04 新城 悠木 の 場合
壁の備え付けスピーカーから二限目の講義終了を告げるチャイムが棟内全体に響き渡ると、黒板をステージに見立てたような後ろの席にいくにつれて段々と高さが上がっていく半分にしたすり鉢状大教室内の生徒たちから、身体を伸ばす際に漏れる声があちらこちらから聞こえてくる。
オレもその声のなかの一つで、両指を組んだ手の平を天井に向けながら背中を伸ばし「ん~~」と声を漏らした。
だがまだ講義が終わったからといってすぐさま教室から出られるというわけではなく、この講義を受け持つ教授は講義終了後に学生番号と名前を書いた出席カードを提出したあとに教室からの退出となっている。
まだ新学期が始まったばかりの四月で出席率が良く、一度に何人が座れるのか数えたことはないが七割ほどの席が埋まったこの広い大教室で講義を受けていた生徒たちが一斉に教壇の教卓上に置かれた教授お手製ダンボール出席箱の前に並び、教授監視のもとで出席カードをポストへ投函するように差し入れていく。
オレも出席カードに自分の学生番号と名前を書いて、長机の上に広がった多くのメモを書きとどめたプリントをクリアファイルへ入れると、筆記用具とともにリュックへしまった。
教卓前の列が少し空いてきたころを見計らってオレは席を立ち、列の最後部へついた。
お腹が空いた、今日のお昼は何を食べよう。
この講義終了後、教室を出れるのは八分後でカフェテリアに到着するのはその二分後。
五月後半にもなれば出席率も落ち着いてもう少し早く教室を出れるだろうか。
前に並んでいる人間の数が少なくなっていき、ようやく出席箱の前まで到達すると、オレはダンボール製出席箱の面に空いた長方形の穴に自分の出席カードを差し入れてから教室を出てカフェテリアへと向かった。
二限目が終わったばかり、昼食時のカフェテリアはあまり好きではない。
キャンパス中の学生が安くて味の評判が高い昼食を求めて殺到するので単純に人が多すぎるのだ。別の棟にも昼食時限定でカフェテリアが開いているが、それがなかったら確実にパンクしていることだろう。
オレは天井が高く、ガラスが多用され外の光をよく取り込む空間に設計された、この時間賑やかなカフェテリアへ到着すると、まずは空いている席を確保するために混雑したテーブルの間を縫うように歩いた。
昼食時ということもあるが、なぜいつもこんなに盛況なのかは安さと味だけが理由ではなく、この設計された空間のオシャレ感漂う雰囲気と開放感がある居心地の良さにも一因があるとカフェテリアへ一歩足を踏み入れるたびにオレは思う。
「新城くーん、ここ座ればー?」
声の方を見ると、同じゼミの女子が四人掛け正方形のテーブルに三人で座り、一人が空いた一つの席を指しながら、こちらに手を振っている。
女子三人で行われている昼食の輪に加わるのは少し勇気がいるが、話に盛り上がった知らないグループの隣に一人座って食べるよりはマシだろうか。
オレはもう一度辺りを見回し……知った顔を見付けた。
「ありがとう、でもこっちで食べるから」
オレは手を振って三人組の誘いを断ると、目当ての空席の前まで進み自分のリュックを置いた。
「なんでわざわざこっち来るのよ、カワイイ娘たちに誘われてたじゃない」
トレイに載った一口も手を付けていないピラフを前に頬杖をつき、うんざりしたような目をこちらに向けられての言葉だった。
「いいじゃないっすか、守野センパーイ。飯買ってくるんで席取っといてくださいよー」
オレはリュックから財布を取り出し、手に持つとカフェテリア入口付近に置かれた食券販売機に向かった。
