07 新城 悠木 の 場合
神座先輩と並んで立っていたコンロ前からキッチン台を回り込み、先ほど座っていたダイニングチェアに腰を下ろしているにも関わらず、胸の中で激しく鼓動する心臓の音が耳にまで響き、こめかみからは手を当てることなく脈動までが感じられる。
この止まない異常な心拍音をBGMにしてフラットなキッチン台の向こうで作業をする神座先輩の手元を目で追い、ときおり目線を上げて胸や顔が目に入ってしまう度にオレの心臓はさらに大きく跳ねた。
僕、さっき……神座先輩と……。
唇にはさきほど神座先輩の頬に当たったときの、身体にはさきほど神座先輩と密着しギュッとされたときの感触と温もりが今も残り、あのとき感じた安らぎまでも鮮明に思い出すことができる。
オレは肘を曲げて右手人差し指を唇に触れない数mm離れた位置に留めると、
「もう少し横だったら唇、だったんだよな…」
口から自然と言葉がこぼれ落ちたと同時に、電子音によって単音で奏でられたメロディーがキッチンから鳴り響いた。
「ん、なにか言ったか?」
先ほど焼いていた豚肉を取り出したフライパンで舞茸を炒める音を響かせながら、神座先輩が落とした目線をオレに向けて言った。
「え⁉ いえ、良い匂いだよなーって言ったんですよ」
オレは慌てて頭を働かせて思いついた言葉を神座先輩に言うと、語尾に乾いた笑いを付け足して誤魔化した。
「ああ、ご飯の炊けた匂いと、醤油とバターを炒めた匂いって良いよな」
神座先輩はオレの言葉に笑顔でそう答えると、再びフライパンへ視線を戻した。
ああ、お米が炊けたという合図か、神座先輩は一度も炊飯器に手を触れてなかったところを見るとトレーニングジムへ向かう前にお米を研いで炊飯器のタイマーをセットしておいたんだな、だから……えっと、つまり……。
オレはしばらくぎこちない笑顔のまま、努めて別のことを考えて気を落ち着かせようとするも先ほどの情景が思い出されてしまい思考が続かない。
ダメだ、今のオレはおかしい…確かに自分から同性にキスするのは初めてだし、あんなにしっかり抱きしめられたのも初めてだ。だけどあれはキスじゃなくて唇が頬に当たっただけだし、転びそうになったのを抱き支えてくれただけの事故だったんだ。
オレは目を閉じてできるだけ無心になり、二度大きく深呼吸をするとバイタルが安定してきた。
落ち着こうと思えば簡単に落ち着ける、ただ思いもよらない突拍子もないことが起きて驚いていただけで、もう神座先輩を見ても大丈夫だろう。
オレはゆっくりと目を開けてキッチン台向こうに顔を向けると、神座先輩はこちらに背を向けバックカウンターのガラス扉を開けて食器を取り出しているところだった。
検証の為に右手を胸に当てながら神座先輩を見てみたが、鼓動は高まることなく安定したままに刻まれている。
やはり勘違いだったんだろう、オレが神座先輩に特別な感情を抱くわけがないじゃないか。
神座先輩の動きを目で追いながら安堵していると、ガラス扉を閉め食器を抱えて振り返った神座先輩と目が合い、軽く微笑まれた。
その瞬間、ほぼ全てが筋肉で構成されている心臓が極限まで収縮され、その反動を使って大きく跳ね上がり、深呼吸によって安定させた心拍が再び荒ぶりはじめた。
いてて、目が合っただけで穴が開くかと思ったくらいに心臓が凹んだ……今のオレは神座先輩と顔を合わせるだけでも命の危険があるかもしれない。
しかし神座先輩は出した食器をキッチン台のワークトップに並べていて、このまま椅子に座って料理が運ばれてくるのを黙って待っているだけなんてオレにはできない。
「神座先輩、手伝うっす」
オレはキッチン台を挟んだ向こうにそう言って立ち上がると、
「じゃあ、自分のご飯を好きなだけよそってくれるか? おれのは普通盛でいいから」
すぐさま返答がきたので「了解っす」とキッチンへ回り込みワークトップに重ねて置かれた飯茶碗を手に取ってバックカウンターの炊飯器前へと移動すると、ストッパーボタンを軽く押したまま手を添えて跳ね上がる蓋をゆっくりと開けた。
「え…神座先輩、今日オレが来るって予定してたんっすか? ご飯が大量に炊かれてるんですけど」
炊飯器の中には湯気を放つ真っ白いご飯が釜の限界容量まで平らに炊きあがっていた。
「ご飯はいつも最大量で炊いて残りは小分けにして冷凍するようにしてるだけで、最初から悠木を呼ぼうとは考えてなかったよ……あ、茶碗はどっち使ってもいいから」
神座先輩は、まな板で約二㎝幅に切り分けたポークステーキを包丁の腹に載せて皿に盛りつけながら時折こちらを振り向いてそう言った。
ご飯を冷凍保存か、空腹なのにご飯が炊き上がるのを待つ時間の辛さ……冷凍したご飯があればレトルトカレーを湯煎で温めている間にレンジで解凍できそうだ。よし、我が家で採用させてもらおう。
オレは自分の思考に自らで頷きながら炊飯器横で柄を下に自立するしゃもじを手に取り、炊き上がったままの平らなご飯に数回しゃもじを挿し入れて釜の底から混ぜるように全体をほぐしてから二つの茶碗にご飯をよそった。
炊飯器の蓋を閉めて、両手にご飯を盛った茶碗を持ち振り返るとワークトップにはすでに料理が盛られ湯気を放つ皿とお椀が置かれており、神座先輩は冷蔵庫からラップのされた小さな深皿を二つ取り出している。
オレはそのままキッチンからダイニング側に回り込んでガラステーブルに茶碗を置くと、そこから仕切りのないキッチン台へ手を伸ばしてワークトップに置かれた皿とお椀をテーブルに並べた。
ラップが取られ冷えた二つの深皿にも手を伸ばしてテーブルへ移動させると、甘酸っぱい匂いの拍子木切にされたキュウリと約五mmの厚さで半月切りにされた玉葱が盛られていて、ピクルスだとオレは確信した。
「おっ、サンキュー」
