05 新城 悠木 の 場合
出席していた五限目の講義が時間通り一七時五〇分に終了し、ゆっくり自転車でアパートに帰ると一八時一〇分。
そこで着ているものを脱ぎ、トレーニング用のウェアへと着替える。
裸になると、まずは胸に巻いた少し緩んださらしを一旦解いて、もう見慣れた女性化乳房で膨らんだ胸を再び潰しながらさらしをキツく締め直した。
肌着は速乾性生地のもの、靴下はくるぶしまでのものに変えスポーツタイツを穿き、その上からハーフパンツを穿いた。上半身にはスポーツ用のこれも速乾性生地のパーカーを着ると、リュックにトレーニングジム用のシューズを詰め込んだ。
身支度が終わるとキッチンに立ち、棚に置いた容量一ℓスクイズボトルを掴み蓋を回し開けると、冷凍庫を開けて氷をボトルの三分の一程度にまで入れ、そのあと冷蔵庫から酢の瓶を取り出し、大さじ三杯程度を目安に瓶を傾けてボトルに注いだ。
開け放たれたまま冷気を逃しているドアポケットに酢を戻し冷蔵庫を閉めて狭いキッチンワークトップにボトルを置き、塩の入った小瓶を手に取って親指でワンタッチキャップを開け目分量で三gを目安にボトルの広く空いた口の上で振り、人差し指で小瓶のキャップを閉じる。
次に棚から砂糖の入ったスクリューロック式のタッパーを取り、蓋を開けるとカレースプーンで中盛り二杯の砂糖をこぼさないよう慎重にボトルへ入れるとスプーンをシンクに置き、タッパーの蓋をしっかり閉めて元の場所に戻した。
最後にボトルへ水道から水を入れて蓋をし、数回ボトルの天地を入れ替えるように軽く混ぜれば簡易スポーツドリンクの完成。
トレーニング毎に五〇〇mlペットボトル飲料を購入していると値段がかさみ、どうしたものかと相談したところ神座先輩に教えてもらった方法だ。
味はまあまあ、なのだが疲れているときに飲むと美味しく感じるから不思議だ。
お酢の代わりにレモン果汁を入れても良いが、酢の方が安価でアミノ酸も豊富なのでそうしている。
たまに酢を入れ忘れ、塩と砂糖と水だけで作り、ジムへ持って行ってしまうことがあるのだが、そのときはなぜか缶コーヒーのような味に感じることがあり、缶コーヒーがいかに砂糖水かと思い知った。
氷の入ったボトルの表面には結露が発生するので、脱衣所の洗濯機上に突っ張り棒で作ったタオル用の棚からフェイスタオルを一枚取ると、それでボトルを巻きリュックへ入れた。
薄いウインドブレーカーを羽織ってリュックを背負い、自転車で区スポーツセンターへ。
区スポーツセンターは、野球場にサッカー場やテニスコート、ランニングコースやアスレチックなどが屋外に設けられた区総合運動公園内に建てられた六階建てのビルで、そのビルの中にはトレーニングジムの他にプールや武道場にアリーナなど屋内競技の施設が揃った総合体育館となっている。
総合運動公園内のスポーツセンターにほど近い駐輪場に自転車を置き、神座先輩の折り畳み自転車があることを確認すると歩いて一分程のビルに急いだ。
スポーツセンターの自動ドアをくぐり、靴を脱いで鍵も扉も仕切りもない簡易な下駄箱に置くと、一階に置かれた発券機でトレーニングジムの利用券をセンターが発行している一〇〇〇円入金すると一〇〇円分のポイントが付いてくるプリペイドカードで購入。
一階の更衣室には寄らずリュックを背負ったまま階段を上がり二階のトレーニングジムへ行くと、会員証を通し利用券をカウンターへ提出してルーム内にいくつかベンチが設けられた休憩スペースの邪魔にならない端にリュックを置き、中のシューズを履いて羽織ったウインドブレーカーとタオルに巻かれた自家製スポーツドリンクの入ったボトルとを入れ替え手に持ち、今に至ること腕時計の時刻は一八時四五分。
ジムの終了時刻が二一時だから、今日は運動からストレッチまで一通り余裕を持ってできそうだ。
オレは休憩スペースからぶ厚いゴムマットが敷かれ一段高くなったフリーウエイトエリアへと進んだ。
「神座先輩、お待たせしました」
オレはベンチプレス台のラックに掛けられた空のオリンピックシャフトに二〇㎏プレートを差し込んでいる神座先輩の後ろ姿に声をかけた。
「ああ悠木、ちょうど今から始めようとしてたところだよ」
神座先輩は上半身だけで振り向いて、そう言葉を返すとスプリングカラーを入れてプレートを固定した。
オレは反対側に回り込み、神座先輩と同じように二〇㎏のプレートをシャフトに差し込んだあとカラーを入れた。その際、シャフトとカラーが擦れてキューーという特徴的な音が鳴る。
