復活とセカイの再生
パンチが当たった瞬間のことはよく覚えている。
鏑海音は腕を交差させて防御した。その上から僕の振りかぶった拳が当たり、鏑海音を吹っ飛ばした。鏑は縦に回転しながら飛んでいき、道路の舗装面を三十メートル間ガリガリと削ることで停止した。
主人がやられたことで召喚に影響が出たのか、千手観音が幻影のように薄れていく。紅色のグロテスクな卵が割れて、中からボロボロになったお姉さんが零れ落ちる。生死の判別は付かなかった。すぐに駆け寄りたかったが、遠くの方で動きがあった。
「…………」
アスファルトの残骸から起き上がった魔女は驚愕を浮かべ、その両腕は変な方向に曲がっていた。負傷した魔女を見つめ、僕は自分でも信じられない気持ちで掌を見た。まさか僕が怒りで我を忘れることがあるとは思わなかったし、攻撃が鏑海音に当たるとも思わなかった。何よりも、あんなに吹っ飛ぶとは。
刑事のお姉さんとの殴り合いでも傷一つ負わなかった鏑矢の魔女が、僕の一発で両腕をへし折られている。これはいったいどういうことだろう。
僕は、魔女の顔に一瞬だけ恐怖が浮かんだのを見た。七次元の魔女が、僕を怖れているのだ。あんな我武者羅のパンチが当たった程度で恐怖する? あれが、さっきまで残虐行為に喜々していた存在だろうか?
僕は、まさか自分には秘められた力が? という酔い痴れた仮説を、思いついた瞬間に否定した。僕は特別な人間じゃない。それは自分がよく理解している。では、どうして? と疑問が一周する。
鏑海音が立ち上がり、強気の笑みを浮かべた。両腕が瞬く間に修復していく。
「……ギャハハッ! やるじゃない。つい油断しちゃったわーん。でも残念お生憎様。ここから先は遊びなし。私に傷を付けたこと、後悔させてあげるぅ!」
鏑海音が右腕を突き上げた。双頭の大蛇が空間を割って表出する。そのサイズだけで互いの距離を縮めてしまえるレベルの大蛇が、僕に圧し掛かってきた。
「いや、あのさ」
僕は、大蛇に対して右の裏拳を振った。爆発したような威力が僕の手元で生じ、双頭の大蛇が弾かれ、仰け反った。全長五十メートル、胴体幅二メートル近い大蛇が、僕の何気ない攻撃で吹っ飛んだ。
「…………」
あまりに荒唐無稽な現象に、僕は呆けてしまう。
大蛇が霞となって消えていく。その向こうで立ち尽くす鏑に、僕は改めて言った。
「直接殴りかかってくればいいだろ。遣い魔とか使わないで」
「はああ? ちょっと何言って……」
しどろもどろする鏑海音。
「とぼけるなよ」僕は距離を縮めていく。「何が駄目なんだ、鏑海音。さっきまでお姉さんとドンパチやっといて、僕には手を出せないっていうのか?」
お姉さんが移動中の車内で話していたことを思い出す。魔女は理科室で僕を見逃した。今朝の逃走劇で仕掛けてきた攻撃はどれも効果的なものではなかった。魔女が僕を殺さないのには、何か理由があるんじゃないか、とお姉さんは推測した。
「でも、どうなんだ? 夢の中じゃ教えてくれなかったよな。味方になって欲しいのかと思ったけど、それにしちゃあやり方が野蛮だ。暴力を見せ付けて脅迫する。敵意むき出しで、とても歓迎しようという雰囲気じゃない。じゃあ、お前が僕を攻撃しないのは、逆に僕の攻撃がお前に届くのは、どうしてなんだ?」
僕は、鏑海音の直前に立った。鏑が後ずさって尻餅を着いた。
そのときの鏑の表情を見て、僕はすとんと落ち込む感覚を得た。
「……ああ、そうか。ようやく分かったよ。鏑矢の魔女」
僕がそう言うと、鏑矢の魔女は僕の瞳を見つめながら、ゆっくりと首を左右に振った。続きの言葉を拒む魔女に、僕は言葉を突きつけた。
「お前は、僕が恐いんだ」
その途端、魔女が目を大きくかっ開いた。
「……ッ! ば、馬鹿げたことっ! 私が、カス虫を恐がるなんて……!」
声が震えている反論を、僕は踏み潰すように、立て続けに言った。