左手にお箸二膳と箸置きを二つ持ち、空いた右手で冷蔵庫から胡麻ドレッシングを取り出した神座先輩がキッチン台を回り込みながらオレのほうを見てそう言った。
神座先輩はテーブルの中央にドレッシングを置いて、対面するようにオレが配置した食器の前に箸を並べると、
「よし、食べようぜ」
そう言うが早いか椅子を引いてそこに座ると、テーブルに差し込まれた空席に向かって手の平を上にして差し出した。
オレは促されるまま、そこへ座ると、
「いただきますっ」
対面の神座先輩が肘を張った大袈裟な動きで手を合わせて言う姿が目に入った。
「えっと、いただきます」
オレも神座先輩に倣って手を合わせてそう言うと箸を手に持ち、改めてテーブルに並んだ料理を見渡した。
茶碗にご飯、汁椀にミネストローネ、二種類のピクルス、皿にはメインのポークステーキと付け合わせに舞茸のバター醤油ソテーとブロッコリー。
これ全部、手作りなんだよな……。
大学のカフェテリアや飲食店で定食を注文したら、こういう組み合わせもあるだろう。しかし家で……となると実家や現在住んでいるアパートでオレが食べてきた手料理の献立にこんなまともな手料理はなく、実家で母親が作る料理といえば、無駄に良い肉に塩胡椒も振らずなんの味付けもないまま焼いただけのステーキとご飯や、野菜炒めとご飯といったフライパン一つで炒めたものが一品出るだけの食卓だった。
オレ自身もアパートで用意する食事はレトルト食品が主だ。
外食、ではなく家、でこんな料理が食べれるなんて……。
「なんか、すごく、普通……っすね」
オレは自然とその言葉を漏らすと、汁椀を持ち口に運ぶ神座先輩の手が止まり、
「えと…す、すまん……次は誘うときは、もっと豪華で凝った料理を作ってやるから……」
そう言って、ミネストローネを具と一緒に一口啜った。
次は凝った豪華な料理とか本当っすか、それはすごく嬉しいんですけど……って、ん……?
「いやいやいやいや、違うんです!」
少し考え、神座先輩がオレの言葉をどう受け取ったかを理解すると慌てて両手を胸の前で振って否定し、
「普通って言ったのはガッカリしたとかじゃなくて、一般家庭の夕食に出てきそうな料理がテーブルに並んで、ずっと適当なご飯しか食べてこなかったオレにはその普通が嬉しいって言うか……いや、普通じゃなくて、とても美味しそうっす」
先ほど足らなかった言葉を補足して説明をした。
「気にしてないよ。でも、たまに凝った料理も作りたくなるから、そのときはまた食べに来てくれ」
神座先輩はオレの仕草を見て静かに笑いながらそう言い「早く食べな」と続けた。
「はい、いただきます」
オレは小さく頷いて箸置きを枕に横たわった箸を取り、まずはポークステーキに手を伸ばすと端の小さい一切れを口に入れ、一噛み、二噛み……。
「これ、うまいっすね」
少し強めに振られた塩胡椒と、微かなニンニクとレモンとハーブの香りが肉の臭みを消してくれている。そして、
「柔らかいっす」
豚肉特有の噛み切る食感はなく、噛んだところから肉の結合が解けてくれるような不思議な柔らかさ。
「あのハーブソルトうまいだろ、柔らかいのは焼く前に軽く叩いたからだな」
神座先輩はキュウリのピクルスに伸ばす箸を止めて、少し嬉しそうにオレを見てそう言った。
塩も胡椒も振らずに焼いた肉には独特の臭みがあることをオレは知っている。
味が良いのはハーブソルトのおかげ、肉が柔らかいのは叩いたおかげ、と言いたげな神座先輩だけど、丁度良い塩加減と焼き加減ができなければこうはならない、そのノウハウがすごいんだけどな。
オレは箸を伸ばして先ほどより若干大きい一切れを口に運び、左手に持った茶碗に盛られた白い山に箸を差し込んでご飯を口に運んだ。
うまい、少し強めの塩加減がご飯によく合う。
しかし肉を叩いたって、いつそんなことをしていたのか……あー、変な妄想をしながら鍋にコンソメを溶かしていた時か……。
食事ですっかり忘れていた恥ずかしい記憶が甦り、呻きたくなるのを堪えながら口の中の物を飲み込むと、舞茸のバター醬油ソテーに箸を伸ばした。
「悠木、ドレッシングかけていいか?」
舞茸を口に入れた途端に名前を呼ばれて顔を上げると、神座先輩は蓋が外されたドレッシングの容器をオレに見せるようにして言った。
見ると神座先輩のブロッコリーにはすでにドレッシングがかけられている。
「あ、はい、お願いします」
オレは箸を持った手で口元を隠しながら答えると、神座先輩はポークステーキの皿に容器を傾けて盛られたブロッコリーへ胡麻ドレッシングを回しかけたのを見計らい舞茸の食感と味付けを楽しみながら、無言で神座先輩に軽く頭を下げた。
舞茸も美味しい、次はポークステーキに舞茸をのせてご飯のお供にしよう、でもその前に……。
オレは持ち上げたコンソメの香り立つ汁椀に唇を付けて、細かく賽の目にされた野菜ごとトマトの果肉が残る赤いスープを口に流し込んだ。
フワフワと香るコンソメと胡椒の風味がとても丁度良い、でもコンソメ以外にもなにか……。
「ミネストローネもうまいっす、コンソメの他になにか味付け足したんっすか?」
オレは口元の汁椀に落とした目線を上げて、神座先輩に思ったことを聞いてみた。
「よくわかったな、顆粒のいりこ出汁も使って味付けしてるんだ、ちょっと味に深みが出るだろ」
ちょうど物を飲み込んだところの神座先輩は口を開き、茶碗と箸を持ったまま手の甲をテーブルに付けて、質問に答えてくれた。
「へえー、コンソメに和風出汁ってこんなに合うんっすね」
オレはそう言って左手に持ったままの汁椀を傾けてミネストローネをもう一口啜ると、神座先輩も茶碗を置いて汁椀を持ち上げて一口啜った。
「だがこのミネストローネ、ちょっと失敗しちゃってな……」
え、こんなに美味しいのに……なにか味付けを間違えたんだろうか?
