第11話 絶望の読み
協会の廊下を歩くタツヤの足音が、夜の静けさに沈み込むように響いた。
薄い蛍光灯が天井で揺れ、ひどく頼りない光を床に落としている。
胸の奥が、焼けるように熱かった。
ルアンの姿が、何度も何度も脳裏に再生される。
あの濁った瞳、震える指、小さく握られた白い粉。
そして、それを“恐怖を消す薬”だと信じてしまった幼い声。
(守れなかった……俺は)
罪悪感と怒りが渦を巻き、呼吸が浅くなる。
足音は次第に速くなっていった。
扉の前に立つ。
向こう側にはアキヤマがいる。
“秩序”という言葉で街を形作ってきた男。
タツヤが尊敬し、読みたいと願い、理解したかった男。
だが今、その尊敬はひび割れていた。
タツヤは深く息を吸い、扉を開いた。
部屋の中央、アキヤマはいつものように盤の前に座っていた。
白い駒が整然と並び、灯りの下で静かに光っている。
動きがまるでない。
呼吸すら薄い。
だがその静止は、嵐の中心にいるような緊張を孕んでいた。
「……あの子が壊れたんです」
タツヤは抑えていた声を吐き出した。
震えを抑えられなかった。
アキヤマは視線を盤に落としたまま、軽く駒を弾いた。
カチ、と小さな音が部屋に響く。
「ルアンが……麻薬に手を出した。
協会の近くで配られていたんですよ」
その言葉でようやく、アキヤマは顔を上げた。
だが驚きも動揺もない。
まるで当然の結果を聞いたかのようだった。
「彼は弱かった」
「違う!」
タツヤは机を叩きそうになるのを必死に抑えた。
「弱くしたのは、この街だ。
あなたの言う“秩序”だ!」
アキヤマの瞳が、ゆっくりとタツヤを射抜いた。
冷たく、しかしどこか炎の芯だけが残ったような、静かな光。
そして、決して折れない意志がそこにあった。
「タツヤ。君はまだ知らない。
この街は“正しさ”だけでは回らない」
淡々と言い放つ声が、むしろ恐ろしく聞こえた。
「犠牲があるからこそ、秩序は立つ。
それを“悪”と呼ぶなら、私は喜んで悪になる」
「……子どもを犠牲にしてまで?」
アキヤマの返答は一切迷いがなかった。
「そうだ。
誰も死なない街など、存在しない。
誰かの死が、誰かの明日を支える。
それがスーパウロだ」
タツヤは言葉を失った。
アキヤマの表情は平然としていたが、その“芯”は狂気に近かった。
正しさではなく、結果だけを選び抜いた男の覚悟。
怒りをぶつけても、砕けるだけだと直感した。
「……それでも、何か別の方法があるはずです」
声がかすれた。
反論というより、祈りに近かった。
アキヤマはゆっくり目を細めた。
その顔には、わずかな笑みすら浮かんだ気がした。
「ならば見つけてみろ。
記事でも正義でもなく、“読み”で示せ」
挑発でも叱責でもなく、純粋な要求。
まるで、目の前の青年を駒のひとつとして試しているかのようだった。
沈黙が落ちた。
時計の針の音が、不気味なほど大きく響く。
タツヤは何も言わず、重い扉を押して外へ出た。
胸の中には怒りではなく、燻り続ける熱だけが残った。
(――この男を、盤の上で読んでみせる)
それが、かろうじて自分を支える唯一の誓いだった。
扉が静かに閉まる。
廊下へ消える足音が遠ざかっていく。
アキヤマはしばらく盤を見つめていた。
駒ひとつひとつの位置を、丁寧に目でなぞっていく。
やがて、薄暗い部屋の奥から低い声がした。
「……襲いかかるかと思いましたよ。
なぜ、あの男を消さないんです?」
暗がりの中に立つ黒服の男。
気配は影そのもので、先ほどまでこの部屋にいた気配すらなかった。
もしタツヤが一歩でも踏み込み方を誤っていたなら――
あの青年は二度と外の空気を吸うことはなかった。
アキヤマは駒を持ち上げ、盤に落とした。
カチ……と駒音が静寂を切り裂く。
「まだ使える駒だ。
“読み”を知っている者は、そうはいない」
黒服の男は黙って一礼し、そのまま影に溶けていった。
まるで存在ごと霧散したかのように。
アキヤマはひとり呟いた。
「――あの男は、まだ盤の中にいる」
駒の音だけが残り、
協会の夜は、再び深い静寂に沈んだ。




