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03 新城 悠木 の 過去

 僕は無事に第一志望の大学を一般入試で合格し、大学生生活を送るためのアパートで一人暮らしを謳歌し始めてから三週間が過ぎようとしていた。

 僕だけが暮らすこの空間には物を散乱させ、不用品で山を築こうとする者はなく、足の踏み場を間違えると足裏が埃だらけになるといった埃の絨毯も、ここの間取り一DKフローリング床には積もっていない。

 なにが気に入らないのか、なにがいけなかったのか僕に向かって突然怒鳴り声をあげる父親も、僕が言うことすることに対して否定的なことしか言わない母親もいない。

 実家では今まで心に鬱々としたわだかまりを抱え、息を押し殺して生活していたのが嘘のように毎日が静寂で平穏で、ちょうどいい広さのこの部屋で、もうずっとここで生活をしていたい気分だ。

 僕が一人暮らしをするにあたってこだわったのは部屋に置くものを極力抑えて、掃除のしやすい環境にしたことだった。

 家具は脚付きかキャスター付きのもので、掃除の際は家具下の床にも掃除機やクイックルワイパーなどのモップが容易にかけられるようなものだけを選んだ。

 料理は苦手だけど大学カフェテリアのメニューが安く豊富で、お昼は大学で定食を食べ、夜間も営業しているので夕食もそこで食べてもいいし、汁物以外なら頼めば容器に詰めてくれるのでお弁当として持ち帰りアパートで食べてもいい。

 あとは袋ラーメンやカップ麺、レトルトカレーにレトルトパスタソースを常備しておけば食は事足りる。

 今も茹でたスパゲッティに缶詰のミートソースをかけたものを夕食としている最中だ。

 実家で母親が茹でたスパゲッティは柔らかく美味しいとは言えないものだったが、自分で何度かやっているうちにスパゲッティの茹で加減も分かってきて、料理に関しても母親はズボラだったんだと知ってしまった。

 自分で茹でたスパゲッティのアルデンテを堪能していると、スマートフォンが数回振動しメールの受信を僕に知らせた。

 そのメールは父親からで、自然と溜め息を漏らしながら僕はスマフォをタップしメールを開くとメールの内容は短じかく、

 [ゴールデンウイークに親戚で集まるから一度帰ってきなさい]

というものだった。 

 大学のGWはカレンダー通りというわけではなく、祭日の初日から間の平日を挟み、五月五日子供の日までの約一週間が完全に休みとなる。

 春休みが明けて、途端に訪れる大型連休に肩透かしをくらい、とくにGW中になにをするなど決めてなかった僕は学費や仕送りを出してもらっている手前、負い目を感じている面もあり、父親の命令に渋々了承しGW初日に行われるという親戚同士の集まりに合わせて帰省することになった。