「思ったような味付けになぜかならなくて、取り返しがつかなくなる前に調味料を足すのを止めたんだが、ベーコンを入れ忘れていたんだと、さっき気づいたよ……」
神座先輩は左手の汁椀を覗き込みながら残念そうに言った。
そう言われてみれば、肉なしのミネストローネだ。
「でも、十分に美味しいっすよ」
オレは汁椀を置いて正直に感想を述べたが、
「肉の脂が少しでもスープに溶けていると旨みが違うんだよ。次はベーコンか豚バラ、いやベーコンの方がおれは好きだ、入れ忘れずに作るからな」
神座先輩はミネストローネの出来に納得していないと、右手を握りしめ大げさに冗談めかして言った。
そういえば実家で出される料理の味付けに美味しい以外の感想を述べたら両親からは「文句を言うなら食うな」から始まり「じゃあこれからは自分でご飯作りなさい」など言葉のリンチが延々と続くことになる……今日の味付けは少し薄いね、そんな日常会話の切り口でも両親の火薬庫を爆発させるには十分な火種を抱えた、鉛を飲み込むような食事だった。
神座先輩は黙っていたら気づけないくらいの些細な失敗を口に出して、会話のボールを投げてきている。
「じゃあオレ、そのときまた食べに来ていいっすか?」
オレがそのボールを投げ返すと、
「絶対に前のよりうまい、って言わせてやる」
握った拳を解いて神座先輩は笑顔でそう言った。
弾んでいた会話も落ち着いて、食べる方が優位になると次第に食卓は静かになりお互いの、とりわけ自分の咀嚼音が耳につき気になるようになってきた。
オレの出す音が神座先輩に聞こえて、不愉快な思いをしてないだろうか?
顔を上げて丸テーブルに向かい合わせで座る神座先輩を窺っても、そのような素振りはなく、歯ごたえが残るブロッコリーを頬張る音が逆に聞こえてきた。
神座先輩は一切れのポークステーキに醬油バターで炒め味付けされた舞茸を載せて箸で掴むと、開けた口に運びこむ。
それ、オレも美味しそうだからやろうとしてたやつ。
神座先輩は閉じた唇から箸を引き抜き咀嚼を開始、しばらく後に左手の茶碗から箸でご飯を摘まむようにし掬い取って軽く開けた口に素早く放り込むと、閉じた唇を軽く捲れさせながら空になった箸を引き抜き、下顎部を大きく動かし始めた。下顎部の動きに合わせて、ピッタリと閉じた唇も形を変えて顎の動きに追従している。
神座先輩の唇に見入っていることに気付き我に返り、オレは再び箸を伸ばしてポークステーキに舞茸を載せて口へ運んだ。
モタモタ食べていたら食べるのが早い神座先輩を待たせてしまう。
肉が、舞茸が、箸が軽く唇に触れるだけで、神座先輩の頬に唇が触れた際の感触がそこに甦って味に集中できないながらも、ハーブソルトに舞茸が加わったポークステーキが美味しいことは分かった。
箸休めに拍子木切りにされたキュウリのピクルスへ箸を伸ばし、一旦口に咥え前歯で半分に嚙み切ってから箸に残ったもう半分を口へ運ぶと、ピクルスの水分で唇が少し潤い、噛むと小気味いい音を鳴らしながら甘酸っぱさが口内に残った肉の気配を洗い流してくれた。
向かいの食器を見ると茶碗はすでに空で、皿には肉と舞茸はなく一房残ったブロッコリーもちょうど箸で持ち上げられ、花蕾で皿に残った胡麻ドレッシングをふき取ったあとに口へと消えてしまった。
やっぱり神座先輩は食べるのが早いな。
「ごちそうさま」
ブロッコリーを飲み込みこんだ神座先輩は、少し残ったミネストローネを飲み干した汁椀をテーブルに置いて、箸置きを枕に箸を寝かせると手を合わせてそう言った。
ペースアップしてオレも早く食べてしまおう。
オレはポークステーキを、つぎに箸で少し多めにご飯を取って口に運んだ。
やっぱり肉の味付けに使われてるハーブソルトが美味しい。商品名を聞いて買って帰ろうか……いや、料理をしないオレが買ってもただのオブジェになるだけか。
「急がず、ゆっくり食べていいんだからな」
オレのペースアップを知ってか知らずか、神座先輩はオレにそう声をかけてきたので頷きながら箸を持った手で口元を隠し「はいっす」と少しくぐもった声で返した。
「本気のトレーニーだったらジムで運動後は豚より鶏胸肉の方が嬉しいんだろうけど」
神座先輩は背もたれに背中を預けると口を開けた。
ん……?