三台ある食券機前には数人の順番待ちがあったが、すぐに捌けて食券機前に到着するとオレは迷わず日替わりランチ定食、チキンのトマト煮定食四〇〇円のボタンを押して財布をICカード読み取り部に近づけた。
混雑時は素早くメニューを決め、お金の投入や釣銭の手間がないICカード決済が暗黙のルールとなっている。
オレは食券を拾いあげ積まれたトレイを一枚取ると、そこにスプーンと箸と数枚の紙ナプキンを載せて調理場とカフェテリアとを仕切るように伸びる品出し用カウンターの定食コーナーまで進み、カウンターに沿うように並ぶ列の最後尾についた。
白い割烹着に身を包んだ調理場の人は出された食券の順にしたがって慣れた無駄のない動きで、回ってくるトレイの上に各々定食のメニューを盛った食器を載せていく。
オレのトレイにも目当ての定食が載せられたので、カウンターからそれを持ち上げ確保した席に向かった。
意外と定食を受け取るまでに時間がかかってしまったな。
オレがなぜ同じゼミ仲間女子三人からの誘いを断り、守野先輩の確保したテーブルに着いたかというと、守野先輩のいるところには必ずではないが高確率であの人がいるからだ。
最近大学で見かけてなかったから、久しぶりに今日会えるといいんだけど。
確保した席へ近づき、残した守野先輩の後ろ姿を確認すると、隣に見慣れないブレザーの制服姿という大学に似つかわしくなく、肩まで伸びた白みがかったブロンドの髪が目立つ女子高生が座っている。
そういえば今年から高等部に新設された国立大学進学科がこの棟で授業を行うとか、その進学科のなかに小さくて可愛い外人の女の子がいるとか聞いたな。
「定食受け取るまで時間かかっちゃいましたよ」
オレは背後からテーブルを回り込み、二人の正面に来るとそう言ってテーブルにトレイを置き、椅子のリュックへ財布を戻したあと背もたれにかけて、そこへ座った。
今まで楽しそうに会話をしていた二人だが、外人の女の子はオレの姿を確認すると押し黙り、困惑の表情を浮かべている。
「ほら、驚いちゃってるじゃない、自己紹介しなさいよ」
確かに、急に茶髪の男が同じテーブルに座ってきたら女子高生はビックリするだろうな。
「オレは守野先輩の一つ後輩で二年の新城悠木、これといった趣味はない」
オレは斜め前に座る外人の方を向き、簡単な自己紹介を終えると、彼女からの自己紹介を待つためしばらくそのままの状態を保った。
彼女は噂通りの小柄で、透き通るような白すぎる肌と小さい顔の中にもしっかりと鼻筋が通り尖った小鼻に、はっきりした二重瞼から覗く碧眼がとても印象に残る容姿だ。肩まである白みがかったブロンドの髪は切り揃えられている訳ではなく、ただ伸ばしっぱなしなだけのようで、整った人形を思わせる容姿の中で、それが辛うじて人間味を感じさせる部分だと感じた。
それと彼女の前に置かれたトレイの上には幾つかに切り分けられた揚げが載ったキツネうどんと揚げ出し豆腐の小鉢があり、整った白い顔の金髪碧眼とのミスマッチがシュールだ。
その、まだ困惑の表情を浮かべた整った顔の碧眼に見つめられていると、彼女は突然口に真っ白い右手を当てがって隣に身体を伸ばし、守野先輩に耳打ちを始めた。
あれ、まさか日本語があまり得意じゃない?
守野先輩も少し身体を傾けて耳の位置を下げながら隣に寄り、彼女の口元に耳を近づける仕草をすると、なにを聞いたか守野先輩の口角は上がり肩を揺らして鼻から息を漏らしながら軽く笑ったあと、守野先輩も同じようにブロンドの髪に隠れた耳に、手を当てがった口を近づけて耳打ちで返した。
この女子高生、ちゃんと授業についていけてるのか?