「サンキュー、じゃあおれからやらせてもらおうかな」
神座先輩はそう言い、広げたフェイスタオルをベンチ台の後頭部と上半身が当たる位置に敷くと、そこへ仰向けになり軽くブリッジを作ってシャフトを握るとラックから外し軽々と一〇回上げてラックへ戻し、ベンチ台から上半身を起こした。
「悠木は今日、マックス挑戦する? それとも回数やる?」
神座先輩は大きく息を吐き、ベンチ台に腰掛けた状態から立ち上がると、そう言いながらシャフト片方のカラーと二〇㎏プレートを外し始めた。
「じゃあ今日はマックス挑戦します……あ、三〇㎏からお願いします」
オレも片方のカラーと二〇㎏プレートを外し垂直に床まで下ろしてベンチラックに立てかけながら答えると、先に来ていた神座先輩がラックの側に用意してくれていた幾つかのプレートから五㎏のものを拾いシャフトに差し入れカラーで固定した。
神座先輩はオレが重量を言う前からプレートを取り付けてくれていたので、すでに補助の位置についていてくれている。
神座先輩が上げていた直径の大きい二〇㎏プレートが両端に付いたシャフトと比べ、直径が三回りほど小さい五㎏プレートが両端に付いただけの二〇㎏のオリンピックシャフトはとても貧相に見え、そのままオレの筋力のなさを周りにあらわしているようで少し恥ずかしい。
オレはヒップポケットから垂れ下がったフェイスタオルを抜いてベンチ台に敷くと薄手スポーツパーカーのファスナーをへそ辺りまで開き、上半身が広げたタオルにおさまる位置に仰向けになった。
パーカーのファスナーは首元まで閉めたままだと運動中は暑苦しいし、だからといって胸の辺りで留めておくと胸に下ろしたシャフトがファスナーのスライダーに当たり皮膚に沈んで地味に痛い。
ラックに納まった横一文字のシャフト越しに天井が映る視界に変わると、まずは左右の肩甲骨を中央に寄せて胸を張り、眼前に腕を伸ばしローレット加工が一部されていない八一㎝ラインに小指を沿わせてシャフトを握ったあと床に付いた足を踏ん張って背中にアーチを作る。
フォームが固まりラックから三〇㎏のシャフトを、持ち上げて外すと腕と肩にズシっと重みが伝わってきた。
顔の位置で上げたシャフトを腕を伸ばしたまま胸の上までズラすと、肘を曲げ肩を落として真っ直ぐにシャフトを背中のアーチで少し高くなった胸に当たるまで下ろし、大胸筋と寄せた肩甲骨を意識しながら肘を伸ばし上げていく。
補助についてくれている神座先輩がシャフト一回上げるごとに数を言う声が頭上から聞こえる。
自分でも数えているが神座先輩が一〇を数えたところで、それを合図にオレは静かにシャフトをラックへ戻した。
「悠木、フォームが崩れなくなってきたね」
ラックに掛かったシャフトを掴んで身体を引き上げるように上半身を起こし、ベンチ台から立ち上がったオレに神座先輩がそう声をかけた。
「今のはウォーミングアップで軽い重量ですから、フォームにも気が配れてるだけですよ」
オレはベンチ台に敷いた自分のタオルをつまみ上げてポケットにねじ込みながら答えた。
「いや、フォームってただそれを保ってるだけで結構キツいものなんだよ。軽い重量でも一セット一〇レップ、フォームが崩れないのは大したもんだ」
笑顔で言う神座先輩の言葉にオレは、
「そうっすかね」
と少し俯きながら簡潔に答えた。
あの両親と家にいて褒められることに慣れていないオレは、意識してやっている部分を少し褒められただけでも照れくさくなり顔がニヤけそうになってしまう。
神座先輩は些細なことにも気がついて、そこをちゃんと褒めてくれるのが嬉しい。
「つぎ七〇㎏でやるから五㎏つけたまま二〇㎏入れちゃおう」
そう言うや否や神座先輩はカラーを外し二〇㎏プレートをシャフトに差し込んでカラーで閉じた。
オレが反対側のシャフトにプレートをセットすると、神座先輩は素早くベンチにタオルを敷いて倒れ込み、やはり軽そうに七〇㎏の重さを五回上げ下げした。
神座先輩がベンチから立ち上がるのを確認するとオレは、
「四〇㎏でお願いします」
と言い、シャフトからカラーと二枚のプレートを抜き、二〇㎏プレートはベンチラックに立てかけ五㎏プレートはしゃがみ込んでそっと床に置くと、その姿勢から一〇㎏プレートを両手で掴み立ち上がった。
さっきの小さい五㎏プレートをつけたシャフトに比べて直径が一回り大きい一〇㎏プレートをつけてやっとシャフトの見栄えが良くなったベンチ台に仰向けになるとフォームを固め、五レップのあとラックに戻した。