神座先輩の言葉になにか引っかかる。
「鶏胸は安いけど、工夫しないとパサつきがな」
胸……?
オレは首を傾げて自分の胸に視線を落とし、数秒後……。
思い出したー!! ジムでベンチプレスしてるときにさらしが取れて神座先輩がオレの女性化乳房に気づいたかどうか探りを入れようとしてたのすっかり忘れてた…広いマンションに一人住みしてることに驚いたり、料理の手伝いに気を取られたからな……。
「あ、そうだ…」
神座先輩はそう言って椅子から立ち上がると「飲み物、麦茶でいいか?」と首をこちらに向けてキッチンの冷蔵庫へ進みながら言った。
「あ、はい」
オレは上の空でそう答えながら、どうやってさり気なく胸のことを神座先輩に聞けばいいのかで頭がいっぱいだ。
ベンチで補助してくれたとき、なにか柔らかいものに触れませんでしたか?
これでは神座先輩がオレの膨らんだ胸に気付いてなかった場合、柔らかいものってなに? という話に発展してしまうし。
ベンチの補助中、なにかオレの変わったところに気づきませんでしたか?
いや、髪切ったのに気付いてもらえないことに腹立つ神座先輩の彼女気どりかオレは……。
悩んでいるとガラステーブルに薄く影が伸び、麦茶の注がれたガラスコップが逞しい腕から差し出され乾いた音を立ててオレの手元に置かれると、神座先輩は自分の手元にもコップを置いてから椅子を引いて座った。
「あざっす」
オレは短くお礼を言いながら頭を働かせた。
もういっその事トレーニングに関することの体でストレートに聞いてみるほうが良いかもしれない……。
「そういえば、神座先輩」
口に麦茶を含んでいた神座先輩は、まず目でオレの声に反応してから飲み下し「どうした?」とコップをテーブルに置いた。
「オレ約一年ベンチプレスやってきたじゃないっすか、オレの胸ってデカくなってきたと思いますか? オレの胸、Tシャツの上からでも膨らんで見えてきてるっすかね?」
オレは神座先輩に大胸筋の話題を装いつつ、女性化乳房について気付いているなら何かしらの反応を見せるだろう探りを含んだ聞き方をした。
神座先輩はオレの問いに、顎を指で摘まんでしばらく沈黙した。
なんだか胸にスゴく視線を感じる……。
もしかしたら、あのとき神座先輩は胸の膨らみに気づき、なにか言いかけたけどあえて口を閉じたのかもしれない。それなのに自分からその話を蒸し返してしまい、どう答えたものか真剣に悩んでいるのだとしたら……。
「悠木の胸、けっこう膨らんでる、よな……」
胸から視線を外さずに神座先輩の口からゆっくりと出た言葉に、オレの視界は暗くなり顔から血の気が引いていくのを感じた。
そりゃ気付いてるよな、あのときあんだけ触られたんだもん……神座先輩はせっかくなにもなかったかのように流してくれていたことなのに。
「まだベンチ一年目で、やっと六〇㎏に挑戦しようってときなんだから、それくらいで十分じゃないか」
オレはなんてバカな質問をしたんだろう……え?
神座先輩はオレの胸から視線を外し、さらに続ける。
「ベンチプレスって実は大胸筋への刺激は弱くて主に発達するのは大胸筋の下部だから、そうだな……もっと胸をデカくしたいんならインクラインベンチプレスで大胸筋上部を、筋肥大を狙うならダンベルフライもおすすめだ」
神座先輩はトレーニングの名称を口にするたびに一つ一つジェスチャーをし、それによって主に効く大胸筋の部位を指さしながら説明を始めた。
「へ、へえー、そうなんですか…ベンチだけじゃダメなんですねー」
オレは神座先輩がある程度気付いていることを覚悟して返答を待ったが、肩透かしを食らった気分だ。
大胸筋の体で話を振ったのはオレなんだけど、本当に気づいてないの……? Tシャツ越しからとはいえ胸を何度も触られてる訳だし、そしてあのときたしかに神座先輩は胸が、と言ったはず。
「でも去年ジムに来た当初に比べたら全身、特に背中と太腿に筋肉付いてるし、焦らずコツコツやっていけば大胸筋とか前面にも筋肉付くって。もともと悠木は上半身に比べて下半身が太いから、そっちをさらに太く強くするって手もあるけどね」
神座先輩は自分の太腿に手を置いて軽く擦りながら言った。
下半身に肉がつきやすいのはエストロゲン優位の影響なんだけど……神座先輩、ちゃんとオレの身体見てくれてるんだな。
「そもそも悠木はいつも何かしら上着を羽織っててその上着越しからでも筋肉の発達がわかるんだから……特に今日のベンチで悠木が潰れたときはパーカー越しからでも胸がパンパンになってるのがわかったし、心配しなくてもちゃんと大胸筋は発達してるはずだよ」
神座先輩はオレの発言の真意に気づかず、ただ伸び悩んでいることを気にしているだけのものと受け取ったようで、なだめるように言った。
じゃあ、あのとき神座先輩はオレの女性化乳房には全く気付いてなく、ベンチプレスで胸がパンパンだなってニュアンスのことをみなまで言い終える前にオレが挙動不審になりトイレへ駆け出したってこと……?