「えっと…ボクは今年から高等部に新設された国進科に入学しました一年の綾乃晶です、よろしくお願いします」
彼女は発達した大きい膨らみが邪魔そうに、右手を胸に当てながらスラスラとそう言った。
アヤノアキラ? 純日本人の名前だし、イントネーションにもおかしいところはなく、とても流暢な日本語を話すことに驚いた。
「ボクは日本人ですよ、名前の漢字は……」
まるでオレの心を読んだように彼女はそう言葉をつけ足したあと、少し目線を上げて、
「綾羅錦繍の綾に乃至、乃ちの乃、結晶、晶かの晶です」
見えないボードに人差し指で漢字を書きながら丁寧に説明をした、と思っているのなら伝え方が難解で下手すぎるだろ……。
日本語がカタコトしか喋れなかった場合どうしようかと思ったがその心配はなさそうだし、日本人だと言ってるなら、まあいいか。
「で、守野先輩、さっきなにを内緒話してたんすか?」
オレがそう尋ねると、綾乃晶は大きい目をさらに大きく見開いて青い目を際立たせ守野先輩の方を見ると慌てて首を振り、言わないで欲しいとの意思表示をうかがわせた。
「大丈夫よ、晶ちゃん」
晶ちゃんって呼ばれてるのか。
隣にそう声をかけると、守野先輩はからかうような笑顔を浮かべてオレの方に向き直り、
「晶ちゃんがね、この人は男の人ですか? 女の人ですか? だって」
笑いを堪えながら、そう明かした。
「ちょ…守野さん……」
綾乃ちゃんは申し訳なさそうに、オレと守野先輩の方をチラチラと見ては顔色を窺っているようだ。
まあ確かに声変りが訪れなかったオレの声は高い方だし、テストステロンが足りない中性的な容姿と相まって初対面の人間からは女だと間違えられ続けていて、そのことにはもう慣れている。
「綾乃ちゃんだっけ、オレは男だよ」
オレは箸を右手に持ち、味噌汁に先端をつけながらそう答えた。
「そもそもあなたがキレイ過ぎるのが悪いのよ」
また守野先輩のやっかみが始まった。
オレは構わずに、トマトで煮込まれた一片の鶏もも肉に辛うじて形が残っているトマトを載せて箸で掴むと口へ運んだ。
煮込まれて角の取れたトマトの酸味とコンソメで味のついたジューシーな鶏もも肉と鼻から抜ける微かな黒胡椒とニンニクの香りに空腹とは別の食欲が駆り立てられ、そこにご飯を口に運んだ。
「なによ、その中性的なルックスと高い声に、きめ細かいキレイな肌とサラサラな髪は…なんにもやってないのに反則でしょ」
ご飯を加えて口内調理をすることによって、塩分や鶏の脂分がマイルドになり、さらに美味しく食べやすい味に変化する。
あまり男に言うことではないが悪口ではなく、すべて褒め言葉で固められた守野先輩の本音で言うやっかみに嫌味はない。
オレは口の中のものを飲み込み、
「つまり、美しさは罪ってことっすかね」
と、ご飯茶碗とお箸を持ったまま作り笑顔を守野先輩に向けて、冗談めかして言った。
「くぅー、例え冗談でもキレイなのは事実だし腹立つわー……」
守野先輩は目をつぶり鼻に皺を寄せて嚙み合わせた歯を見せると、その顔のまま悔しそうに首を数回振った。
実家にいたときはこのように言い返すなんて考えられなかった。両親が放つ言葉は一方通行で、オレが返して事が荒立たない言葉は「そうだね」と「わかった」と「わからない」の三つだけ。例えば両親が見当違いのことを言っていたとして、それを指摘した途端に謂われもない言葉で固めた怒声が一〇〇倍になって返ってくることが常だった。