「つぎ、おれは八〇㎏だから一〇つけたまま二〇入れて」
ベンチからオレが立ち上がったことを確認すると、神座先輩はそう言って補助の位置からシャフトの片側に移動してカラーを外し二〇㎏プレートを入れた。
神座先輩にならいカラーを外し、先ほど立てかけた二〇㎏プレート持ち上げていると、
「そろそろ、悠木がベンチを始めて一年になるんだな」
という神座先輩の言葉にプレートをセットする手が一瞬止まり、オレの黒歴史が脳裏に甦った。
「初めて会ったときは悠木、本当に死にかけで顔真っ赤になってたもんな」
そう、今でも鮮明に覚えている。
「ちょっと神座先輩、恥ずかしいんでそれ言わないでくださいよ……]
あのときシャフト単体の重さも知らず、五〇㎏に首を潰されてもがいたのは良い教訓だ。
オレは苦笑いを浮かべながら二〇㎏プレートを奥まで入れこみ、すでにあった一五㎏プレートに軽く当てて金属音を鳴らし、恥ずかしさを誤魔化した。
「いや、すまんすまん、悪気があって言ったわけじゃなくてさ。最初五〇㎏で潰れてた悠木が一年足らずで自分の体重以上のウエイトを上げれたってのが素直にすごいと思ってさ、今の体重はいくつだっけ?」
神座先輩はオレの表情を見て謝り、足らなかった言葉を継ぐように言った。
ベンチプレスをやっていれば神座先輩と話すようになっていたと思うけど、あそこで潰れていたから神座先輩と出会うキッカケが生まれたわけで、そう考えるとあれも良い出来事だったんだと思う、結果論的に。
「今の体重は五四㎏っすね」
このジムに通い始めたときの体重は五一㎏だった。
「それでベンチのマックスが五五㎏なんだから、順調なんじゃないか」
神座先輩は笑顔でオレにそう言い、オレも笑顔で、
「そうっすかね?」
と返し、神座先輩はすかさず「そうだよ」と返答したあと、素早くシャフト下のベンチに潜り込むように仰向けになり、フォームと重さを確かめるよう丁寧に八〇㎏のシャフトを二回上下させてラックへと戻した。
確かに去年の四月からジムに通うようになって今では全身に薄く筋肉の層ができたようになり、身体のラインにメリハリがついたのは自覚している。
ここまでは順調かもしれない、しかしオレは筋肉をつけるのに重要なテストステロンがほとんど分泌されない身体だ。神座先輩のようにウォーミングアップで六〇㎏を軽く一〇回上げて、マックスを一〇〇㎏以上を上げられるようになれるのだろうか。
「悠木は何キロまでやるつもり?」
考え事でまわりが見えなくなっていたオレの鼓膜を神座先輩の声が揺らした。
声の方を見ると、いつの間にか立ち上がりシャフトから二〇㎏プレートを外して、何㎏のプレートを入れようか待機してくれている。
「つぎは五〇㎏やって、今日は六〇㎏に挑戦しようと思います」
オレも神座先輩とシャフトの両端を間に挟んだ位置に移動し、ウエイトを外しにかかりながら言った。
「じゃあ一五㎏を一枚入れようか」
神座先輩はそう言い、シャフトに残していた一〇㎏プレートも外し、床に寝かされていた一五㎏プレートと入れかえてカラーを挿した。
オレもそれにならうが、床に寝た状態の一五㎏プレートは持ち上げるのが大変だ。
いつも神座先輩は造作もなく床とプレートとの間に指を入れ、片手で持ち上げているが、一五㎏の重さになってくるとオレはまずプレートの前にしゃがみ込み、プレートを床と垂直に立たせて両手で掴み抱えるようにしてから、そのまま大腿四頭筋に負荷を感じながら立ち上がりシャフトへと入れこんだ。
二〇㎏プレートが寝た状態だとさらに大変になるのだが、それは神座先輩も同じなのか二〇㎏プレートは極力床に寝かさずベンチに立てかけるなどして、持ち上げる際に苦労しないように工夫している。
オレはベンチの横で何度か大きくゆっくりと呼吸をして、シャフトのプレートを入れ替えた疲れを取ると、ベンチにタオルを敷き、その上に寝転がった。
仰向けに寝た状態で左右のセーフティーバーを押すように手をつき、肩甲骨を中央に寄せて十分に入れこむと、シャフトの八一㎝ラインに小指を合わせて軽く握り込んで少し腰を浮かせ背中にアーチを作ると、そのまま静かに尻をベンチへつけた。
このつぎに初めて挑戦する六〇㎏に向けてフォームは入念にチェックする。
フォームが固まったことを感じ、ラックからシャフトを外すと手の平から五〇㎏の重さが上半身に伝わってくる。
オレはシャフトがブレないよう、フォームが崩れないように意識して、背中のアーチで少し高くなったみぞおちの剣状突起あたりにシャフトを下ろしていき軽く触れたところで一気に押し上げると、まだ余裕のある重量のためスムーズに上げ切ることができた。
