになにを想像していた……?
神座先輩と結婚して、その間に子供ができたら……って、なに想像してんだオレはーーー!!!!
オ、オレも神座先輩も男じゃん、一〇〇歩ゆずって結婚はできるかもしれないけど子供は無理じゃんか……そ、それも可能だとして、じゃあ妊娠役はどっちなんだって話になってくるし……。
火にかけている鍋の横、空いた五徳にフライパンが置かれた乾いた音で、いつの間にか隣に神座先輩が立っていることに気がついた。
「ちょっと隣ごめんな」
神座先輩はそう言ってコンロに点火しフライパンに油を敷いて、数歩でシンク横に置いた豚肉の載ったまな板とトングを取り再びコンロ前に立つと、トングを持つ右手の甲でフライパンの温度を確かめている。
まな板の豚肉には粗挽きの塩と黒胡椒になにやらハーブが混ざったものが振られていてワークトップにはレモンペッパーと書かれたミル付きのスパイス容器が置かれていた。
神座先輩はフライパンにかざした右手を左手に持つまな板に移動させると、掴んで閉じていたトングを開いて豚肉を摘まみ上げ、加熱されたフライパンの上へと布を敷くようにして二枚の豚肉を並べ置いた。
肉がフライパンに触れたところから生肉の水分が蒸発し敷いた油が弾ける音が響き、食欲をそそる匂いが立ち昇った。
すごく良い匂いだけど、神座先輩がすごく近い……。
三ツ口コンロの内、壁側の五徳に置かれた鍋についているオレは、肉を焼くため隣に立った神座先輩に追いやられ、右肩は壁に付いて逃げ場を失ったような状態だ。
火加減の調節や肉の状態を見るために動かす神座先輩の右腕が何度もオレの左腕に触れ、さっき妙なことを想像してしまったせいか、この距離を変に意識してしまうと同時にさらしで潰してはいるが、万が一にも膨らんだ乳房に腕が触れられないよう自然と左腕が胸の前に動いた。
何を変なことを考えてるんだオレは、コンロを二人で使ってるんだから、これはしょうがないじゃないか……。
オレは壁に付いた右肩に体重を乗せて隣を盗み見ると、そこにはオレより頭一つ以上背が高く、オレよりも三周りは肩幅が広い、ウエイトトレーニング後で普段よりも筋肉が張って大きく見える神座先輩がいた。
神座先輩、でかいな……身長差、体格差、筋力差、こんなのどう考えても押し倒されて子を授かる役は絶対にオレじゃんか……って、だからなんで神座先輩と結婚して子供作る前提で妄想してるんだオレはー!! なにか話題を探して会話をすれば変な想像をしなくて済むはずだ。
「そ、そういえば、今日は神座先輩のご両親は帰って来ないんっすか?」
不本意な妄想に支配された頭のせいで隣を直視できないまま、オレはそう尋ねた。
「あれ、言ってなかったっけ? ここにはおれ一人で住んでるんだけど」
神座先輩はそう答えながらトングでフライパンの豚肉をつまんで上下を返すと、再びキッチンに肉の焼ける音が響いた。
え、こんな広いマンションの一室に一人暮らしって、じゃあリビングやキッチンがこんなに綺麗で整頓されてるのも神座先輩が管理してるってこと? 大学では真面目だしジムにも行って前々からきちんとした人だとは思っていたけど、料理までできて、掃除と整理整頓の行き届いた部屋に住んでるなんて。
オレは右肩を壁に付けてもたれた斜めの上体で、隣に立つ神座先輩を横目で見上げた。
この人と一緒に暮らしたら毎日が気持ち良いんだろうな……。
ん? ……って、だからまたオレはーーー!!
横目でチラチラと隣に目線を送っていると、神座先輩が少し背中を丸めてオレの身長と合わせてきた。
え、神座先輩…顔、近くない……?