「ふっ、ははは……」
オレは口から自然と空笑いを漏らしながら脱力し身体を椅子の背もたれに預けると、その勢いのまま首を反らせて天井を仰いだ。
バレてなくてよかったー。
「ん、どうしたんだ悠木?」
コップを持って口をつけようとしていた神座先輩はその動きを止めて怪訝そうに言うが、それはオレでもそうなると思う。
「いえ、少しでも筋肉がついてたんなら良かったなと思っただけっす」
オレは安堵した表情で反った首を戻して正面を向くと、そう言って食事を再開した。
モヤモヤがなくなり晴れた気持ちで食べる神座先輩の料理はひとしお美味しく感じられ箸が進み、食器に残っていた少量の料理を数分で平らげると麦茶を飲み干し、
「いやー、美味かったっす、ごちそうさまでした」
オレは肩ひじを張って大げさに手を合わせながら言った。
「それは良かった、誘った甲斐があったよ」
神座先輩は笑顔でそう言いながら、皿の上に茶碗と汁椀を重ね始めた。
「洗うのならオレがやりますよ」
オレが使った目の前の食器も、すでに引き寄せられて重ね終わっており椅子から立ち上がる神座先輩に向かい慌てて言った。
「いいよ、少し水につけたあとで食洗器に入れるから」
二個づつ重ねたオレと神座先輩が使った茶碗と汁椀を、二枚重ねた皿をお盆代わりにしてテーブルから両手で持ち上げてすぐ横、仕切りのないキッチン台へ置きながらそう言って神座先輩はキッチンシンク前へ回り込んだ。
蛇口からはお湯が出され、神座先輩は黙々とキッチン台に置いた食器を水流に当ててシンク内へ積んでいく。
今、この部屋で響く音は蛇口から落ちる水が薄いステンレス製のシンクを叩く音と、食器がシンクに置かれ水が溜まり排水口へ流れる音だけ。
うちの母親のように嫌々とやっている空気を醸し出しているではなく、当たり前のこととして行う神座先輩を見ていると心が落ち着く。
なにもしていない罪悪感を抱えながらも穏やかな気持ちで食器と水の流れる音を聴き、神座先輩の動きを眺めながらオレは理想の家族像を思い描いた。
外でも力を貸してもらい、掃除の行き届いた家という空間にギスギスした空気はなく、しがみ付いても揺るがず助けてくれる強い身体、料理を作ってくれて真摯に話を聞いてくれる姿勢、これが本当の家族というありかたなのではないだろうか。
そっか、オレの湧き出る神座先輩への不思議な気持ち……やっぱりオレは神座先輩の恋人になりたいんじゃなく、理想の父親像と母親像を神座先輩に重ねて見ていたんだ。
キッチン台を挟んだ向こうでシンクに置いたフライパンにお湯を溜めながら手を洗い終えるとレバーハンドルを下げて蛇口を閉め、手を拭き終わった神座先輩がこちらに戻ってきた。
「退屈だったろ、うちテレビないからさ」
水の音が止んで静寂が数秒続いたあと、そう言いながら神座先輩は椅子を引いて座った。
「お手伝いしなくてすいません、オレもアパートにテレビなくて普段から見てないからいつも通りっす」
目の前に座る神座先輩へ募る正体不明の気持ちが判明して見る目が変わったが、判明したからこそ湧きおこる恥ずかしさを隠しながらオレは努めて普段通りに言った。
「少し水で流して浸けてるだけだし手伝ってもらうほどのことじゃないよ」
神座先輩は笑いながらそう言うとテーブルに手をついて立ち上がり、
「食後は楽な姿勢になりたいだろ、ソファー行こうぜ」
とキッチンから見て正面、テラス戸が広がる一角に置かれたソファーに進みだした。
オレも立ち上がってあとに続くと、神座先輩はいち早くソファーへ腰を沈めたのを見てある問題に気がついた。
このソファー広めに作られてはいるけど二人掛けだよな、かと言ってあっちの布張り一人掛けの椅子に座るのはなんとなく憚られるし、神座先輩もオレが座れるスペースを空けてくれてるし。
オレは神座先輩の隣、テラス戸側に空いたソファーのスペースにゆっくりと腰を沈めた。
ほどよく弾力のあるソファーの座面と背面が運動で疲れた食後の身体を受け止めてくれるのを感じると一気に力が抜け、
「あー、ソファー楽っすねー」
自然と言葉が漏れたときには、オレの身体はもうソファーに沈んでいた。
「そうだろ、しばらく動きたくないよな」
目を閉じ、完全に身体をソファーに預けた神座先輩からも気だるげな声でそう聞こえた。
今日は楽しかったな。春の長期休み中はバイト三昧だったし、しばらく一人で通っていたジムも長期休み明け新学期になって初めて神座先輩と行けたし、まあハプニングもあったけど……そのあと手料理まで作ってくれて、ちょっとした事故はあったんだけど……でも、本当に楽しかった。
「外食やテイクアウトを除いて、こんなまともな手料理作ってもらって食べるのはオレ、一〇年振りくらいかもしれないっす」
良い気持ちでソファーに沈み微睡んでいたオレは隣の神座先輩に顔を向けるでもなく呟いた。
「おいおい、一〇年振りとか、まともな料理とか、それはちょっと褒めすぎだろ」
神座先輩は笑いながらソファーに預けた首を起こしてこちらを向き、そう言った。
「いやいや本当っすよ、うちの母親は料理とか駄目で肉を買ってきても一切味付けしないまま焼いたものか、肉系の惣菜買ってきてパックの蓋を取っただけのおかず一品とご飯しか食卓に並びませんでしたし」
あれ、オレはいったいなにを言ってるんだ? 外で話すことはしないと決めていた実家の話を出すなんて、この部屋に来てからずっと両親と神座先輩とを比べていたところに気が緩んでしまったせいだろうか。
でも今なら、たまに家事の手抜きする母親を大げさに言った冗談で済ませられる。