このとき、補助の位置にいた神座先輩は、いつの間にかオレの顔を跨いで立つ位置に移動していて、オレが腕を伸ばし上げ切った状態のままで保たれたシャフトに手を添えて軽く持ち上げると、ラックに戻す動作を手伝ってくれた。
先ほどの会話もあってか今、神座先輩に顔を跨がれている光景と、約一年前に初めて会ったときの光景が重なり懐かしさと少しの恥ずかしさが湧きおこった。
一度窒息死しかけたところを救ってくれた強烈な印象からか、ベンチプレスをしているとき神座先輩に顔を跨って補助をしてもらうと、自分の限界以上の重量に挑戦して潰れようとも、この人なら必ず助け出してくれだろうという信頼と安心感がある。
「五〇㎏はもう楽勝みたいだな」
神座先輩はラックにしっかりとシャフトがおさまったことを確認すると、シャフトから手を離して一歩後退し、まだ仰向けのオレに言葉を投げかけた。
たしかに今日はいつもより幾らか五〇㎏が軽く上がり、オレは手応えを感じながらベンチから立ち上がり、
「なんか調子良いみたいっす」
と、後ろを振り向きながら自然と浮かんだ笑顔でそう答えた。
この感じなら、今日六〇㎏上がるかもしれない。
「そういえば、神座先輩って料理するんですよね?」
オレは昼食時カフェテリアでの守野先輩と綾乃ちゃんの会話を思い出し、二〇㎏プレートをシャフトに差し入れようとする神座先輩に向かって聞いた。
「ん? まあ、料理はするほうだけど」
両手で持ったウエイトをシャフトに奥まで差し込み、そのまま寄り掛かったような状態で神座先輩は答えた。
オレもシャフトからカラーを外し、
「あ、つぎ九〇㎏っすね」
と言いながらベンチ台に立てかけてある二〇㎏プレートを両手で抱えるようにして持ち上げ、一五㎏プレートが入ったままのシャフトに継ぎ足した。
「今日、六〇㎏上がったらオレに料理作ってくださいよ」
オレも両手でプレートを押し込んだ状態のまま、少し寄り掛かるようにして、ベンチ台を挟んだ神座先輩に言った。
「もちろん作ってやるけど、六〇㎏の重さはまだ挑戦したこともないだろうに、上がったらって、そんな条件付けていいのか?」
神座先輩は少し意地悪そうに右の口角を上げながらそう言うと、プレートに置いていた両手を離してベンチ台にタオルを敷き始めた。
「だって、ご褒美が用意されてたほうがヤル気出るじゃないっすか。そういうので鼓舞したほうがオレは早く上にいける気がするんですよね」
神座先輩の料理が食べてみたい、そう素直に言えない代わりに降って湧いた理由をとにかく熱弁した。
「わかったよ、ご褒美になるような料理を作れるかは自信ないけど、六〇㎏上がったら何か作ってご馳走するよ」
神座先輩は口角を上げた意地悪そうな表情から、朗らかな笑みに変えてそう言いベンチに寝転び、
「この九〇㎏を本番セットにして一セット一〇レップ目指してやるから、潰れたときはお願いな」
と言葉を続けて、フォームを整え始めた。
オレは仰向けになり背中のアーチを作っている神座先輩の頭上に回って補助の位置につき、念のためセーフティーバーの高さにも目を配って首よりも高い位置にあることを確認した。
もし神座先輩が突然力尽きて九〇㎏をまったく上げられなくなった場合、オレの力では到底上げられる重さではないからだ。
しかし潰れるにしても、もうこれ以上シャフトを上げ切れないんだろうなと感じたところで左右手の指一本だけでもシャフトに添えてあげると、それだけで上げ切ることができるのがベンチプレスの不思議なところで低重量しか上げれないオレが補助につくことができる理由だ。
神座先輩はシャフトの八一㎝ラインに人差し指を沿わせて握り、背中のアーチと肩甲骨の寄りを今一度確認するとラックアップし、ゆっくりとシャフトを胸の前に移動させて止めると大きく息を吸い腹圧を高めてから背中のアーチで少し高くなったみぞおち辺りに腕を真っ直ぐ下げて上げる動作を一定のリズムで難なく一〇回こなしラックへシャフトを戻した。
いつもながらフォームとリズムが乱れることなく淡々と九〇㎏を一〇回上げる様には圧倒される。そもそもこんな軽そうに上げてるってことは、本当はもっと高重量でも上がるはずなのに……もしかしたら神座先輩はオレの補助では頼りなくて自分のやりたい重量をセーブしてオレに付き合ってくれてるのかもしれない。
扱える重量の差が大きいとプレートの入れ替えも手間だ、オレは神座先輩の邪魔になっていないだろうか……?