そのせいか外で友達になにかを聞かれても、明確な答えがあるものには答えを、それ以外の意見を求められている場合には、自分の意見ではなくマジョリティーに沿った意見を必要最低限の言葉でしか返さずに会話をしてきたが、大学のゼミを受けるにあたって考えを述べる会話の重要性と、自分の考えを言ったからといって普通の人は怒り狂って怒鳴り散らさないということが分かってきたので、実家から離れ大学に入学して一年が過ぎ、やっと冗談を織り交ぜた会話をこうしてできるようになってきた。
オレと守野先輩とのやりとりを初めて見る女子高生の綾乃ちゃんの視線は少し心配そうに、隣と斜め前にある顔を行ったり来たり繰り返している。
「あー、晶ちゃん大丈夫よ。悠木との会話はいつもこんなものなの」
守野先輩は隣で一触即発かと心配そうな表情をしていることに気がつくと、オレに話すときは違う声のトーンで誤解を解いた。
「それ、守野先輩がオレの名前を呼ぶときのアクセントの置き方が、さらにオレの性別を分からなくしてるんすよ……なんでわざわざ名前で呼ぶんすか……」
オレは箸をスプーンに持ち替えるとトマトソースと一緒に味が浸み込んだシメジを掬いながらうんざりしたように言った。
「よく似合ってる名前じゃない、ちゃんを付けて呼んであげましょうか?」
ユウキという男女どちらにもありそうな名前を持ったテストステロンが足りない中性的な人間がちゃん付けで呼ばれていたら絶対誤解されるに決まってる……。
「せめて君付けでお願いします……」
オレはスプーンを口に運びトマトソースの味とシメジの歯ごたえで敗北感を誤魔化した。
しかしさっきから綾乃ちゃんの視線を顔と胸に感じるんだが、もしかして胸にさらしを巻いてることがバレてるのか? でもTシャツの上には半分以上ジッパーを下ろしているとはいえパーカーを着てるし、そもそもなにか違和感があったとして普通さらしを巻いてるなんて発想が出てくる女子高生はいないだろう。
「ふーん、本当に男の人なんですね、でも……」
綾乃ちゃんはオレが男だと明かしたあとも信じていないような困惑したような表情を浮かべ、なにかを言いたそうだったがどうやら納得したようだ。
オレは自分の胸元に視線を下ろし、Tシャツの上に女性化乳房の膨らみか、さらしの線が浮き出ていないことを確認するとジッパーを八分目あたりまで引き上げた。
「そういえば来週からゴールデンウィークだけど、高等部のお休みはどうなってるの?」
守野先輩はスプーンで皿を撫でて少なくなったピラフを一か所に集めながら、高等部の綾乃ちゃんに向けて言った。
「GWのお休みはカレンダー通りです」
綾乃ちゃんの方は小鉢の揚げ出し豆腐を箸で半分に切りわける動きを止めて守野先輩にそう答えた。
「でも、大学がお休みだと、いつもの教室が使えないんじゃないの?」
確かにそうだ。高等部のGWはカレンダー通りかもしれないが、大学の休みは四月二九日から途切れることなく五月の連休が明けるまで続き、その間は研究室や一部の実験室以外は閉めるはず。
「大学図書館の開館はカレンダー通りなので、そこの自習室兼カンファレンスルームを借りて授業をするらしいです」
「あー、なるほどね」
綾乃ちゃんの答えに守野先輩が納得するが、オレはGW中も大学の図書館が開いてることを初めて知った。
「でも、GW中はこのカフェテリアも棟にあるコンビニも閉まっちゃうし、昼食や夕食は大丈夫なの?」
守野先輩は心配そうに身を屈めて左隣を向くと綾乃ちゃんにそう声をかけた。
ご飯を心配するってどういうことだ?