 結論からいうと、この帰省はとても後悔するものだったのだけど。

 親戚が集まって食事をする会場は実家最寄り駅のホテルに入った中華料理店だったので、僕は会食時間に合わせて駅に到着し直接ホテルへ向かうと一同はすでに到着していた。

 会食中は僕が有名大学に合格し通っていることの話題で持ちきりだったが、

「この子はなにをやらせてもダメなんだけど、私が根気よく勉強をさせたから受かったようなものなのよ」

と母親が言えば、

「今回はただ運が良かったんだろ、そうじゃなきゃこいつの頭で受かるはずがないからな」

と、やはり両親は僕を下げるようなことしか言わず、それだけならまだしも父親と母親は大学合格の功績がさも自分にあると言わんばかりの言葉も続ける始末だ。

 僕を呼んだのは差し詰め、有名大学に僕を通わせている自分たちを親戚たちに自慢したいがための出汁に使いたかっただけなんだろう。

 その証拠に親戚からの「悠木くんはすごい」という言葉を「いや、こいつは本当にダメで……」とことごとくうちの両親は否定し続けた。

 そして会食後はホテルに宿泊する親戚を残し、お酒を飲んだ両親に代わって車を運転すると、足の踏み場もない物が散乱した実家へと帰宅した。

 僕は玄関をくぐり目の前の、物が乱雑に置かれ溢れかえった光景を目にすると、瞳孔が開き動悸がしてくるのを感じた。

 大学の入学式前からアパートで過ごしていたので約一か月振りの実家だ…たった一ヶ月しか経っていないと思っていた。

 そこはもう見慣れた光景ではなく、この不衛生な家に身体が拒否反応を示すとともに早く物が少なく清潔に保ったアパートに帰りたいと切に思った。

「今日は疲れたから、もう寝る……」

 瞳孔が開き動悸がして目の前が真っ白になりそうな気分を抑え、両親にそう言うと、この家の中で唯一整理整頓され心の拠り所だった自室へ急いだ。

 僕が家を出てから二階へ上がる機会が減ったんだろう、いつも踏んでいた床を選び二階へ上がるも、靴下の裏側に埃が蓄積していくのが分かる。

 床と靴下の間に埃の層ができて、それを踏む足の裏が気持ち悪い……この靴下は部屋で脱がなきゃ。

 僕は自室前に到着しドアを開けると、ドア枠すぐ横の壁にある照明スイッチへ腕を伸ばして部屋の蛍光灯をオンにした。

 蛍光灯が数回瞬いて明滅し、安定した光が部屋中に照射されると、その跳ね返った光は僕の角膜を通り虹彩が光量を調節、水晶体がピントを合わせて硝子体を通過し網膜にぶつかった映像が視神経を通り脳に伝達された。

 この部屋に広がる光景が信じられず、こめかみの部分が熱くなって自然と眼輪筋に力が入り涙袋が膨らんでいるのが感じられる。

「あの糞親共、ふざけんなよ……」

 僕は自室に一歩入ったところで呆然と立ち尽くしながら、あまり出力の高くないモーターで駆動する監視カメラのように、ゆっくりと首だけを動かし部屋の隅々にまで視線を向けると、ごく自然に口から悪態がこぼれた。

 この家で唯一掃除が行き届き整理整頓されていた一ヶ月ぶりに見る僕の部屋は、大量のダンボール箱や座面が破れた椅子、壊れて首がわっていない扇風機に壊れた液晶ディスプレイなどの物で溢れかえり、床の見える面積が著しく減少していた。

 押し殺した怒りで眼輪筋が不随意運動を始め、小刻みに瞼が動きだした。

 この部屋の中だけが僕にとって唯一自由に歩けて、羽を伸ばすことができる空間だったんだ……それを一ヶ月、家から離れただけで、あの糞親共は。

 あの糞親共は親戚の前で僕の大学合格をさも自分たちの偉業たらしめるよう語るために帰ってこいと言いつけて、帰ってきてみれば僕の部屋はまるでゴミ置き場になっていて、この家でたった一つ僕の居場所まで奪われていた。

 あいつらにとって、僕はいったいなんなんだよ……。

 僕はジーンズの尻ポケットからスマフォを出して、実家最寄り駅からアパート最寄り駅までの終電時刻を確認した。

 今から歩いて駅に向かっても、まだ余裕がある時間だ。

 僕は電気を消して自室から出ると、ゆっくりとドアを閉めて、ドアが閉じきる最後の瞬間まで暗い部屋を覗き込みながらキレイだったひと月前までの光景を思い浮かべ、それをそこに見ながら静かな音を立ててドアを閉め切った。

 僕は閉めたドアの前で小さく首を振りながら大きく息を吐き、玄関へ向かうと、靴下裏の埃を払ってから靴を履き、玄関ドアを開けてこの家を出た。

 結局、実家で過ごした時間は一〇分ほど。その間、一泊分の着替えが入ったリュックを肩から下ろすことはなかった。



 実家からアパートへ帰った翌朝、スマートフォンを見ても案の定、両親からの連絡はきてなかった。

 あのとき勢いもあって飛び出るように帰ってしまったが、朝にシャワーを浴びている最中、それは正解だったなと、ふと頭に浮かんだ。

 あの家で掃除をしても両親が狂乱しなかったのは僕の部屋と浴室の二つだけだった。

 汚れたヌメリのある浴室に裸で、ましてや汚れたバスタブに溜めたお湯に浸かるなんて考えただけでも耐えられないので、バスタブはお風呂に浸かったあと必ず、浴室は定期的に僕が掃除していたのだが、あの両親のことだ……僕がいない一ヶ月の間に一度でも浴室に発生した黒カビやヌメリ汚れを落としたとは思えない、それどころかバスタブを一度でも洗ったかすら怪しい。