「おれもスーパーの惣菜や大学カフェテリアのテイクアウトはよく利用するよ、悠木のお母さんもたまには楽したいだけじゃないかな」
神座先輩は肘掛けに右肘を置いて、身体をこちらに向けながらオレの母親を擁護するように言った。
神座先輩、違うんです……。
「たまにじゃなく毎日ご飯とおかず一品なんっすよ、でも料理なんてしないのに買い物に行くと大量の食材を両手に袋一杯に買ってきて冷蔵庫に入れては腐らせるの繰り返しで、冷蔵庫の野菜室を開けるといつも何かしら野菜が腐って液状化現象を起こしてるし」
ダメだ、止まらない、家の恥を神座先輩に言っても困惑されるだけだって分かってるのに。
「専業主婦なんですけどね、掃除はしないし整理整頓もできなくて、洗濯と干すことはするんですけど取り込んだ衣類やタオルはリビングの一か所に山にして置いておくだけで畳まないし、物心ついたときから埃と物が部屋中に溢れかえっている状態が続いてまして、それを見て少しでも嫌な顔をすると、散らかっていることを誤魔化すようにオレのことをどれだけダメな人間か延々と説教してくるし」
不満を溜めこみ隠してきた心の奥にあるコックが少し緩んだだけで毎日起こっていた両親との嫌な記憶が映像となって幾つも蘇り、
なぜあのとき、怒鳴られなければいけなかったのか? どうしてあんな酷いことを言われなければならなかったのか? そんな些細なことでなぜそこまで怒り散らすことができるのか? じゃあこうしていたら? 逆にこう答えていれば……。
そんな無限のifと、なぜ? どうして? という言葉が脳内で一秒間に二〇〇〇文字は浮かびあがり続け、その膨大な量の感情を嚙み砕き押し殺して口から出力したつもだが、はたしてオレの言葉は神座先輩に伝わっているだろうか、感情が強すぎて変な日本語になっていないだろうか。
「父親とは単純な会話をしていても嚙み合わず理解できていない節があって、なぜかすぐに話題の筋に合わない間違った結論を疑うことなく出すのですが、そもそも三分言葉を交わすとなにが原因か突然怒鳴りだして会話にならないし、会話だけじゃなく怒鳴る理由はなんでもよくて自分が車を運転してて道を間違えると人のせいにして怒鳴ったりとか、でも一歩外に出ると父親も母親も気持ち悪いくらい愛想が良いもんだから近所の人からは良い夫婦って認識されてて笑っちゃいますよ」
オレは言いながら、努めて明るい声を出して笑顔を作っていることに気づいた。
「そんな両親とやっと離れて暮らすことができて、今は本当に気持ちが楽で、毎日が充実してるんっすよ」
これ以上は心が決壊して言葉が止まらなくなる。
オレは心のコックをキツく締め直すと、明るく笑い声を上げてこの場の空気を誤魔化した。
こんな話を信じてくれないだろうし、どうせなら冗談半分の誇張した自虐ネタとして笑い話としたほうが傷つかなくて済むから。
神座先輩は先ほどの姿勢のままでオレの笑いにつられることなく無言で、どこか遠くを見つめているようだ。
「悠木、林檎剥こうか」
しばらく沈黙が続いたあと、神座先輩はそう言ってソファーから立ち上がり、やはりどこか遠くを見るようにしてキッチンへと移動していった。
林檎という神座先輩の突拍子もない言葉にオレは少し戸惑うと同時に激しい後悔の波が襲ってきた。
そもそも、どう反応していいか困る話だし、冗談とも愚痴とも取れない笑えない話を延々と聞かせてしまったんだ。神座先輩だって気まずくなって間を取り繕おうと精一杯悩んだ結論が林檎を剥くためこの場を離れる、だったのかもしれない……。
キッチンから水が流れる音が短くしたあと、神座先輩は小さなまな板を持つ右手にしっかりとペティナイフの柄を挟み、左手に林檎一個とフォークが二つ入った深皿を持って戻って来るとソファーテーブル下に敷かれたラグマットに膝をついて座った。
オレもソファーから降りてラグマットに膝を揃えて座ると、神座先輩はテーブルに置いたまな板上で林檎のヘタを通る中心線にペティナイフの刃を真っ直と下ろし始めた。
ナイフが林檎に入り込み果肉が裂ける小刻みな音を立てながら深く深く切断面が広がっていき、刃がまな板に当たる音のあと半分になった林檎は白い果肉と中心の種を露わにすると甘酸っぱい匂いに包まれた。
不思議と気分が落ち着く、甘い良い匂いだ。
「さっきの話なんだが」
神座先輩は半分にした林檎にヘタからナイフを縦に入れ、三等分にすると手を止めて口を開いた。
「学生の身分でこんなことを言うのはお門違いかもしれないし、おれは悠木のご両親を実際に見たわけじゃないから今から言うことで気分を害することになるかもしれないんだが……」
神座先輩は前置きをすると、少し溜めてから、
「もしかしたら悠木はカサンドラ症候群に陥ってる状態なのかもしれない」
そう言ってもう半分の林檎にナイフを入れ、まな板の音を立てながら三等分にした。
カサンドラ症候群……ってなんだ? 名前からもまったく推測できないんだけど。
「実は正式な医学用語ではないんだが簡単に言うと自閉症スペクトラム、アスペルガー症候群、広汎性発達障害を統合し総称したASDが家族にいることにより家庭内でのコミュニケーションがうまく取れない状態が慢性化し非ASD側の人間が自己評価の低下、パニック障害、抑うつ、無気力等の症状に陥ってしまうものだ」
神座先輩はオレの表情から困惑を読み取ったのか、カサンドラ症候群についての概要を説明した。
自閉症、アスペルガーって神座先輩は突然なにを言いだすんだ?