「カフェテリアを利用しなくても今まで土日を過ごしてきてますし、学校の昼食にはおにぎりを作って持って行きますから心配ご無用です」
守野先輩の質問に綾乃ちゃんは口の揚げ出し豆腐を飲み込んだあとにそう答えた。
どうやら綾乃ちゃんは一人暮らしをしているみたいだ、高校生なのに大変だな。
「それと二九日にお母さんがマンションに来てくれて、五月の連休になったら一緒に帰ることになってるんですよ」
綾乃ちゃんの声はうわずり、とても嬉しそうに話した。
「それなら安心ね。晶ちゃん、久しぶりに親御さんに会えるのが楽しみって顔してるわよ」
「え、そうですか?」
守野先輩の言葉に綾乃ちゃんが疑問符を投げかけると、すかさず、
「うん」
と守野先輩が返し、二人はお互いに顔を向かい合わせて笑った。
オレはあんな汚い実家に帰りたくないし親に会いたくもないが、やはり実家を離れて暮らしていると親が恋しくなるのが普通なのだろうか。綾乃ちゃんを見ていると、それがよく伝わってくる。
「そういえば守野さんのGW中の予定はどうなってますか?」
綾乃ちゃんはなにか思い出したかのように、はっとなり守野先輩にそう投げかけた。
「私はいくつかバイトが入ってるけど、どうしたの?」
「この前、看病してもらったことをお母さんに話したら、お礼としてなにかご馳走したいと言ってまして」
綾乃ちゃんは親元を離れて暮らしていても、ちゃんと親と会話をしているんだな。それだけでとても良い家族なんじゃないかと思えてきた。
「お礼なんていいのよ……あのとき買い出しや料理諸々してくれたのは神座くんで私は本当になにもしていないんだし」
なにがあったかは知らないが、守野先輩は胸の前で手を振りながら、綾乃ちゃんの申し出にやんわりと断りを入れた。
しかし、神座先輩が料理をするなんて初耳だぞ。
「それに、晶ちゃんが私みたいな人間と付き合いがある、なんてお母さんに知れたら……ね」
守野先輩は胸の前で振っていた左手を止めて軽く閉じると、複雑そうな表情を浮かべて、そう付け加えた。
「え? 守野さんのこと詳しくは伝えてませんが、ボクのお母さんは、そんなことを気にする人間じゃありませんよ」
綾乃ちゃんは守野先輩の言葉を笑顔で軽く受け流した。
「ああ、いや、晶ちゃんのお母さんのことをそんな風に言った訳じゃなくて、えっと、その……」
「じゃあ来てくれますね」
しどろもどろになった守野先輩に綾乃ちゃんはそう笑顔で言うと、
「では、お言葉に甘えて…」
そう返すしかなかったみたいだ。
この二人の会話を聞いているだけで確信できたのは、綾乃ちゃんの家族仲はとても円満で母親のことをああも言い切れる信頼関係も持ち合わせた良い家族だということだ。
オレが家族のことを説明しなければならなくなった場合、思うところを正直に答えるべきなのだろうか? それともまったくの嘘で固めて良い家族を醸し出そうか、嘘は言わないまでも言葉を濁し曖昧に伝えるべきか? そんな考えがまず頭を過ってしまう。
オレは家族のことを堂々と話す、目の前の女子高生を羨ましいと思った。
「守野先輩、GW中はバイト三昧じゃないんすか?」
連休中といったら稼ぎ時でバイトを詰め込んだりするが、守野先輩はいくつかと言った。
「私、バイトは短期じゃなくて長期でコンスタントにやってるから、連休だからってあんまり出勤増やしたりすると年収が一〇三万円超えちゃうのよ」
今まで前を向かず顔を横にしたまま隣同士で話し込んでいた守野先輩はオレの声に気づくと、こちらを向いて話を続けた。
「あなたも気をつけなさいよ、長期休みとか連休中にバイトを頑張ってお金稼ぎすぎたら勤労学生控除を受けないと余計に税金がかかってくるし、世帯主にかかる税金が増えて迷惑かけちゃう。それに一三〇万円以上の年収になったら国民健康保険や国民年金を自分で支払う義務が出てくるしで大変よ、だから基本的には一〇三万円を超えないように考えてバイトしないと」
