第11話 絶望の読み
協会の廊下を歩くタツヤの足音が、夜の静けさに沈んで響いた。
怒りで胸が焼けている。
ルアンの顔が、何度も脳裏に浮かんで離れなかった。
扉を開けると、アキヤマはいつものように盤を前にしていた。
白い駒が整然と並び、灯りの下で静かに光っている。
「……あの子が壊れたんです」
タツヤの声は震えていた。
「ルアンが、麻薬に手を出した。協会の近くで配られていたんですよ」
アキヤマは駒を指先で弾き、淡々と返す。
「彼は弱かった」
「違う! 弱くしたのは、この街です。あなたの“秩序”だ!」
アキヤマの瞳が、ゆっくりとタツヤを射抜いた。
冷たくも、静かに燃えるような視線だった。
「タツヤ。君はまだ知らない。
この街は“正しさ”だけでは回らない。
犠牲があるからこそ、秩序は立つ。
それを“悪”と呼ぶなら、私は喜んで悪になる。」
「……子どもを犠牲にしてまで?」
「そうだ。
誰も死なない街など、存在しない。
誰かの死が、誰かの明日を支える。
それがスーパウロという街だ。」
その声には、揺るぎがなかった。
怒りをぶつけても、届かない。
理屈ではなく、信念そのものがそこにあった。
「……それでも、何か別の方法があるはずです」
タツヤはかすれた声で言った。
アキヤマは静かに目を細める。
「ならば見つけてみろ。
記事でも正義でもなく、“読み”で示せ。」
沈黙が落ちた。
時計の針の音だけが、部屋を満たす。
やがてタツヤは、重い扉を押して出ていった。
――この男を、盤の上で読んでみせる。
その決意だけが、残された熱だった。
*
扉が静かに閉じる。
アキヤマはしばらく盤を見つめていた。
やがて、薄暗い部屋の奥から声がした。
「……襲いかかるかと思いましたよ。
なぜ、あの男を消さないんです?」
暗がりの中、黒服の男が立っていた。
影のように、気配を殺していた。
もしタツヤが一歩でも踏み込んでいたら、
この部屋を出ることはなかっただろう。
アキヤマは駒をひとつ持ち上げ、盤上に落とした。
軽い音が響く。
「まだ使える駒だ。
“読み”を知っている者は、そうはいない。」
黒服は黙って一礼し、再び闇に溶けた。
アキヤマは独り言のように呟く。
「――あの男は、まだ盤の中にいる。」
駒音だけが残り、
夜の協会は再び静寂に包まれた。