「さっき悠木は父親と会話をしても話が嚙み合わないし怒鳴り声を上げると言ったね、ずっとそんな状態で自信の消失というか……なんの理由もなしに、自分は駄目な人間だとか、自分にはどうせできない、なんて考えがよく浮かぶことはないかい?」
神座先輩は時折こちらに視線を送りながら話し、くし形に六等分された林檎を左手に持ち、ナイフでヘタの部分を削り取りながら種のある芯の部分をⅤ字に切り取っていく。
「え……とくにそんなこと、ないっすけど」
いや、ある……なにかにつけてオレは駄目な人間だから、オレにはできない、オレが言ってもどうせ信じてくれない、そんな言葉がいつも思い浮かぶ。
「それならいいんだが、悠木の話だけを聞くなら父親はASD自閉症スペクトラム・アスペルガー症候群を、母親はADHD注意欠如多動性障害を持っているのかもしれない」
神座先輩は林檎の芯へ斜めに切れ込みを入れたところで手を止めると、こちらを向いてゆっくりとそう言った。
そうか……そう考えると全てに納得がいく。
強い自分のこだわりを人にも押し付け、自分の思う過程を少しでも外れたら怒鳴り散らす低い心の知能指数EQと低い共感指数の父親はASD、絶えず指や身体を動かす癖はチック症か多動症、それだけではなく会話の不確かな受け答えからIQ70~85の境界性知的障害も疑える。
掃除や整理整頓、料理など家事全般を順序だってできずに途中で放り投げ、突然怒りだす感情の不安定さを持つ母親はまさにADHDだ、まるで配慮のない言動からEQの低さも垣間見えてASDも入っているかもしれない。
「ASDやADHDについての説明は必要ないな、つまりカサンドラ症候群はASDと絶えず接しなければいけない非ASD側が受ける精神的もしくは身体的苦痛によって生じる二次障害のことをいうんだ」
神座先輩は六等分にした林檎すべての芯をⅤ字に切り取り終わると、ナイフを皮に当て弧を描くように薄く剥き始めながら先を続けた。
「非ASDの人間は奇想天外で理解不能なASDの言動に振り回されていつも混乱しているような状態で、不満や悩みを誰かに相談しても周囲も理解してくれないという、ASDと非ASD当事者達に問題の本質がわからないこと、周囲が問題の存在さえ理解できないことと二重の苦しみがカサンドラ症候群を患っている非ASD側の心理状態だ」
ずっと不思議に思っていた家で日常的に行われる理不尽な両親の言動から、必死に理由を見いだそうとしていたときもあった。
今だったら、オレと同じような家庭環境を人から相談されればカサンドラ症候群という名称は知らなかったものの、神座先輩と同じように両親の発達障害をすぐに疑うことはできただろう。
しかし他人を俯瞰して見るのではなく、幼少期からそれが当たり前として日常を送ることを余儀なくされていた原因が両親の発達障害だという発想は自分自身の体験という一人称視点からは浮かぶに至れなかった。
「じゃあもし、カサンドラ症候群を患っていると判明した場合はどうしたらいいんっすか?」
オレは神座先輩の言葉に聞き入ってしまい、つい思ったことが口から出てしまった。
「そうだな、これは非ASD側には理不尽に聞こえるかもしれないけど……」
神座先輩は小気味いい音を立てながら、果肉と皮の間にナイフの刃を進めて、剥がれた皮をまな板に落とすと、
「非ASD側がASDをよく知り理解しようと努め、過去の極端に共感性を欠いた言動を赦し、未来に受けるであろう精神的、肉体的苦痛をASDの特性として認識し予め心の準備をしておく」
こちらを向いて皮を剥こうとする姿勢で止まったまま、そう言葉を続けた。
「でもそれじゃ解決方法というより非ASD側が耐えてるだけで、ASD側にも努力や改善を求めないとフェアじゃないっすよね」
こんなの理不尽すぎる……。
「あとはASD側と顔を合わせず言葉も交わさない、一時的または恒久的に距離を取るかだが、だから理不尽に聞こえるかもって言ったろ」
神座先輩は剝き終わった林檎を皿に置き、まだ赤い林檎を左手に取った。
「それにしたって、周りを苦しめてる元凶のASD側ができることってなにかないんっすか?」
父親がASDで母親がADHDという可能性が濃厚だと判明はしたけど、対処法はオレの我慢だなんて……どれだけ両親の言動に苦しめられてきたのか、そして今後接するたびにこちらが我慢を強いられなくてはならないなんて。
神座先輩は一切れとなった皮付きの林檎を手にし、剥いていく。