守野先輩はつらつらと講釈を述べるが、よくもまあ色んな知識があるものだといつも感心してしまう。
守野先輩がいつも言っていることだが、私みたいな人間は生きていく上で必ず苦労するから資格や知識で武装しないとダメなのよ、という言葉が思い返された。
大学を卒業したら、あんな両親とは一切関わらずに生きていくつもりだと心に決めているが、今すぐにでも一人立ちできてしまえそうな守野先輩に比べるとオレのスペックはまだまだ弱いと思い知らされる。
「一〇三万円、そんなのありましたね。気をつけます」
オレは忠告してくれたことへの感謝をあえて出さず、軽い口調でそう答えた。
「そういえば、綾乃ちゃんのお母さんは二九日に来て五月の連休で帰っちゃうわけですよね。守野先輩、その間に時間あるんですか?」
守野先輩の話が長くならないよう、オレは話題をもとに戻すため、そう言った。
「あ、そうだったわね、GWの予定は……」
守野先輩は椅子背もたれに掛けたトートバッグの外ポケットからスマートフォンを取り出して電源ボタンを押すと、画面をタップしなにやら確認を始めた。
「GWがどうしたって?」
オレは突然頭上からした声の方へ顔を向けた。
声を聞いただけで、もうその主が誰かは分かっている。守野先輩のいるところに……いや、その人のいるところ守野先輩ありだ。
「神座先輩っ」
「神座くんっ」
「神座さんっ」
テーブルについているオレと向かいの二人が声の主に気がつくと、一斉にその人の名前を呼んだ。
神座先輩を呼ぶ守野先輩の声のトーンがオレと話すときは違うのはいつものことだ、しかしそれが綾乃ちゃんの声にまで当てはまってしまうのを見るに、オレってあまり歓迎されてないのか……。
「よう悠木、大学で会うのは久しぶりだな」
神座先輩は親子丼と味噌汁を載せたトレイをテーブルに置き、背負っていたリュックをオレが座る隣の椅子を引いて背もたれに掛けてそこへ座った。
「こんにちは綾乃ちゃん、元気になったみたいでなにより」
神座先輩は両手をテーブルについて少し前屈みになり、綾乃ちゃんの顔を覗きこむようにして言った。
「神座さんのおかげです。薬や金土日と料理をしてくれて、ありがとうございました」
綾乃ちゃんは顔を見られるのが恥ずかしいような素振りを見せたあと、両手を膝に置いて深く頭を下げながらそう言うと、神座先輩は首を軽く振り「気にしなくていいんだよ」と小さく返した。
「眞緒、本見つかったよ」
神座先輩は向かいの二人に声をかけたあと、手を合わせてからスプーンを手に取り親子丼を大きく掬って口に入れた。
「すごーい、著者もタイトルも忘れてたのに、よく分かったわね」
守野先輩は皿に残った一口分ほどのピラフをスプーンで一か所に集める手を止めて驚き、そう言った。
神座先輩は守野先輩の言葉のあともしばらく頬張ることを続け、ものを完全に飲み込んでから、
「内容は覚えてたからね、本校と他校がPDFで公開してるそれっぽい論文を見つけて、その参考文献から検索してみたんだ」
と口を開いた。
「あー、そんな探しかたもあるのね」
守野先輩は感心しながらそう言い、皿の上のピラフをキレイに掬い取って口に運んだ。
「あの神座さん、食事の件なんですけど……」
綾乃ちゃんは空になった食器を前に手持ち無沙汰そうにして、二人のやり取りが終わったのを見計らいソワソワしたように尋ねた。
やはり綾乃ちゃんの質問にも、親子丼をスプーンで大目に掬って口に入れていた神座先輩はすぐに答えられず早めに、しかしよく噛んで飲み込んでから口を開いた。
「わざわざ、ご相伴を与るなんて悪いし必要ないんだけどな…」
事前にお伺いを立てられていたのか、綾乃ちゃんの少ない言葉に神座先輩は反応し、困ったように左手指の腹で顎を触りながら言うと、少し悩んでから、
「四月二九日から五月一日の間なら空いてるよ」
上に向けていた目線を綾乃ちゃんに下ろしてから、そう続けた。
「私は四月三〇日なら一日空いてるわ」