「お前は、僕に近づくのが恐いんだ。僕と戦うのが恐いんだ。僕が、恐い。恐くて恐くて堪らない。僕に勝てないと思い込んでいる。そうなんだろう? お前が僕を殺さない理由は、単純と言えば単純だな。お前は僕を殺せないんだ。絶対に僕には敵わないと、そう決めつけてしまっている。僕の前で狂ったように振る舞っていたのも、恐怖を紛らわすためだ。僕を仲間にしようとしたのも、敵に回したくなかったから。そう分かってしまえば、何とも哀れで滑稽な話だ。何でもできる魔法使いが、ただの捻くれた子供にビビった挙句、天敵に仕立てあげてしまったんだから」
認識が現実を歪め、想像でもって法則に干渉する。
一度そう思い込んだのなら、それは現実となるのだ。鏑矢の魔女は僕への恐怖を克服することができず、逆に自分の恐怖によって、僕を無敵の存在にしてしまった。
鏑は僕に反抗して欲しくなかったのだろう。だから先手を打って、クラスメイトを惨殺したり、隕石や雷撃などの派手な攻撃をしてみせたりして、僕に恐怖を植えつけようとした。そうやって、魔女には絶対に敵わないと、僕に思わせようとした。
だけど、その虚勢は一度歯向かわれただけで瓦解してしまう脆弱なもの。
僕が近寄ると、鏑海音はその分後ずさる。
「いや……、来ないで……」
「でも、不思議だ。どうして、僕を恐がっているんだ?」
理由が思いつかない。僕がベヒモスを撃退したからだろうか? 僕がイレギュラーを寄せ集めるから? それとも委員長の頃の記憶がそうさせるのか? いいや、どれも違う。僕がベヒモスを倒したとき、今思えば、あのときから僕の力は度合を超えていた。それも魔女にとって僕が恐怖の対象だったからだろう。
鏑矢の魔女が抱えているのはもっと根源的な恐怖。
殺されかけたか、殺されたか。そのレベルのトラウマだ。
「まあ、僕はこう見えても平和主義だからね。相手を痛めつけようだなんて、家族以外には滅多にない。ただ最近だと一回だけあったかな。確か、日曜日に」
俯いていた鏑海音が、肩を跳ねさせる。鏑は自分の身を抱きしめながら、顔を青褪めさせて奥歯を細かく打ち鳴らす。
「……い、いや、言わないで。それ以上は……」
「――日曜日に、僕は泥棒を撃退した。始めは見逃してやろうと思ったんだけど、思わぬ抵抗をされて、つい手を出しちゃった。まあ、実際に出したのは足なんだけど。画鋲で足を止めて、フリーキックで手首をへし折った。今思えば悪いことしたね。そのせいで殺人鬼に消されちゃったんだから。泥棒は初老の女性で、名前は宝薮子。これは偽名だと思うけど」
僕が話すにつれて、鏑海音の震えが強まっていく。こうして恐がる姿を見れば、普通の少女にしか見えない。もうそこに魔女の傲慢は欠片も存在しなかった。
僕は話を続ける。
「どういう理屈か、僕には説明できないけど、あの泥棒はお前だったんだろう?」
泥棒の老女と、七次元の魔女が同一人物だ、と僕は言った。
鏑海音は俯き、否定も肯定もせずに震える。
「発想が跳躍しすぎているし、もっと論理的な解釈は沢山あるんだろうよ。あれはたった一週間前の話で、しかも会ったのは老婆だ。鏑と泥棒が同一人物だなんて、どう捻ったところで出ない。でも、ある魔女がこう言っていた。時間軸が違うんだって。そしてあの泥棒は、こっちの世界に存在しない人間、異次元界の住人だった」
僕は、もう相手の反応を確かめないで、思いつくままに喋り続けた。
「これは単なる妄想だけど、あの泥棒はあんたの未来の姿だったりしてな? こっちの世界に『落ちて』、年老いて、空き巣に落ちぶれた、哀れな姿だ。ある日、お前は自分の最期の運命を知ってしまった。野望を果たせぬまま、自分が見下していた世界に落ちて、ひもじい生活を送り、最後はただの子供にやられる。……もしかしたら、あんたはそんな悔しい未来を変えようとしたのかな?」
僕は生気を失った鏑海音を睨みつける。