 今回僕を帰省させたのは親戚の集まりだけが理由ではなく、浴室の掃除をさせることも目的の一つだったのではないだろうか。

 ゴミ置き場にされた自室と合わせて、カビとヌメリに包まれた浴室までを目の当たりにしていたら僕はどうなっていただろう……実家には僕の寝る場所はない、汚いお風呂場には入りたくない。

 一人で暮らしをしてみてはっきりと分かった。あの家と両親をできることなら僕はもう見たくないと。

 大学在学中は、帰って来いと言われても、なにかしら理由をつけてもう帰るのはやめよう。

 大学を卒業して即仕送りが停止しても暮らしていけるように、バイトをしてしっかりお金を貯めておいて、卒業と同時に就職もできるように頑張ろう。

 僕のような精巣を欠損したような人間に彼女なんてどうせ望めないし、結婚なんて夢のまた夢で、生涯を一人で過ごさなくてはならないだろう。

 僕は骨から細い色白の細腕をまじまじと見ながら、前腕部の筋肉に力を入れたあと肘を曲げて力を込め、上腕の力こぶをつくってみた。

 我ながら筋肉に力を込めても、脱力時との差があまり分からない。

 中学生の成長期に精巣を失ったために、体内のテストステロンが充分でない僕の筋力は一般の男子よりも著しく弱く、女子に毛が生えたくらいの筋力しかない。

 これから一人で生きていくなら、多少の重い物でも一人で動かせるようにならなくては……。

 僕はその日の午前中にタブレット端末を手に取って、極力お金がかからなく設備の良いトレーニングジムを検索してみると、大手のフィットネスクラブは入会金やカード作成料が約五〇〇〇円に週二回通えるプランだと月会費が約八〇〇〇円からの値段に驚き、中堅どころのジムで週の施設回数使用制限なしで二四時間営業のジムだとだと月会費が約七〇〇〇円。

 毎週欠かさず行けるとは限らないし、この金額を毎月払い続けるのは正直キツそうだ。

 他に調べてみると、区で経営されているトレーニングジムがあるらしい。

 区営だなんてどうせしょぼい施設や器具に決まってるしな……。

 僕はなんの期待もなく区スポーツセンターのホームページを開き、ただ確認のためにトレーニングジムルームの項目をタップすると…。

「あれ?」

 思っていたのとは違う、キレイで広い室内にラボードやコードレスバイクは勿論のことスッテッパーやアークトレーナーのカーディオ系のマシンに、身体の部位を一通り鍛えられるウエイト系マシンとフリーウエイト器具がずらりと並んだ、ジムの紹介画像が表示された。

 タブレットに表示された区スポーツセンターのHPを下にスライドさせていくとジムにある全てのマシン一つ一つの名前と、どこの部位を鍛えられるのかの説明が丁寧に書かれている。

 この大手フィットネスクラブにも負けずとも劣らない広さと設備に、良い意味で期待を裏切られたが問題は月の会費だ。区営といってもこの設備、大手より一〇〇〇円安いくらいなのではないだろうか。

 僕は利用料金・利用時間という項目をタップし確認してみると、

「なるほど利用時間は九時から二一時までで……利用料金は一回三〇〇円⁉ 入会金、月会費、カード作成料なしで?」

週に二回通ったとしても一ヶ月二四〇〇円というあまりにも安い破格の値段に、また良い意味で驚かされてしまった。

 僕のようにジム通いを始めたにせよ続けられるか分からない人間にとって行かなくても毎月同じ料金を取られる月会費は怖いけど、月額ではなく一回の利用ごとに料金を支払うという形なら自分のペースで通えるし、通い続けられなくなっても退会手続きなども必要ないのが楽だ。

 利用方法として初めて区営ジムを利用する際はビギナー講習会を受けなければならないようだが、講習会の予約は必要なく全ての営業日で受付をしていて、行けばすぐに受講させてくれるとHPに書いてある。

 僕は大学一年次と教職課程に必修科目の体育で使用しているウェアと体育館用シューズをリュックに詰めると、昼食の準備に取り掛かった。

 思い立ったが吉日。今日の予定は、卵入り袋ラーメンの昼食を終えたら区スポーツセンターを訪ねてビギナー講習を受講すること。



 四月の終わりから区営のジムに通い始めて四ヶ月になり、我ながらよく続いていると思う。

 自宅で一〇回もできない腕立て伏せやスクワットをして筋肉に効いてるかどうかも分からない筋トレをするより、一セット一〇回を三セットできる軽いウエイトから選べて筋力が増してきたら徐々にウエイトを増やすことができるトレーニングマシンで無理なく運動できるところが、テストステロンが足りず絶望的に筋力のない僕に合っていたのかもしれない。