「そこが難しいところでもある。例えば夫がASDで妻がカサンドラ症候群に悩む非ASDの夫婦がいる、妻が夫の異変に気づき専門家の受診を求めたとして、素直に夫はそれに応じるだろうか? 受診に応じたとして軽度重度にかかわらず自閉症スペクトラムに治るという概念はない、しかし専門家がASD夫の特性を理解させることだけ優先させてしまえば妻が受けた苦しみを軽視してしまうことにもなりかねない。専門家を受診しても結局どっちつかずの説明を受けるだけで終わり、妻の心境に多少変化はあるかもしれない程度で、今までの生活を受け入れるか拒絶するかしかないんだよ」
神座先輩は林檎の皮を剥き終えると、まな板に落とした皮の山を端に寄せ、空いたスペースで六等分の一切れをさらに三等分にし約一㎝ほどの薄さにスライスしていった。
「こうすると口に運びやすいし、スナック感覚で食べれて好きなんだ」
神座先輩は少し笑いながら手を止めることなく言った。
「でも、やっぱり納得できないっすよ」
あの両親にわかってもらえるなんて思ってはなかった……でもたった一%くらいは期待して、憧れていたんだ。
家族で家を片づけて掃除して、怒声や嫌味が飛び交う代わりに、整理整頓された清潔な部屋で仲睦まじい会話や笑い声が溢れる一家団欒の姿に。
「カサンドラ症候群の解決法については、たぶん大多数の人間が悠木と同じような気持ちになると思うよ、やっぱり嫌な気分にさせたみたいで悪かったな」
神座先輩はそう言うと、薄くスライスされた林檎が盛られ、ふちにフォークを置いた深皿をオレの前にソファーテーブルを滑らせて差し出した。
「いえ、べつに、嫌とか思ってないんで大丈夫っす」
ずっと疑問だった両親の理解不能な言動の原因、その可能性を提示してくれてありがとうございます。
「もし、もしなんだが……悠木がなにかしらの事情でアパートを引き払い実家に帰るしか選択肢がなくなり、ご両親と接することがどうしても苦痛に感じるのだというなら、ここに逃げてきても良いんだからな」
「えっ……」
オレは、右手に林檎の刺さったフォークを持つ神座先輩へ顔を向けた。
「ここ広いし、男同士だったら別にそれも良いだろ、ただしおれがここに住んでいる間という条件はもちろんあるけどな」
神座先輩は笑ってそう言うと、小さく開けた口に薄い林檎を半分ほど入れて嚙み切った。
憧れていたんだ……。
「あ、ありがとう……ございます」
神座先輩と同棲か、掃除やゴミ出しは当番制になるのかな? 一緒に買い物へ行き、二人でキッチンに立って、作った料理を二人で食べる。
オレはフォークを手に取って林檎を刺すと、そこから少量の果汁が噴射し慣れて感じなくなった鼻腔に甘酸っぱい匂いが再び流れ込み、心がリラックスしていくのを感じながら口に運んだ。
なるほど、薄いと口に入れやすいし咀嚼も楽で食べやすい。
食後はジャンケンでどちらが食器を洗うか決めて、そのあとは他愛もない話をしたり相談にのってもらったり、食後のデザートとして林檎を剥いてくれたり。
そんな安らかで普通の家庭に、オレは憧れていたんだ。
マンションからの帰り道、オレは夜風を受けながら自転車を漕いでいても上の空で、どうしても今日の出来事に思いを馳せてしまっていた。
色んなことがあり過ぎて、それは今日一日で起きたこととは思えず、長い夢を見ていたような気分だ。
神座先輩に対するあの気持ち、あれは本当に神座先輩を理想の両親に重ねただけのものだったのだろうか?
四月半ばを過ぎているとはいえ、肌を露出した顔にあたる夜風は冷たい。
ジムで汗もかいてるし、帰ったらすぐにシャワーを浴びて今夜は寝てしまおう。
進行方向の信号機が赤だったのでオレは自転車の前後ブレーキをかけ徐々に減速させると、横断歩道前で左足をアスファルトにつき完全に停車させた。
外灯に照らされた歩道に歩く人はなく、走る車もまばらな道路を眺めていると、髪からコンソメの残り香が鼻腔に漂ってきた。
あのとき、スープの湯気にあたってたからな。
その匂いが、あれは夢ではなく現実だったとオレに投げかけているようだ。
今日のことは忘れたくないし、忘れることはないだろう、しかし記憶は儚い……そうだ。
「今日はシャワーを浴びずに寝よう」
匂いを洗い落とさず明日に持ちこして、少しでも今日の記憶を鮮明に残すために。
信号が青に変わるのを確認するとオレは右足でペダルを蹴りだしアスファルトにつけた左足をペダルにのせて再び自転車を漕ぎ始めた。
そういえば、初恋の相手が親だったっていうのは、よく聞く話だよな……。
っていったいなにを考えてるんだオレは!?