綾乃ちゃんが話題を戻したことで、守野先輩は思い出したかのようにスマフォを手に取り画面を確認すると、隣を向いてそう答えた。
「じゃあ三〇日に、時間はまた連絡するということでお願いします」
綾乃ちゃんは二人の返事を聞くと表情が綻び、嬉しそうに言うと、神座先輩と守野先輩は笑顔でそれを了承した。
「今日、おれジム行くんだけど悠木は行くのかな?」
今まで、ほぼ会話に入る余地がなく、すでにご飯とチキンのトマト煮を平らげ、残った豆腐とワカメの味噌汁を口に傾けているときに、神座先輩はオレのほうを向いてそう聞いてきた。
オレは椀に張り付いたワカメも箸で掬い、中身を空にすると急いで飲み込み、
「行きますっ! が、今日は五限まであるので一九時くらいになると思います」
まだ履修して間もない時間割を思い浮かべてから、そう答えた。
「そっか、じゃあおれもそのくらいの時間に行くから」
神座先輩はそう言うと、ご飯と鶏もも肉が閉じられた卵が山盛りになったスプーンを大口で入れこんだ。
「ちょっと悠木ちゃん……神座くんと話をするときと私と話をするときで態度から声のトーンまで全然違うんですけど……」
守野先輩がわざとらしくオレをちゃん付で呼び、ジト目を向けてさらに言葉を続けた。
「それに私には悠木って名前で呼ぶなって言っておきながら、なんで神座くんが名前で呼ぶのはいいのよ⁉ あんた、ちょっとあやしいのよね……」
守野先輩はジト目のまま探るようにオレを見ながら含みを持たせて言った。
「あやしい? ………えっ⁉」
隣で聞いていた綾乃ちゃんは守野先輩が言う含みをしばらく考えると、なにかに気づいたのか驚きの声を上げて、オレと神座先輩を何度も交互に見た。
あやしいってなんだよ、神座先輩と普通に話してただけじゃん……。
オレは少し呆れて守野先輩の言葉を受け流し、図らずも疑惑に巻きこでしまった左隣に座る神座先輩を見ると、意に介した様子もなく丼を空にしスプーンを使いながら味噌汁を啜っていてホッとした。
「守野先輩とはイントネーションが違うんですよ、神座先輩はちゃんと男っぽく名前を呼んでくれてるからいいんです」
どこが違うかと言われると明確に説明がしずらいのだが。
「あれ、もしかして悠木って名前で呼ばれるの嫌いだった?」
親子丼と味噌汁を完食し、口に含んだ麦茶を飲み込んだ神座先輩が会話の文脈から気になったのか確認するように尋ねてきた。
神座先輩、相変わらず食べるのが早い。
「いえ、神座先輩は今までどおりオレのことは悠木って呼んでください!」
オレはすぐさま反応し、隣の少し高い位置にある神座先輩の顔を見上げながらそう答えると「おう」と頷きながら短い返事がされた。
「だーから、そういうのがあやしいって言ってんのよ。なによ上目遣いでオレのことは悠木って呼んでください。って……これ以上ライバルが増えるのは勘弁してほしいわ……」
守野先輩は頭を抱えながらそう言うのだが、ライバルってなんだよ。
「あ、やっぱり……新城さんも狙ってるんですね……」
守野先輩の言葉で驚いたように、手を口に当てた綾乃ちゃんも続いておかしなことを言い始めた。
さっきから二人はなにを言っているんだか、最近は意味深なことを言い合う遊びでも流行っているんだろうか。
左腕の腕時計に目を向けると、そろそろ三限の講義が始まる時間だ。
「オレは三限があるので、先に失礼しますね」
そう言い、オレは立ち上がって椅子の背にかけていたリュックのショルダーストラップを右手で掴んで持ち上げそのまま肩に掛け、もう片方のストラップに左腕も通しリュックを背負うと、少し腰を屈めて空の食器が載ったトレイを片手でテーブルから持ち上げた。
「じゃあ神座先輩、後ほどジムで」
オレは挨拶を済ますと、来たときと比べて利用者が半分程度になったカフェエリアのなかを食器返却口の方へと進んだ。
一九時からのジムに備えて、五限の前に軽く食べておかなきゃな。
オレは昼食を済ませたばかりのなか、もう次に何を食べようか考え始めていた。




