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盤上の街スーパウロ  作者: TAMI


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第10話 歩の涙

ルアンが協会に姿を見せなくなって、十日が過ぎていた。

もともと、この街では人が急に消えることは珍しくない。

家の事情かもしれない。学校かもしれない。

誰かの都合で、あるいは街そのものの事情で、姿が途切れることなど日常の一部だ。


だが――タツヤの胸には、ひどく嫌な予感だけが残っていた。

将棋の盤面で見えない“悪手”を察したときの、あのざらつく感覚に似ていた。


夕暮れ時、取材帰りの裏通りを歩いていたときだった。

薄暗い街灯の下に、小さな影が見えた。

壁にもたれ、かすかな呼吸をしている背中。

その輪郭を見た瞬間、タツヤは足を止めた。


「……ルアン?」


声が自然に漏れた。


ゆっくりと振り向いた少年の顔は、タツヤの記憶とはまるで違っていた。

頬はこけ、目の奥はどこか濁り、唇は乾き切って白くなっている。

あの真っすぐな光はどこにもなかった。


そして、少年の小さな手。

そこには、透明の袋が握られていた。

白い粉が、街灯の光を受けて鈍く光った。


タツヤの心臓が、ひとつ大きく跳ねた。


「……それ、どうした」


問いながら、答えを聞きたくない自分がいた。


ルアンはかすかに笑った。

その笑顔の形だけは昔と同じだったが、中身が空っぽだった。


「先生……これ、もらったんだ。

 少し吸うとね、怖いのが、全部なくなるんだよ」


タツヤの呼吸が止まった。

耳鳴りがして、路地裏の喧騒が遠のく。

胸の奥で、なにかがゆっくりと崩れ落ちていった。


「誰に……もらった?」


少年は迷いなく答えた。


「協会の近くに来る車の人たち。

 “将棋がんばってる子は特別だ”って……褒めてくれた」


タツヤの視界が、一瞬だけ真っ白になった。


協会の近く。

“がんばってる子は特別”。

それは、利用する側がよく使う甘い言葉だった。

未来を見せかけて、足元を奪う言葉。


「ルアン……」

タツヤは言葉にならない声で名を呼んだ。


近くに寄り、そっと肩に手を置く。

その肩は軽く、骨が浮き出るほど弱っていた。


「それには、頼るな。

 な? あれは、お前の力を奪うだけだ」


「でも……もう、やめられない」


小さな声だった。

その声の弱さに、どれだけ独りで苦しんでいたのかが伝わる。

タツヤは目を閉じ、ゆっくりと息を吸った。


「……来い。うちで休め」


そうしてタツヤは、少年の細い肩を支えながらアパートに連れ帰った。


 


自宅に戻ると、温かいスープを作った。

ルアンは震える手でスプーンを握り、こぼしながらも必死に口へ運んだ。

その姿は、かつて初めて角の使い方を教えた日の、あの真剣な表情と重なる。

まだ、どこかに力が残っている。


「……先生、ごめんね」

食べ終えたあと、少年がぽつりと呟いた。


タツヤは首を振った。


「謝るな。悪いのは、お前に渡した奴らだ」


ルアンは小さく頷くと、そのまま眠りに落ちた。

寝息は浅く、苦しげだったが、確かに生きていた。


タツヤはベッドのそばに座り、拳を握りしめた。


(守るはずの秩序が……子どもを壊している)


胸の奥で、熱いものが渦巻く。

静かに燃える怒りと、自分自身への苛立ちと、どうして気づけなかったのかという後悔。


アキヤマが語った“必要悪”。

暴力も麻薬も、線の内側ならコントロールできる。

それが街の安定を守る――そう信じてきた。


だが、その線が子どもに触れた瞬間、すべての理屈は吹き飛んだ。


タツヤは窓の外を見た。

スーパウロの夜は、いつもと変わらない静けさだった。

車のライトが流れ、人々が笑いながら歩いていく。

この街には、ルアンの涙を知る者は誰もいない。


「……子どもに手を出すのは、違うだろ」


その呟きは、震えていた。

怒りか、悲しみか、自分でも分からなかった。


だがその瞬間、胸の奥に積もっていた“何か”が確かに決壊した。


 


タツヤは机に向かい、盤を広げた。

いつもと同じ木の匂いがするはずなのに、今日はどこか冷たい。

駒を並べても、心は整わない。

どれほど守りを固めても、盤の外から崩される。

自分の読みは、まだ足りていない――そう突きつけられた気がした。


「……師匠。俺はあなたを読む。

 そして、この街を……もう一度、読み直す」


タツヤは歩を指先で弾いた。

小さな駒が、乾いた音を立てて倒れた。

それはまるで、少年のこぼした涙のように、静かに転がった。

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