「つぎ、悠木は六〇㎏だな」
その言葉が終わらないうちに、いつの間にか立ち上がっていた神座先輩は二〇㎏プレートをシャフトに擦らせながらテルミンのような音を響かせて抜き、ゴムマットに跳ねさせることなく静かに床へ置くとベンチ台に立てかけ、シャフトに残った一五㎏プレートも外しにかかった。
「え、神座先輩、そんなことしなくても五㎏足せば六〇㎏じゃないっすか」
ウエイトトレーニング中によくあるのだが、高重量を上げたり高回数をこなしたりしたあとは脳が軽い酸欠状態になっいて、効率的な行動や簡単な計算ができなくなることがある。
たまにオレもやるし、神座先輩もうっかり六〇㎏はシャフトと二〇㎏プレートという、いつもの習慣で一五㎏プレートを外してしまったんだろうか。
「いいんだよ、悠木が初めて六〇㎏に挑戦するんだから、せっかくなら今までつけられなかった二〇㎏プレートでやらせてやりたいじゃん。ここまできたってことだよ」
神座先輩は一五㎏プレートを床に置くために屈んだ状態から立てかけた二〇㎏プレートを軽そうに片手で持ち上げ両手で持ち直すと、シャフトに入れ直し、プレートを軽く二回叩きながら言った。
そっか、とうとうこのプレートをつけたシャフトが上がるかもしれないというところまできたんだ。これが上がったところで、まだ神座先輩のウオーミングアップの重量だけど、いつか二〇㎏プレートをつけた重量を上げてみたいという思いはずっとあった。
もしかしたら神座先輩はそんなオレの気持ちに気づいてくれていたのかも。
オレも神座先輩にならってシャフトからカラーを外し、プレートを取り外しにかかるが、
「おれがやるよ、初めての重量に挑戦するんだから少しでも筋肉を休ませておきな」
という言葉と共に神座先輩は速足でベンチ台を挟んだこちらに向かうと、途中まで抜いたプレートをオレの横から両手で掴み、素早くプレートを入れ替えてカラーで閉じた。
オレは軽く頭を下げ「ありがとうございます」とお礼を言うと、ベンチにタオルを敷き、改めて二〇㎏プレートが入りラックにおさまっているシャフトを見つめた。
一五㎏プレートより一回り直径の大きいプレートが入ったシャフトからは重圧を受けると同時に見栄えが良くなり、どこか黄金比率的な美しさも感じられた。
「夕飯がかかってるんだから、気合入れてな」
補助の位置に立つ、穏やかな声の神座先輩の方を見ると、なんだか楽しそうだ。
「はい、潰れたらお願いします」
オレは息を吐き、ベンチを跨いでシャフトを背にして立つと腰を下ろして座り、そのままタオルを敷いた部分にゆっくりと後ろに倒れこんだ。
頭のすぐ近くに神座先輩を感じながら、左右にあるセーフティーバーに手を付き、それを両手で押し広げるようにして肩甲骨を寄せて中心に入れこむと、身体を頭上にズラすように床を軽く踏みこみ肩を下げ、顎を引き、胸から軽くアーチを作った。
オレはその肩甲骨を寄せ軽くアーチを作った状態が崩れないように、セーフティーバーに置いた両手をシャフトの八一㎝ラインに小指を沿わせて握った。
シャフトを掴んだだけでも、これが経験したことのない重さであることがよく伝わってくる。
オレはシャフトを握った状態で再び床を踏み込んでベンチから尻を浮かせて先ほどよりも入念に背中のアーチをさらに高くするとラックからシャフトを少し浮かせた。
ラックが全て受けていた六〇㎏の重さを手の平に載せたことによって手首、肘、肩の関節が沈みこみ寄せた肩甲骨が自然とさらに寄るのがわかる。
重い……五五㎏よりたった五㎏重いだけなのに、それ以上に重く感じる。
オレは手に載せた初めての重さを、眼前のラックの位置から慎重に、腕が真っ直ぐ天井に伸びる胸の前まで移動させると、浮かせていた尻を軽くベンチにつけて大きく息を吸い腹圧を高めた。
できる! 軽い! あがる! あげる! 絶対にあげる!
オレは脳内で叫び声をあげ自分を鼓舞すると、手に六〇㎏を載せたまま伸ばし保っていた腕を真っ直ぐ下に沈みこませるようにしてゆっくりと曲げていった。
腕を下ろし、シャフトが胸に近づくほど肩甲骨がまたさらに寄って重さを受け止めてくれている。力を出し切れるよう腹圧を意識し、重さに負けてアーチが低くならないようさらに顎を引き脚を踏ん張って、シャフトが剣状突起につき胸骨が少し沈んだことを視認すると一気に床を蹴り上げてシャフトを挙げにかかった。
脚と背中ともちろん大胸筋を総動員しての切りかえし、胸に触れたシャフトはゆっくりと持ち上がっていき、とくにぴったり寄り合った左右肩甲骨と、肩と胸の付け根にある大胸筋が使われているという激しい主張を感じながら、ゼロ距離だったところに隙間が広がっていく。
胸から一五㎝ほど持ち上がったところで、ピタリとシャフトが止まった。
あげたい! 潰れたくない!