「…悠木……」
「へ、ひゃい!?」
いきなり顔の高さを合わせてくるなんて、これって……。
後ずさりしようにも壁があるし、横に逃げようとしても腕を壁に伸ばされて逃げ道が塞がれてしまうだけだ。
こんなことをしに来たんじゃないのに、あれ? 夕飯を食べに来た以外になにか大事な用があった気が……。
家族で住んでいると思い込んでいたが、一人で住んでいるというこの広いマンションの一室に他の人間が入ってくることは期待できないだろう。
抵抗したとしてもオレが神座先輩に力で敵うはずがないし……でも、神座先輩にだったら……僕は……。
オレは体重を預けるためにもたれた右肩を壁から離し、ゆっくりと神座先輩の方へ重心を傾け始めた。
ジムでも大学でも、いつも気にかけてくれる神座先輩、それくらい良いじゃないか。
「もう火止めていいぞ」
「ほぇ?」
少し屈んで鍋の中を覗き込む神座先輩の横顔がだんだんと近づいて来る。
預けるつもりで重心を傾けたオレの身体は、一歩足を踏み出さなくてはもう倒れてしまいそうなほどだ。でもここで足を踏み出したら神座先輩に激突してしまうし、踏み出さなくてもそのまま倒れて衝突は避けられないだろう。
これ、もう止まらな……。
「最後の味付けは、おれがやっ……おっと!」
結局、鍋を見る神座先輩の横顔に唇から衝突し、それでも身体の傾きが止まらなかったオレは、ここでようやく両腕を伸ばして神座先輩の身体にしがみ付き、顔を胸に埋める形で転倒をまぬがれた。
神座先輩の硬く弾力のある大胸筋に顔を沈め、しがみ付き背中に回した手の平からは発達した僧帽筋のなだらかな段差が伝わってくる。
すごい、筋肉ってこんなにもつくものなんだ……。
ワンテンポ遅れて太い腕が背中に回されるのを感じると、オレの身体は力強く引き寄せられ、神座先輩と二人抱き合う形で上半身がぴったりと密着した。
オレにはない力強さでオレとは違う逞しい神座先輩の身体に挟まれ、さらしで締め付けた乳房がさらに潰されていると同時に、圧迫され拘束され胸骨と肋骨が数㎝沈みこんでいることが分かる。
もし神座先輩がこのまま本気で締め付けたなら、たぶんオレは呼吸ができずに死んでしまうんだろう。
でも、これよりさらに密着できるならそれでも良いと思えるほど、僕は神座先輩の温もりと感触に安らぎを感じていた。
「悠木、大丈夫か……?」
脱力し肺の空気も吐ききって身体を預けたまま悦に浸っていると、頭上からする心配そうな声に我に返り、
「え、あ……ぼ、オレは大丈夫です!」
と預けていた身体を離し、自立すると「すいません」と言葉を続けた。
神座先輩はオレの様子を見て、
「おれも、たまにあるよ」
と微笑みながら言った。
「え……?」
それってどういう……。
「トレーニング後、脚にきてて突然ふらついちゃうことってさ。もうすぐできるから椅子に座って待ってればいいよ」
神座先輩は笑みを保ちながらそう言うと、コンロの火を消してフライパンに蓋を被せた。
「あー……そ、それですそれ!」
オレは神座先輩を見れず横目で言ってコンロの火を消すと、火を止めた途端、気化温度未満に冷やされた水蒸気が可視化され鍋から大量の湯気が舞い上がった。
「いやー、今日脚をやりすぎちゃったんっすかねー! ではお言葉に甘えて、そうさせてもらいまっす」
誤魔化すように空笑いを交えながら言うと。
この鍋の湯気みたいに一瞬で姿を消すことができれば……。
そんな非現実的なことを考えながらキッチン奥の壁際から抜け出し、唇に軽く手を当てながら逃げるようにリビングダイニング側のテーブルへと引き上げていった。