「まあ、この仮説が違っていても問題ない。どうせ思いつきのヘリクツだ。重要なのはこの推理が真実かどうかじゃなくて、僕が信じられるかどうかだ。そして、僕はこの仮説に納得できた。これ以上なくすっきりした。僕は、鏑矢の魔女が泥棒の老女だと、認識した。お前の運命は、今、ここで確定した。もう覆せないぞ」
「……あああ、ッあああああぁ!」
鏑海音が半狂乱して襲い掛かってきた。僕は押し倒される。馬乗りになった鏑が、こちらの首に手を掛けてきた。怒り狂った鏑の顔が、見る見るうちに老いていき、よぼよぼの老婆に変わっていった。もはやそこに鏑海音の面影はない。老婆の両腕は枯れ木のように細かったが、篭められた力は凄まじかった。さらに魔女は僕の気道に親指を当て、体重を掛けてきた。僕は必死で抵抗するも、老婆の細腕を振りほどけない。
「……ッ!」
そのとき、黒い残像が眼前を走り、ぐじゅり、と湿った打撃音が聞こえて、僕の上にいた老婆の魔女が吹っ飛んだ。僕は慌てて身体を起こし、黒い残像が地面に下ろされるのを見る。頭上から冷たい声が聞こえてきた。
「いつまで座り込んでいる。貴様も蹴り飛ばされたいか」
「いや、それは勘弁」僕は立ち上がって、彼女を見上げた。
そこにいるのは黒スーツの長髪の女性。見た目は同じだが、中身が丸っきり違う。僕は本名を知らないので、その肩書きから彼女をこう呼んだ。
「どうもお久しぶり。殺人鬼お姉さん」
「お姉さんと呼ぶな。殺人鬼でいい」殺人鬼お姉さんは無表情でそう言った。
「いや、殺人鬼じゃ他の殺人鬼と区別できませんし」
「他に殺人鬼がいるのか?」
その言葉に僕は苦笑いする。ええ、そりゃ滅多にいないけどね。
視界の隅っこで、鏑矢の魔女が顔面を押さえて起き上がろうとしていた。魔女は僕の隣に立つ殺人鬼お姉さんを確認し、「ど、どうして……」と呟いた。口を開いた際に、前歯が欠けているのが見えて、僕は少しだけ同情する。
「どうしてって、お姉さんはさっきからここにいたじゃない」
僕はあっけらかんと言った。
「ち、違う……。さっきまでいたのは別の奴だ。そっちの奴には殺されなかった。だから、恐怖を克服できたんだ……。さ、殺人鬼はこっちの歴史にはいないはずなのに……」
鏑矢の魔女が震えながら現実を否定する。
僕も、なぜお姉さんの人格が切り替わったか分からなかったので、聞いてみた。
「ああ言っていますけど、どうやったんですか?」
「自分で考えろ」無碍な一言を返す殺人鬼お姉さん。
「分かるわけないじゃないですか。ってか、あなたも自分で分からないんでしょ」
「ここで貴様も消えるか?」
……っと、やべえ! こっちのお姉さんは冗談が通じないサイコボンバーなんだった! 僕は慌てて口を塞ぎ、にっこりと笑みを浮かべた。
「いやいやそんな。ああ、カチューシャと同じ方法ですね?」
カチューシャは犬の姿で僕の元にやってきた。犬の身体に人間の精神が乗り移ることが可能なら、殺人鬼の方の精神が刑事のお姉さんに入ることも可能なのではないか。
しかし、殺人鬼の彼女は否定した。
「違う。一度だけ話そう。そもそも私の人格性が転化したのは、蓮山恋江の存在否定による歴史改変のせいだ。そして貴様が歴史改変を再修正したのは、バックアップに言われたから。そのバックアップが消えたことによって、貴様が行った歴史改変にも僅かながら影響が出た。その影響で開いた『通路』を利用して私は転化したわけだ」
「はぁ……。また、歴史の流れを変えてしまったってことですか」
「私にとってはこっちが正規のルートだ」
お姉さんはそう言うと、鏑矢の魔女を睨みつけた。魔女は見ていて痛ましいくらい震え上がり、逃げようとして足を滑らせる。膝が笑って力が入らないようだ。
殺人鬼お姉さんはゆっくりと魔女に近づいていく。老婆の魔女は殺人鬼の眼光に射竦められ、もはや震えることも止めていた。