そんな想いでオレは筋力を限界まで出し切って上げようとするも、やはりそれ以上は動かず胸から少し浮いた位置にシャフトを保つのに精一杯で、それを二秒ほど続けると重力に抗う力も減っていき、浮かせて保った位置から徐々に胸へとシャフトが下がり始めてきた。
もう……無理か……。
胸からわずかに上げて保った隙間が半分ほどになったときオレの顔に影が落ち、シャフトに添えられた右手順手、左手逆手のオルタネートでかぎ状にした中指が目に入ると、今までの重さが嘘のように軽くなり一気に上げ切ったところで手の平から伝わる負荷がまったくなくなり、自分の意思ではなくラックへとシャフトがおさめられた。
「ハア…ハア……」
神座先輩の股間越し、ラックにおさまったシャフトに両指を引っ掛けた状態を視界にとらえながら、オレはしばらく放心状態で大きく肩で息をしていると、顔に落ちていた影が晴れて、
「ナイスガッツだったな」
と楽しそうな声が耳に届いた。
呼吸が整ってきたので、オレはシャフトに引っ掛けた指に力を込めてベンチから身体を引き起こし立ち上がると、補助の位置にいる神座先輩のほうを振り向き、
「いやー、まだ六〇㎏は上がんなかったっす」
首を傾げながら、まだ少し荒い呼吸でそう言った。
「初めてやる重さはそんなもんだよ、けどもう少しだったな。手伝ったときも中指でしか触れてなかったし、脳にも六〇㎏の刺激が記憶されたはずで再来週には上げられるんじゃないか」
神座先輩はやはり楽しそうに笑顔でそう言った。
その言葉で、ウエイトトレーニングで高重量を扱うには筋力だけではなく神経系の働きも大事で、筋力が十分でも経験したことのない重量を上げようとした場合、脳が無理だと判断して上がらないときもあると神座先輩から以前聞いたのを思い出した。
じゃあ神座先輩の手料理はゴールデンウイーク明けまでお預けか。
「しかし、人が限界ギリギリでトレーニングしてるのを見ると楽しくなってくるな」
もしかして楽しそうにしてるのって、オレが息を荒くしているところを見て……? 神座先輩って実はSっ気があるのかも……。
「よしっ、おれも頑張ろう」
神座先輩はそう明るく自分に言い聞かせるように呟くと、素早く一五㎏プレートをシャフトに足すのを見て、オレもすぐさまそれにならった。
神座先輩はやはり九〇㎏の重さを簡単そうに一〇回上げ切りラックにおさめると、一度大きく息をついただけですぐさまベンチから立ち上がった。
「悠木、つぎは落として五〇㎏でやるだろ?」
言うが早いか神座先輩はシャフトの一五㎏と二〇㎏のプレートを外して、再び一五㎏プレートを入れ直しにかかった。
「あ、はいっ」
オレもプレートの入れ替えに取りかかるが、やはりこれはどう考えても手間だ。同レベルの人たちでベンチを回していたら、こんな頻繁にプレートの抜き差しなんて必要ないのに…。
「すいません、オレがいるからプレートの入れ替えが面倒で」
一五㎏プレートをシャフトに一枚だけ差し込み、九〇㎏から五〇㎏の重さに変え終わるとオレの口から自然とそう言葉がこぼれた。
その言葉に反応したのか、すでに補助の位置についている神座先輩がオレに微笑み、
「そんなの気にしなくていいんだぞ、面倒でも苦でもないんだし」
と全く気にしていないという素振りでそう言った。
「でも、一回一回やってたら時間かかっちゃいますし…補助だってオレ、役に立ってるんすかね……?」
神座先輩はオレの言葉に少しキョトンとした表情を浮かべて、黙り込んでしまった。
オレはいったいなにを言っているんだ……さっきの六〇㎏でまだ脳が酸欠状態になっているのかもしれない。こんなことを言って神座先輩からどんな言葉が返ってくるのか、聞きたくない答えがくる可能性もあるのに……。
「プレートの入れ替えなんてインターバルの内だよ、でもおれの重さに付き合わせているのは正直こっちも悪いなと思ってたんだ」
え……?