 それにトレーニングマシンでちゃんと部位ごとの狙った筋肉に効くよう鍛えてあげると、やればやるだけ成果が見える形であらわれるのがとても楽しい。

 基礎筋力がなく筋トレのフォームすら分からなかった僕のような人ほど、ジムでインストラクターさんに教えてもらいながら鍛えた方が効率が良かったんだと思い知った。

 ジムに行くと思い立ってから今まで欠かさず週に二回通い続け、マシンで一通り全身を鍛え続けたおかげで、身体の筋肉の層が厚くなりヒョロっとした印象のあった身体のラインにメリハリがつき日常生活で今まで重たいと感じていたものも比較的楽に持ち上げられるようになってきた。

 そろそろ、あれをやっても良い頃合いじゃないだろうか。

 僕はジムの一角にある、硬質ゴムのジョイントマットで一段高くなったフリーウエイトエリアに置かれたベンチプレス台に目をやり、今は誰も使う人がいないことを確認すると、そこへ移動した。

 マシンでトレーニングをしながら遠目に見て、やってみたいと思ってはいたが、三台あるベンチプレス台にはそれぞれいつも仲の良さそうなグループ数人に囲まれていて、そのグループ内でベンチプレスを上げる人、補助につく人、と回しているので非常に輪に入りにくいと思っていた。

 それが、いつもならフリーウエイトエリアにはベンチプレスをする人やパワーラックの中でバーベルスクワットやデッドリフトなどをする人がいるのだけど今そこを利用している人はおらず、気兼ねなく誰の目も気にしないで初めてのチャレンジをするにはもってこいの環境だ。

 僕はベンチプレス台のラックに掛かったバーベルに、とりあえず一五㎏のプレートを両側に一枚ずつ差し込むと、ベンチに仰向けになってバーベルの中心越しに天井を見た。

 いつもベンチプレスをしている人たちは、これより重い二〇㎏のプレートから一セット目を始めて軽そうに一〇回ほど上げて、二セット目から段々とプレートを足しているのを見かける。

 僕は初めてなので、まずは様子を見て三〇㎏から。

 僕はバーベルを握ってラックから外そうとしたとき、そういえばバーベル単体の重さって何㎏なんだろう? と、一つの疑問が頭に浮かんだ。

 多分五㎏くらいだろうか、プレートと合わせて三五㎏、それならベンチプレスと同じような動きをするトレーニングマシン、チェストプレスで数回上げたことがあるし、一回を目標にしてやれば大丈夫だろう。

 僕は思ったよりも重く感じるバーベルをなんとか浮かしてラックから外すと、両腕を伸ばして握った両手の上でバランスを取るように胸の上でしばらく保った。

 やっぱり重いけど、ラックから上げるときは少し余裕があったし一回なら上がるはず。

 僕は腕を伸ばした状態をから真っ直ぐバーベルを胸に下ろそうとするも、バランスを崩してバーベルを落とさないようにするのが精一杯でユラユラとぎこちなく、ゆっくりと肘を曲げ腕を落として下げ……いや、僕の腕はバーベルを支えきれずゆっくりとバーベルに押しつぶされ、胸骨を数㎝凹ませたところで止まった。

 ベンチ台とバーベルに胸が挟まれて息が苦しい。バーベルに押しつぶされた状態から持ち上げようと何度も試みるも、まったく動く気配がない。

 僕は無我夢中で全身に力を入れるべくベンチ台の上で仰向けの状態から足を突っ張って腰を浮かせると無意識にブリッジをしたような体勢になった。

 その体勢になると多少はバーベルを持ち上げようとする筋肉に力が入りやすくなったが雀の涙程度の効果しかなく、腰を浮かしブリッジをしたような体勢になったせいで胸を潰していたバーベルがズレ動き、今度は僕の首を潰したところで止まった。

 胸が潰れたときの息苦しさとは違い、首が潰れた状態では気道が塞がり息ができず声も出せない。こんなことならバーベルが胸にあったときに自分でなんとかしようと考えず声を上げて助けを求めればよかった。