「……鏑矢。ここで最後の一言を聞くのが優しさなんだろうが、そういう機微は分からんので一撃で砕く。死ななきゃ殺す。逃げたら殺す。復活したら殺す。転生したら殺す。来世で会ったらまた殺す。地獄で会ったら殺す殺す殺す。私は、お前を、殺す」
殺人鬼は、淡々と死の宣告を囁く。
そして殺人鬼お姉さんは片足を高々と上げ、ギロチンのごとく、振り下ろした。鏑矢の魔女が怪鳥の断末魔のような甲高い悲鳴を上げ、泡を吹いて気絶した。その途端、全身から黒い霧状のものが噴き出し、年老いた外見があっという間に若返っていき、元の鏑海音の姿に戻っていった。
断頭の踵落としは、失神した鏑海音の頭上でピタリと止まっていた。殺人鬼お姉さんはつまらなそうに鼻を鳴らして、足を下ろした。恐らくもう鏑海音の中に、鏑矢の魔女はいないのだろう。魔女は元の世界に還ったのだ。
「――――」
そのとき、透き通った鈴の多重音が、大空に響いた。
僕は色褪せた世界に彩りが戻っていくのを見た。
暗褐色の大空に朱色が差して、今の時刻が夕方であることを知る。そんなに時間が経っていたようには感じられなかったが、時間の流れる速度が違うのだろう。色彩が蘇っていくと、それと一緒に増えるものがある。音と人間だ。普段聞き流している町の生活音が四方八方から響いてくる。あまりの騒音に僕は耳を塞いだ。すれ違う女子高生や主婦たちが、佇んで耳を塞いでいる僕と殺人鬼お姉さんを不思議そうに見てくる。
次元の転移は二十秒ほどで完了した。
僕は戻ってきた町を見渡し、慎重に耳から手を下ろした。どこにも破壊の跡はなく、救急車やパトカーも走っていない。お姉さんと鏑矢の魔女が殴り合った際に巻き込んだ電柱や居酒屋チェーン店や信号機も修復されている。そして、泡を吹いて漏らしていた委員長の鏑海音も消えていた。魔女が憑いていなかったら、ここに彼女はいなかったという世界の辻褄合わせが働いて、本来いるべき場所に行ったのだろう。
日常に戻ってきた実感がじわじわと湧いてきて、僕は大きく吐息する。
殺人鬼お姉さんは、天上を見上げていた。そして、背を向けて歩いていく。別れを言わずに立ち去るのは彼女らしかったが、僕は少しの未練から呼び止めた。
「あの、待ってください」
黒スーツの背中が止まった。振り返らないが、声は届いていると信じて、僕はずっと聞きたかったことを尋ねた。
「お姉さんの名前、教えてください。そういえば聞いてなかったので」
五秒間の沈黙が返された。やっぱ駄目だったかな、と諦めかけたとき、殺人鬼お姉さんがこちらに振り向いた。
「……はあ?」
殺人鬼の彼女は呆けた声を出した。そして恐る恐ると。
「……もしかして、まだ気付いていなかったのか? 私の正体に辿り着くヒントは結構あったのだと思うのだが」
「へ? あれ? 僕の知り合いでしたっけ?」僕は首を傾げた。
「……マジか」
お姉さんは本気で呆れた風に溜息すると、背を向けて、適当に後ろ手を振る。
「次までの宿題にしてやる。じゃあね」
「あ、はい」
僕が会釈して頭を上げたときには、すでに交差点のどこにもお姉さんの姿はなかった。僕は彼女の黒スーツが見当たらないことを確かめ、小声で呟いた。
「……いや、成長して人格変わりすぎだろ、お前。普通分からねえよ」
彼女のあだ名を声には出さずに呟いて、僕は自宅方向に足を向けた。さあて、僕が入院していた件は今回の場合、どんな感じに整頓されたのだろう。
青信号を渡る。僕はのんびりと四十分掛けて、家に帰っていった。
自宅に着いてから、いつもと変わらぬ日常を消費した。コリー犬のカチューシャを散歩に連れて行き、母の作ってくれた夕飯を食べ、学校の課題に取り掛かる。
お風呂に入る前、僕は、散歩の帰りがけにコンビニで買った髪留めの装飾品とチョコのお菓子を仏壇に供えて、線香を一本焚いた。そこに風呂上がりの母がやってきて、仏壇に無言で十字を切ってから、チョコを一つくすねていった。
母が二つ目に手を出そうとしたときには、流石に叩き落とした。