「悠木は使わない二〇㎏プレートを上げ下げさせちゃってるし、結構重いだろ? それに悠木が補助に立ってくれてるだけでつぎの一回は上がらないかもしれないという一回に挑戦して筋肉を追い込むこともできてるし」
オレも一人でベンチプレスをやるときは限界手前で余裕を持ってラックに戻したい。
もちろんセーフティーバーを安全な位置に上げて使用しているけど、潰れるのは精神的に嫌だし、もし潰れて隙間から抜け出してもセーフティーバーからラックに戻すためにプレートを外して軽くしてからラックに戻し、再びプレートをつけ直すという作業が面倒臭い。
限界まで追い込むなら神座先輩のように信頼している人としているときにやりたいと思う。
「それに一生懸命楽しそうにやる悠木を見てると、こっちも頑張ろうって気になるからな」
神座先輩はオレに笑顔でそう返した。
力はまだまだ及ばないけど、こんなオレでも神座先輩の役に立ててることもあったんだ。それが知れただけでも気持ちが楽になった。
「変なこと聞いてすいません……」
オレは軽く頭を下げて神座先輩に謝った。
「いいんだよ。今日はジムのあと暇だろ? 夕飯作ってあげるから家来いよ」
頭を下げたオレに神座先輩は軽く首を振ると、そう言葉を続けた。
「え? でも六〇㎏上がってないし……」
「六〇㎏上げたときは、そのときにまた料理作ってやるから。今日は悠木と出会って一年記念って理由でいいんじゃないか」
神座先輩はオレを納得させようとしたのか、矢継ぎ早にそう言った。
オレが最初に手料理をと言ったとき、たぶん神座先輩は六〇㎏が上がろうが上がるまいが作ってくれるつもりになってくれていたんだろう。
「だから今日は追い込んで空腹にさせておいてくれ」
もしかしたら変なことをきいたばっかりに、オレを元気付けようとして夕飯を作ってくれる気になったのかもしれないけど…そうだったとしても、それはそれで素直に好意として受け取り、今は追い込んで腹を減らすことを考えよう。
オレは五〇㎏がすでにセットされているベンチにタオルを敷いて仰向けになり、スタートポジションのフォームを整えると、素早くシャフトをラックアップした。
さっき初めてやった六〇㎏に比べると手の平から筋肉や関節に伝わる重さは慣れたもので、ラックアップから胸の上へのシャフト移動も楽に行うと腹圧をかけ、いつもの要領でシャフトを胸まで沈めて上げるという動作を繰り返していく。
一回目、重いがスムーズに上がり、腕を伸ばした状態でシャフトを保つと息を吐いて吸いこみ、腹圧を入れ直して再び腕を沈める。
二回目、一回目よりギクシャクし時間がかかったもののシャフトを上げ切り、その状態のまま細かい呼吸を数回したあと大きく息を吸いこみ腹圧をかけてから、ゆっくりと腕を下げ始めた。
三回目、ゆっくり下げたシャフトが胸についたのを確認し、そこから上げようとするもビクともしない。
オレの五〇㎏を上げる筋力は三回目で力尽き、微かに残った力で上げようと試みていたが胸に触れた場所に留めるのが精一杯で、徐々にシャフトは下がり胸骨を沈ませたところでビクともしなくなった。
「まかせろ」
その声と同時にオレの顔は神座先輩に跨られて影が落ち、胸に食い込んだシャフトをオルタネートでしっかり掴む両手が顎を引いて踏ん張っている視界に映った。
補助が入った瞬間から胸の圧迫感はなくなったものの、そこから一向に上げてくれない。
これはオレをさらに追い込むために、必要最低限の力は貸すけどあくまで自分で上げ切れということなんだろうか。
オレは神座先輩の力を借りながら、目をつぶり残った力を振り絞ってシャフトを上げようとするも胸から少し浮いたところから動かない。
神座先輩がこんな追い込みをかけてくるなんて……。
「神座先輩……もう、上がんないっす……!」
絞り出すような声で、そう伝えるも上げてくれる気配がない。
「ちょっと待ってくれ…」
なにやら困惑したような声が聞こえる。
「ごめん、指になにか引っかかって……」
んっ、指に……?
堅くつぶっていた目を薄く開けて、どういう状況なのかを確認すると補助のためオルタネートで逆手にシャフトを握った神座先輩の左手が、オレのTシャツを指先に巻き込んで堅く握られてしまっている……いや、それだけじゃない、シャツの下に巻いたさらしと皮膚の間にも神座先輩の指が入っているのも感じられて、それがシャフトを引き上げられない原因となっていた。
「んーーーー!! 神座先輩、これ一回…一回下げましょう!」
やばいやばいやばい! このまま上げられたら巻いたさらしが緩んで胸の膨らみがバレる!
オレはゆっくりとシャフトを下げてセーフティーバーに置くつもりで、上がらないまでも込めていた力を徐々に抜いた。
「大丈夫か⁉ すまん、今引き上げるからな!」
力を抜いたことが神座先輩に重さとなって伝わり、とうとうオレの力が尽きたと勘違いしたようで、さらに力を込めてシャフトが引き上げられようとする。
「いや、違っ、下げま……あ……」
さらしの巻きを留めるために入れこんでいた部分が外れたのを感じ、胸部の圧迫感が薄れて緩んでいくのがわかった。
あーーとれるとれる! 外れるって……ん?
巻きが緩むにつれて、さらしで固定していた女性化乳房で膨らんだ胸が背中のアーチにより鎖骨の方へ落ちると、さらしと皮膚の間に入れこまれた神座先輩の指に当たったのを感じた。
これって、神座先輩に胸触られてる!!