 僕はもがきながら、なんとか首に食い込んだバーベルを外そうとするが持ち上がらず、胸の方にズラそうにも鎖骨を越えられない。

 このまま僕は死ぬんだ……せっかくあの家と両親から離れて、一人暮らにも慣れてやっと自分らしい生活を毎日楽しく送れるようになってきたのに、禍福は糾える縄の如し、こんなつまらない死にかたをするほどの不幸に見舞われる裏返しなら、今の充実した生活はとても幸福なことだったんだろう。

 例え死んだあとでも、あの家に戻るのは嫌だ……。

 死というものをすぐ隣に感じてもなお、あの実家への嫌悪感が頭に浮かんだとき、突然首が圧迫感から解放されて、気道が通るようになり僕は数十秒ぶりに大きく呼吸を再開した。

「大丈夫か⁉」

 その声に硬くつぶった瞼を開けると、まず目に飛び込んできた光景は、お花畑でも天井でもなく、人の股間だった。

 その股間の人はベンチ台に仰向けになった僕の顔を左右に跨ぐように立ち、僕がいくら持ち上げようとも押してズラそうにもビクともしなかったバーベルをいとも簡単に持ち上げてラックに戻してくれたようだ。

 僕はまた数回大きく呼吸をすると急いで立ち上がり、身体の向きを変えて助けてくれた人と向かい合った。

 その際、顔に温かく柔らかいものが触れたような感じがしたが気にしない。

「ありがとうございます助かりました、大丈夫です」

 僕は呼吸を整え圧迫されていた首を手で触れながら、その人にお礼を言った。

「無理してない? 本当に大丈夫?」

 その僕を助けてくれた背が高く逞しい人は、僕に近づき様子を見ながら念を押すように聞いてきた。

「はい、もう大丈夫です」

 僕はやはり正直にそう言うと、その人は僕の答えに安堵の表情を浮かべた。

 この人には見覚えがある、よく何人かでベンチプレスを囲み楽しそうに上げている人の内の一人だ。

 彼は安堵の表情から顔を引き締め、僕の目を見ると口を開いた。

「身体と潰れかたを見れば分かるが君ベンチプレス初心者だろ、それなのになんで一人でセーフティーバーも上げずにやってるんだ」

 見たところ彼とあまり年齢は違わないようだが、その静かに高すぎず低すぎない声で叱る口調は僕よりとても大人びていて、高い身長とウェアの上からでも見てとれる発達した筋肉から貫禄さえ感じられた。

「すいません…三五㎏くらいなら上がると思ってて……」

 僕がそう言うと、彼の顔は少し困惑したような表情に変わっていく。

「どういう計算か知らないけど、そのオリンピックバーベルシャフトが二〇㎏でプレート一五㎏が二枚ついてるから五〇㎏だぞ……初めてならなおさら一人でやっちゃだめだよ」

え、三五㎏じゃなくて五〇㎏だった……バーベル一本で二〇㎏もあったなんて、そりゃ上がらない訳だけど、この人……三五㎏なら分かるけど、僕を潰していた五〇㎏のバーベルを軽々と持ち上げて助けてくれたってこと……?

「このオリンピックシャフトが二〇㎏、あそこの両端も細いシャフトが一〇㎏、あの短いWの形になったバーが一〇㎏」

 彼はベンチプレス台のラックに納まったバーベルに手を置いたあと、その手を言葉の順に指さして呆れるように言った。

 彼からこのあとに出てくる言葉は多分こうだろう。

 そんなことも知らずに、たった五〇㎏で潰れてるようなやつは邪魔だからこの中に入ってくるな。

 そうだ、この人はいつも五〇㎏よりも重いバーベルを軽々と上げている。彼のウオーミングアップより軽い重量でさえ上げられなかった僕にベンチプレスなんてできるはずがなかったんだ。

 彼の口から蔑むような言葉が出てこないうちに、僕はその場を離れよう。

 僕がベンチプレス台から離れようと彼に背を向けたとき、

「まずはバーだけでやってみな」

声と、バーベルからプレートを抜き、硬質ゴムの床に置く音が背中から聞こえた。

「そっち側のプレートは自分で抜いて、あとやるときは必ずセーフティーバーを最低限首と顔が守れる位置まで上げること」

 え…? いつもなら否定的な言葉を浴びせられるのに……。

 僕は振り返ると、彼をそれを待っていたようにこちらを見て微笑んでいた。

「一緒にベンチやろっか」

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