神座先輩の指は引っかかりを取ろうと小刻みに動いていて、その指先はTシャツの布越しにオレの脂肪が溜まった柔らかい胸をえぐるように何度も掻いた。
いや、ちょ…やめ……動かさないで……。
まだ誰にも触れられたこともない秘密の膨らみ、二つの要素が揃った部分をこんな公衆の面前で逃げられない状態のまま何度も触られ続けていることにオレの顔は恥ずかしさで温度が上昇し頭は真っ白になった。
セーフティーバーに置こうなんて考えずに、さっさとシャフトを上げてしまった方がこの恥ずかしい状態に早く終止符を打つことができるかもしれない。
もう、どうにでもなれ!
オレは再び残った力を振り絞ると、神座先輩の補助と共にシャフトを上げにかかった。
みぞおちの辺りを始点にして巻き、乳房の上で留めたさらしは、もうほとんど緩んでいて、かろうじて締め付けが残っているのは神座先輩の指が入り込んでいる上部だけ。
巻いた布同士の摩擦だけで耐えていたその上部の締め付けにも緩みが生じてきて、次第に巻きが解けてくると、もう一つの問題が出てきた。
さらしが緩むに比例してシャフトは持ち上がるが、巻き込んだTシャツも一緒に伸びて襟元の隙間が広がっていくのが見えた。
やばい、このままじゃ襟元から胸見えてバレる! でもここまできたら上げるしかないし……。
オレは顎を引き、シャフトが引き上げられるにしたがって広がっていく胸元を凝視しながら、バレないように見えないようにと祈った。
すでに自分の視点の先、広がった襟元からは二つの膨らみが見えてしまっていて、これ以上Tシャツが伸びたら神座先輩からも見えてしまう。
ああ……これ、もう……。
襟元から胸が出る……そう覚悟したとき、真っ直ぐ上に伸ばそうとしていた腕が予期せぬ力で顔の方に傾けられ、握ったシャフトに硬いものが当たった衝撃を感じると今まで載っていた重さから解放されると同時に伸びたTシャツが風と音を立てて元の形に戻った。
「はあ、はあ……」
しばらくラックにおさまったシャフト越しに天井を荒い息のまま放心状態で眺めると、まだシャフトを握っていた指の力を抜き無抵抗で腕が垂れるままにすると指先がゴムの床に触れた。
「はあ、はあ…」
腕が上がらない……。
まだ息は荒く、腕で胸の膨らみを隠しながら上体を起こそうとするも、筋疲労で張りに張った大胸筋が邪魔をしてベンチから垂らした腕を身体の位置まで戻すことも今は一苦労だ。
「大丈夫か?」
オレの顔を跨いでいた補助の位置から一歩下がった神座先輩が心配そうに、覗き込むようにして見下ろしていた。
「ひっ、だ、大丈夫です」
だから今、オレの身体をまじまじと見ないでください。
「シャツに指が引っかかってたんだな、本当に悪かった」
オレは張った大胸筋で動かしにくい右腕を胸の膨らみに置いて誤魔化し緩んださらしが落ちないようにすると、息を整える。
仰向けで寝た今の状態なら胸の膨らみは横に広がり、シャツにそこまで響いていないはず。このまま腕を胸に当てたまま起き上がってトイレ行ってさらしを巻き直せばバレずに済む。
「悠木、その胸…」
「えっ……⁉」
膨らみがバレた? それともさっき広がった襟元から見えていたのかも…。
神座先輩の言葉に目の前が真っ暗になり、今すぐここから逃げ出したい気持ちになった。
「いや、その……」
オレの目は泳ぎ、神座先輩の方を直視できない。
オレは右腕を胸に置いたまま、左手で眼前のラックにかかったシャフトを掴んで慌てて上半身を引き起こし神座先輩に背を向けるようにしてベンチを跨いで座った状態になると、仰向けの状態では脂肪が横に流れ潰れていた乳房が起き上がったことで重力のかかり方が変わり、脂肪がTシャツを擦りながら移動し胸の膨らみを取り戻した。
「ん、悠木どうした?」
オレは背後からかけられた神座先輩の声に一度身体を震わせ、左腕も胸に当てて右腕とクロスさせるように両腕を抱いて胸を潰し固定すると首だけで振り向き、
「な…なんでも、ないっす!」
と上擦りそうになる声を平静を装いながら発して答えた。
神座先輩、さっき胸がって言ってたけど、どういう意味なんだ? 今話しかけてきたときはオレの身体に疑問があるような感じはなく、いつも通りのトーンだったけど…。
「ちょっと、トイレ行ってきますね!」
オレは両腕を抱えたまま猫背で立ち上がり、極力神座先輩に身体の正面を見せないようにしながら早足でこの場を離れた。
神座先輩に聞いて確かめたいことはあるけど、とりあえず今はそんなことをしている場合じゃない。早く巻き直さなければ!




